国谷「情報を整理して、、それを論理的に考えて、それを人に伝えるという、この言語力ですけども、どうやって育むことができるのか、今意外なところで新たな試みが行われています」
解説「来年6月に開催されるワールドカップでベスト4を目指す日本代表。大きな課題の一つとして、サッカー協会が力を入れているのが言語力の育成」
〈2006年 ワールドカップドイツ大会〉
解説「予選全敗という結果の前回のワールドカップ。敗因を分析したレポートで指摘されたのは試合中に仲間が自分の考えを伝える能力の不足」――
と言うよりも、ボールを保持した味方選手や防御に出る相手チーム選手の動きからそれら相手が考えていることを理解して(読み取って)、考えていることに応じた自分の動きをポジションとして与えられている役目に従って取るという理解能力(読み取り能力)をより問題とすべきでように思えるのだが。
解説「それを克服するには言語力教育に力を入れるべきということになった。めまぐるしく状況が変わるサッカー。野球と違い、監督が指示できることは限られている。自分がどんなプレーをすべきなのかどうして欲しいのか、選手には自分で考え、それを伝える力がより必要とされる。サッカー協会で言語力教育の旗振り役となった田嶋幸三(日本サッカー協会専務理事)は言語力の強化によって選手の意思の疎通だけではなく、プレーの質も上がると考えている」
「言語力の強化によって選手の意思の疎通だけではなく、プレーの質も上がる」と今更ながらに言わなければならないのは哀しい。「めまぐるしく状況が変わるサッカー」と言っているが、基本パターンがあるはずである。
田嶋幸三「なぜ自分がドリブルした。自分がドリブルしていけば、すぐシュートが打てるとか、すべてにそれぞれ理由があるはずですよね。その理由を持ちながらプレーするのがサッカーというスポーツだと思います。考えないで、判断しないでプレーしているっていう、そういう習慣をつけてしまうことが一番怖くて、そういうことにならないためにも、しっかりと自分の意思を言葉によって相手に伝えるいうことを意識的にやらせる必要が逆に日本人には必要じゃないかと思っています」
「考えないで、判断しないでプレーしている」といったことはまず存在しないはずだ。選手としての役目を全然果たさないことになって、チームから排除されることになるだろう。考えや判断が月並みとか浅いとか、的外れで間違っているとかのプレーは存在する。ボールを保持している選手が味方の選手がシュートする絶好の位置に動いてくれないために仕方なくその選手の位置にパスして、その選手がパスを受けてシュートで応じたものの、ふさわしい位置でなかったために相手選手に阻まれたりしてシュートが失敗するといったことはよくある場面であろう。
解説「言語力強化の舞台となっているサッカー協会が運営する研究施設(JFAアカデミー福島)で3年前から未来の日本代表を目指す中高生を対象に行われている。これは自分の考えを論理立てて説明する訓練」
(指導:つくば言語技術教育研究所)
女性指導員「今日は実際に道案内、いうう(ママ)課題を使って、説明します」
手作りの地図を使う。
解説「お年寄りが駅から美術館までの逆順をどう説明したら、いいのかを考える」
生徒が二人で相談し合う。
「まっすぐ行って出ると、まっ正面に(美術館が)あるから、分かりやすいかもしれないから」
解説「なぜそのルートを選ぶのか、さらにそれをどう説明すれば、分かりやすいのか、突きつめながら議論していく。どんなことでも自分の考えを簡潔に分かりやすく説明する。そうした訓練を通じて、選手の意識改革が進んでいる」
一人(インタビューで)「自分はあんまり人に意見を言うタイプじゃなかったんですけど、こっちに来て、自分の意見を人に伝えることができて、自分のサッカーも他人に分かってもらったり、逆に他人のサッカーも自分で分かるようになりました」
そういう方向を目指す教育が成果として求めている成長に添った非常に模範的な回答となっているが、サッカーの動きには基本パターンがあっても、基本に則りながら相手チームのめまぐるしく動き回る複数のデフェンスを一度に相手にして、その裏をかく動きを瞬間瞬間で判断していかなければならないから、模範的な回答通りにはいかないのではないだろうか。
言語力を基礎から鍛えて、自分で考える力を養うという取り組みを始めている大阪 堺市浜寺小学校――
解説「この小学校ではサークルタイムという授業を取り入れた。毎回テーマを決めて自分で意見を発表する。その日、3年2組に与えられたテーマは大きくなるって、どういうことだろう」
ひとクラスをいくつかのグループに分けて、それぞれのグループが教室の床に殆んどが足を立て、その膝に手を置くポーズで直に車座になって(サークルを描いて)座っている。女教師が生徒に挟まれて正座している。
男の子「筋肉がもりもりになると思います。なぜなら、大きくなったら、背も伸びるし、体重も増えるから」
「大きくなるって、どういうことだろう」を身体的な成長と把えた意見だが、そういった女教師の解説もなく、意見を言っただけで次の生徒に移っていく。
女の子「できることが増えていくことだと思います。なぜなら――」
成長と共に広がっていく活動範囲の広がり、あるいは行動範囲の広がりから把えた意見だが、女教師は解説も、他の生徒に意見を聞くこともしない。
解説「先に結論を言い、そのあと、『なぜなら』をつけて理由を述べることを子どもたちは教えられている」
女の子「大きくなるってことは心が成長することだと思います。なぜなら、心が成長すると、自分のことも一人で考えられるし、自分が言われて傷つく言葉を人に言わないようにできるからです」
女教師「スゴーイ。拍手」
車座になった生徒たちが一斉に手を叩く。
なぜ「スゴーイ」のかの説明がないばかりか、生徒同士のそれぞれが口にした意見なり、主張なりを取り上げて議論し合うこともない。「スゴーイ」と思わずに聞いている生徒もいるはずで、受け止め方は一様ではないはずだが、「スゴーイ」とする自分の価値判断を生徒に押し付ける権威主義を犯し、拍手させるという機械的な従属的動きを誘導、悪く言うと強要している。
どこがどのように「スゴーイ」のか説明して生徒に理解させる努力をするか、今の意見をどう思いますかと尋ねて、お互いに議論して一つの意見を掘り下げていき、最終的に生徒それぞれの判断に任せるべきで、教師が説明したり、生徒同士が議論し合うことで求めることになるその時々の判断が考える力――「言語力」を育む要素となるはずだが、そういった手続きを一切含まず、単に言って終わることと価値の押し付けだけが見えるのみである。
学校全体の「言語力」育成の取り組みとして「サークルタイム」を設けている以上、教師同士で方法の良し悪し、内容や成果を話し合ったり情報交換しているはずだから、その時点での方法は学校が考え得る最善の方法でなければならない。意見の言いぱっなしで議論し合うこともない、教師の価値観を押し付けるのみが現在の最善の方法ということになって、学校の授業が教師が一方的に言うことを生徒に受け止めさせる(暗記させる)方法と重なり、あまり期待できなく見えてくる。
「大きくなるってことは心が成長すること」だとするのは「大きくなるってこと」を精神的な成長と把えた意見なのは言うまでもないが、厳密に言うと、ここで必要とする「なぜなら」の理由は「大きくなるってこと」をなぜ「心が成長すること」と把えたのか、なぜ精神的な成長と把えたのか、簡単に言うと、なぜそう思ったのか説明であって、それを省いて、自分が描いている成長の姿を説明して理由としている。
このことは「なぜなら」という言葉を省略をするとよく理解できる。
「大きくなるってことは心が成長することだと思います。心が成長すると、自分のことも一人で考えられるし、自分が言われて傷つく言葉を人に言わないようにできるからです」
確かに「心が成長すると、自分のことも一人で考えられるし、自分が言われて傷つく言葉を人に言わないようにできる」ようになるだろうが、なぜ「大きくなるってことは心が成長すること」になるのかの理由は依然として説明されないままとなる。身体ばかり成長して、「心が成長」しない人間は私を含めてザラにいる。「大きくなるってことは」は必ずしも「心が成長すること」につながらない。なぜ少女は「大きくなるってことは心が成長すること」だと思ったのか、その理由が知りたい。
「なぜなら、成長するということは身体(からだ)が大きくなっていくだけではなく、心も大きくなっていくから、心が成長するということにしました」が厳密には正解として最も近いのではないだろうか。
勿論、小学校3年生に論理的一貫性を厳密に求めるのは酷だが、教師が単純に「凄ーい、拍手」と決め付けていい問題ではないはずである。
解説「友達から出された意見を今度はそれを図に書いて整理する。考え方が似ているものを線でつないで整理し、論理的に考える力を養う」
(大人に近づく) (できることがふえる) (せいちょうする) (大きくなるって、どんなこと?)とノートに書いたことを丸で囲み、相互に線を引いてつなげる。
解説「この学校では1年生から『なぜなら』を使う訓練を始め、2年から『考えを整理する手法』を学ぶ。そうして論理的に考える基礎ができたところで、4年生から論述を書く訓練を始める。成長段階に併せて言語訓練を行うことで自分の考えを合理的に書いたり、説明できるようになるという」
いいこと尽くめの言語力教育となっていて、3年生までに「論理的に考える基礎」を目指すと言っている。初期最終段階の3年生を担当している先の女教師は3年の生徒以上に「論理的に考える基礎」を身につけていて、それを生徒に伝える能力と役目を有するはずだが、「スゴーイ。拍手」が生徒に対して論理的に考えさせ得る「言語力」とはなっていないところを見ると、いいこと尽くめが怪しくなってくる。
またこのこと以前の問題として、多分特別授業として週に何時間か設けているのだろうが、暗記式思考方法を元々は習慣としているのだから、圧倒的に時間数の多い普段の授業で考えを整理させたり、論理的に考えさせる習慣を身につけさせないことには、かつての「考える力」と同様に授業時間のプラスマイナスに応じ「言語力」にしても確実に身につくというところにまで達しないように思える。
由良芳子校長「自分の、こう整理をしてぇー(語尾を伸ばした言い方)、えー、纏めて、自分の考えを自分の言葉で語るということに、やはり抵抗が少なくてぇー、考えを述べる力でありますとか、書く力でありますとかね、あの、着実に伸びてきているという実感が、あるんです」
やはり「言語力」は先ず大人が身につけるべき能力のように思える。
国谷「先生、今のレポートの中で、その、サッカーの質を高めるためには言語力を強化するっていうのは――」
鳥飼「びっくりしましたねえ」
ただビックリされたのでは困る。効果があるのかどうか、あるいは、結果を見たいですねの一言ぐらいあって然るべきだが、ビックリで終わっている。
国谷「そうですねえ」
鳥飼「言語力っていうのがね、えー、ああいうことがあるんですねえー」
国谷「小学校では、結論を言ってから、なぜならば、っていうその訓練をさせていると言ってましたけど、これはどうご覧になりました?」
鳥飼「あれはいいですね。あの、やはり、自分がこうしたいと、いうことまでは言えるんですけども、それはなぜかという理由を説明するのって、かなり高度な訓練になりますから、あの、それを訓練するというのはいいことですよね。考えますし」
国谷「本当に正解の問いかけですよね」
鳥飼「ただ難しいのは、日本の場合は子どもたちが、そういう理路整然と、あの、論理・・・・的なね、話をすると、理屈っぽいねえ、この子は――と言うね、そうなり勝ちですよね。(笑う)それをやはり大人の側で気をつけて上げないとぉ、よく言えたねえ、っというねえ、褒めて、あの、欲しいですよねえ」
ここでも大人の問題だと把えはするが、なぜ大人の問題なのか、どうして大人の問題となっているのか、表面的には解説しているが、深く掘り下げてはいない。権威主義の行動様式から、子どもは大人の言うことを聞くものだ、いわば大人は正しいとしているから、子どもが何か言うと「理屈っぽい」と遮ることになる。
国谷「あの、日本の、この、色んなその問題を、こうご覧になって、言語力をなさる問題をご覧になってて、一番に言語力を育てていく上で大事なこと、欠けていることって、何だと思いますか?」
鳥飼「私はやはり、あの、ちょっと申し上げましたけども、小さいうちから、子どもたちが自分の考えを自由に述べるっていう場が、やはり不足しているんではないかと。日本の場合はね。それはその例えば、親とか、教師が子どもと対等な立場でやっぱり人間として、え、まあ、従いながらも、自分の考えを言っている、それの、その聞く耳を持つ、って言うんですねえ、そこで出発点じゃないかと、それがやっぱり十分ではない、全く十分ではない、というふうに思いますねえ」
鳥飼センセイが言う「子どもたちが自分の考えを自由に述べるっていう場」とは空間的な「場」であろう。そういった「場」で「対等な立場でやっぱり人間として」「自分の考えを自由に述べる」――
空間的な「場」で「自分の考えを自由に述べる」、「人間として」「対等な立場」を獲得するには親や教師が上の立場から、ああしなさい、こうしなさいと一方的指示・命令する権威主義的上下の関係性(暗記教育もこのような権威主義性で成り立っているのは既に言っている)を溶解して、人間関係の上からも精神的に同等な「場」、あるいは人間関係の上からも精神的に「対等な立場」を確保しなければ、そのような関係は空間的「場に」移行することもないし、当然のこととして、鳥飼センセイが言っているようにはそういった場所で「対等な立場でやっぱり人間として」「自分の考えを自由に述べる」といった大人と子どもの関係は生じることはないだろう。
いわば何度でも言っているように精神的にも空間的にもそういった場を子どもに与えるかどうかはすべて親や教師といった大人にかかっている大人の問題であって、当然「言語力」が身につくかどうかも親や教師からのその手の能力の伝達を含めて、すべて大人の問題であるということである。
国谷「学校の現場でも、やはり同じことと言えますか?」
鳥飼「と思います。やっぱりどうしても、正解を求めてしまうし、まあ、つべこべ言わないで、ま、ちょっと勉強しなさいみたいなね。そうではなくて、間違っていても、自分の考えを言って、それが、こう、聞いてもらえたという、そういう体験から、話す意欲って生まれますからね。やはり若い人たちがなんか、話す意欲が持てないでいるというのは、大人の責任だと思います」
確かに大人の問題だから、「大人の責任」だが、若い人たちが自分たちからつくり出した「話す意欲が持てない」状況というよりも、親や教師といった上に位置する大人と「対等な立場」で話す機会がないことから生じた「言語力」の欠如が否応もなしに仕向けている、大人たちがつくり出した「話す意欲が持てない」状況でもあろう。
国谷「自由に話せる場ということでしょうけど、もう既に大人になってしまった人たち(笑いながら――失敬な)っていうのは、あの、これから社会の中で、そういうコミュニケーションを問われるようになったときに、これは、自分の中で変えていく、育成することができるでしょうか?」
鳥飼「あの、意識することだと思いますね。つまり、何となく、日本って居心地のいい社会ですから、お互い同士、阿吽の呼吸で分かるという、思いがあるんですが、もやは日本の社会では、そうそうは言っていられないと。日本ではね、やはり、色々な、あの、違う人が一緒に暮らしているのだから、分かっているでしょうと、思わないで、分からないと思って、少し、こう、丁寧に説明していく。それ、意識的にやっていく、ことだと思うんですね。
だから、もはや、もう、日本の社会は、もう21世紀ですから、沈黙は金の――、ままではいられない。もうあの、そんな、そんなことを言ったら、身も蓋もないなんて言ってられなくてー、口程になんてことも言ってられなくて、これはすべて自分の思い、考えは整理して、秩序立てて、相手に分かるように伝える。それが言葉の――、働きですよね」
21世紀は関係ない。「阿吽の呼吸」で意思を伝達するには相当濃密な人間関係を築いてから可能となるコミュニケーションであって、問題としている「言語力」は濃密・希薄に関係のない人間関係の場面で求められる能力発揮を言っているはずだが、大学教授らしく頓着なく扱っている。
「沈黙は金」にしてもそれがカチを持つのはケースバイケースであって、「言語力」以上に価値を持つ場合もあるはずである。「これはすべて自分の思い、考えは整理して、秩序立てて、相手に分かるように伝える。それが言葉の――、働きですよね」にしても、どうすれば身につけることができるかの具体的な方法論を述べているのではなく、知識・情報の伝達方法を表面的に解説しているに過ぎない。
国谷「そして自分が直面した問題に対しても、どうやって解決していけばいいのか、自分の中で考えていく中での、一つの大きなその力になっていくと思って・・・・」
鳥飼「そうですね。あの、言葉にすることによって、自分の言葉に整理して、コメントしていたものがはっきりしてくるってこともありますよね。それから、なんかこう、反対だから黙ってしまうんじゃなくて、一歩出て、そうしてこう、話し合うことによって折り合いをつけていく。そこからやはり、理解が始まると、思いますので、最初に言葉ありき、ではないでしょうか」
国谷「まあ、グローバル化する中で、世界と、その、コミュニケーションしていくってこと以前に先ず、この国内でそういう必要が出てきたと、言うことが――」
鳥飼「日本語という母語で」
国谷「そうですね。どうもありがとうございました」
一般的には「日本語という母語で」なのは当たり前じゃないか。 |