NHKクローズアップ現代/「言語力」(1)

2009-11-30 12:24:22 | Weblog

 11月25日の水曜日、NHK夜の7時半からの「クローズアップ現代」《“言語力”が危ない~衰える 話す書く力~》を放送していた。

 先ずNHKHPの「クローズアップ現代」の頁を覗いて内容、テーマ、背景等を見てみた。

 テーマは〈今、若者の間で、きちんと説明ができない、文章が書けない、など自分の思いや考えを伝える「言語力」の低下が大きな問題になっている。その実態と解決に向けた道筋を探る。〉というものである。

 出演者は立教大学大学院教授の鳥飼玖美子(63)、 キャスター国谷裕子(52)

 「言語力」とは論理的にモノを考え、表現する力のことだという。その低下が2000年以降進んでいて、国際学力調査"PISA"での成績下落の一因と見られているそうだ。

 進学校でも、成績は悪くないのに「話し言葉のまま作文を書く」「語彙が少なく概念が幼稚」、言葉の引き出しが極端に少ない、例えば「怒る=キレる」としか認識できないため、教師が注意すると何でも「キレた」と反発され、コミュニケーションも成立しなくなってきている等の事態が相次ぎ、教師たちは危機感を強めているそうで、背景として、センター入試の普及で「書く」「話す」が軽視されたこと、携帯メールの広がりで文章を組み立てる力が育っていないことなどが指摘されているという。

 NHKHPの案内のみで分かることは、「言語力」の低下は2000年以降のことで、それ以前は「言語力」に関して問題はなかった、教師たちはこのことに関して危機感を持っていなかったということが分かる。逆に言葉の引き出しが豊富であった。――


 キャスター国谷裕子(くにや ひろこ)の案内

 「情報が溢れ、変化が非常に激しい時代、学んだ知識がすぐに時代遅れになりかねない。そして予期しない事態、新たな課題に誰もが直面する可能性がある。こうした社会の中で一人一人に問題解決が求められるとき、問われるのが言語力と言われている。言語力と言うと、語学力と思いがちだが、言語力とは外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら話したり書いたりする力のことを言う
 
 そしてフリップで「言語力」なるものを要約して示していた。

 ●情報を整理する
 ●考えを組み立てる
 ●根拠を示して説明する

 国谷はさらに続けて。

 「欧米各国を中心に学力を測るモノサシとして言語力が最近広く使われているが、日本では言語力が低下し、面接で話ができない、作文が書けないといった事態がおきている」

 ここでも以前は備えていたが、ここに来て低下したという把え方で「言語力」を語っている。

 今月発表された大手企業の採用教育担当573人への「若手社員の問題点」アンケート調査の結果。

 1位 読み書きや考える力   53%
 2位 主体性           51%
 3位 コミュニケーション能力  46%

 国谷「若手社員の問題点として第3位に挙げられたのが、自分の意見をうまく伝えられないなどのコミュニケーション能力の低いこと。1位に報告書が書けないなどの読み書き・考える能力の低下が挙げられている。こうした中でこの秋から教育現場からの要請を受ける形で言語力検定がスタートした」

 そして「言語力が低下している様子」の紹介に移った。
 
 公務員を目指す若者が多く学び、毎年約200人を送り出しているという岩手県盛岡市の上野法律ビジネス専門学校にご登場を願って、自分の考えを整理して伝えられない学生と、その指導に頭を悩ませている様子を伝える。

 先ずは作文の授業――

 自己アピールの課題を出されて一カ月が経過していにも関わらず作文用紙に書き出しの「私は――」以外何も書いてないままとなっている女子生徒。

 女子生徒「努力するっていうことを書きたいのですけど、どういう話の流れにしたらいいか分かんない」

 次に模擬面接会場――

 学生「本日はよろしくお願いします」(両手を体の脇にしっかりとつけ、丁寧に頭を下げる。)

 面接官「ハイ、お願いしまーす。どうぞお座りください」(気軽に応じる。)

 学生、面接官のテーブルの前の椅子に腰掛ける。

 学生「災害や事故現場の最前線に立ち、東京都民の人たちを全力で救助していきたいと思います」

 面接官「あ、そうですか」

 解説「消防官を志望しているこの学生。志望動機は予め用意していたので、スラスラ答えられます。しかし・・・・」

 面接官「今日は岩手県からいらしたんですか?」

 学生(ハキハキと)「はい、そうです」

 面接官「岩手県のどちらですか?」

 学生「盛岡市です」

 面接官「ハイ、そうですか。ここで盛岡市を紹介してください」

 学生、閉じたままの口元に苦笑いめいた表情をみせ、時折目を宙に泳がせて、何も答えることができない。

 解説「想定外の質問をされると、住み慣れた街なのに答えられない」

 学生(インタビューに)「頭の中心にはイメージして浮かんでいたんですけども、それが纏まんなくて、受け答えの方ができませんでした」
 
 作文の場面と模擬面接の二つの場面から容易に想像できる事態はそれぞれの知識、あるいは情報が深く暗記と関わっていることを示している。

 教師の教えを介して教科書の内容に添って暗記した知識、情報なりは既に頭に入っていることだから、ノートなりテストの答案用紙なりに素早く書き込むことができるし、説明を求められてスラスラと喋ることもできるが、そのことに対してどんな紙にも書き写すことができない、説明を求められても言葉にしてなかなか口にすることができないというのはそこに暗記するという作業を欠いていて、自分で考えて自分でつくり出さなければならない知識、情報だからということであろう。

 上記面接に関して言うと、志望動機は紋切り型の誰もが言っているお手本を暗記していたから、無難に消化できて解決可能となったが、暗記を知識・情報の処理解決策としている限り、暗記という要素を欠いた場合、どう問われても満足に対応できなくなる。

 暗記に頼った知識・情報の処理方法は暗記教育によって培われ、慣らされてきたものであろう。

 暗記教育は教師が与える知識・情報を機械的に受け止め、機械的に頭に暗記させる教育形式だから、生徒それぞれが考えるプロセスを教師から生徒への知識・情報授受の間に置いた時点で暗記教育ではなくなる。いわば考えるプロセスは暗記教育の阻害要件としてのみ存在する。

 言葉を変えて言うと、暗記教育は生徒に考えさせない教育であると言うことができる。

 だから、暗記していなくて、自分で考えて自分でつくり出さなければならない知識、情報の場合、処理に手こずることになる。

 と言うことなら、言語力の低下は暗記教育が原因となる。だが、時間が過去に遡るにつれ、日本の暗記教育の磁力は強く働いていたのだから、言語力は低下とは逆の方向を指してよさそうなものだが、言語力は低下しているという。暗記教育が原因ではないということなのだろうか。

 上野法律ビジネス専門学校教務部三上博久「まあ、自分の答えたいことは頭にあるんですけども、それをどういうふうに自分で表現したらいいかっていうのを、分からないんで、いわゆる、紋切り型って言うか、その抽象的な言葉の羅列のようなね、面接になってしまう――」

 解説「なぜ自分の考えを整理して論理的に伝えられないのか」

 暗記教育原因説を採ると、暗記教育は生徒に考えさせない教育なのだから、暗記教育が求めなかった能力であったということに過ぎなくなるが、依然として「言語力の低下」という把え方に反することになる。

 椅子に座った母親の前に小学校低学年程度の子どもが立っている。

 解説「子どもは言いたいことを断片的にしか言葉にできません。例えば喉が渇いてジュースが飲みたいときも、その状況や理由を説明せず、ジュースとしか言いません。ここで大切なのは親からの問いかけで始まる会話です。

 言語心理学が専門の大津由紀雄慶応義塾大学教授(言語文化研究所)は子どものときに親と交わした会話の量に注目している」

 子ども「ジュース」

 母親「ジュースがどうしたの?」 

 子ども(目を浮かせて考えるふうにしてから)「飲みたい」

 母親「どうして、え?」

 子ども(少し考えてから)「喉が渇いたから」

 解説「会話で質問に答える経験を重ねることで、10歳頃から子どもに筋道を立てて考えを整理できるようになる。しかし今社会で会話する機会が減ってきている」

 スパーインポーズで、「朝食を1人で食べる中学生  42%(文部省 2005年度)

 解説「中学生の4割が朝ごはんを一人で食べている。多くの若者たちが会話の経験が乏しく、言語力の低下につながっていると大津さんは考えている」

 親が子どもの論理的な受け答え(=論理的な説明能力)を如何に引き出すかが子どものそういった能力の育成にかかっているということなら、論理的な受け答え(=論理的な説明能力)を欠いたまま育った子どもは親がそういった能力を引き出す自らの論理的な受け答え能力(=論理的な説明能力)を欠いていたことの反映ということになって、常々子どもの考える力の欠如は親を含めた日本人の大人の考える力の欠如を受けたその反映だと言ってきたことは間違っていないことになる。

 今の子どもは考える力が乏しいという世間の声は自らを省みない、子どもだけに罪を着せる言葉だと言ってきたことも間違ってはいまい。、

 いわば「考える力」と言おうが、「言語力」と言おうが、子どものそういった能力の欠如は常に親の問題であって、子どもの問題ではなくなる。

 それとも単に若者たちの「会話の経験」の乏しさは親子の会話の機会が少ないことが原因で、その結果としてある若者たちの「言語力の低下」であって、親は「言語力」を十分に備えているということなのだろうか。

 だったら、保育園の保育士、幼稚園の教員から始まって小中高の教師が自らの言語力を以ってして親子の「会話の経験」の乏しさを補い、子どもたちの「言語力の低下」に歯止めをかけてよさそうなものだが、果してそうなっているのだろうか。

 大体が「外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら話したり書いたりする」「言語力」教育を日本の教育はそもそもからして重要不可欠の役目としていたと言うのだろうか。

 もし役目としていたにも関わらず、言語力が低下したということなら、朝食を1人で食べる中学生がふえて親子の会話の経験が乏しくなったことにのみ原因を置くのは学校の責任を放棄するものであろおう。

 大津教授「小さいときの色々な遣り取り、大人や友達との遣り取り、っていうものがないと、すると、あのー、どうやったらば、自分の思いを、うまく伝えられるか、っていう、そういう、まあ、言ってみれば、練習の機会に、恵まれないということになってしまって、色んな情報を集めて、整理して、そして、それを、あの、明確な言葉にすると、いうことが、あー、できなくなってしまう――」

 「小さいときの色々な遣り取り」は大人相手では両親との間、保育士や幼稚園教員との間、小学校低学年では学校教師との間で様々に交わされているはずである。にも関わらず、「色んな情報を集めて整理して、そしてそれを明確な言葉にする」言語力の育みにつながらないとしたら、上出の子どもが親にジュースをねだる場面で子どもの言語力の育成には「親からの問いかけで始まる会話」が大切だとする主張、親が子どもの論理的な受け答え(=論理的な説明能力)を如何に引き出すかが大切ということと考え併せると、大人の立場にある親以下の大人が一般的に言語力を備えていないから、子どもたちに伝わらない一般性としてある子どもたちの言語力の欠如ということにどうしても行き着く。

 決して“言語力の低下”ではなく、言語力の欠如ではないだろうか。

 「子どもたちに自ら学び、自ら考える力や学び方やものの考え方などを身に付けさせ、よりよく問題を解決する資質や能力などを育むことをねらい」(文部省)とした総合学習」の時間を2000年(平成12年)から段階的に開始しているが、これは自ら課題を見つけて自ら考え、自分で結論を見い出して生きる力とする能力とされたが、課題を見つけるのも結論を見い出すのも、基盤はよりよく「考える」ことによって達成し得る。いわば「考える力」(考える能力)が求められた。

 日本の生徒が「考える力」に不足があるからこそ求められた「考える力」の育みなのは断るまでもない。

 殊更説明するまでもなく、「考え」(=思考)は言葉の駆使によって成り立つ行為であって、「総合学習」が求める「考える力」は論理的に言葉を駆使する能力ということになる。

 また「外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら話したり書いたり」して他者に伝達する能力も論理的な言葉の駆使なくして成り立たない。「外からの情報を整理し・・・・」云々は言語力を説明した言葉なのだから、「言語力」は「総合学習」が言う「考える力」とそっくり重なる。

 名は違えているが昨今学校生徒に求めている「言語力」が「考える力」という名で1990年代末から求められていた。1990年代末には既に「考える力」の不足が言われていた。にも関わらず、「考える力」とそっくり重なる「言語力」の低下が今更の出来事のように番組は言っている。

 要するに小淵恵三から森喜朗へと引き継いだ「教育改革国民会議」が中身は殆んど変えずに安倍晋三の「教育再生会議」へと名前を変えて世に現れたのと同じく、「考える力」が「言語力」と名前を変えただけのことで、その能力不足は今更始まったことではない継続した問題提起であって、古くて新しい問題に過ぎないのではないだろうか。
 
 この見方が正しいとなると、既に指摘した“言語力の低下”ではなく、言語力の欠如だとする把え方は間違っていないことになる。

 このことの証拠を示す新聞記事がある。《多様な学校の実現を》『朝日』/1996.11.19)

 文部省が小・中学校の学習指導要領をほぼ10年ぶりに改定、21世紀の学校の青写真を描く狙いで「総合学習の時間」を設けるとする内容となっている。

 この「総合学習の時間」は1977年の改定で導入された「ゆとりの時間」と89年改定で小学校1、2年生に設けられた「生活科」を発展させたものだが、「ゆとりの時間」の場合は68・69年の改定が内容を詰め込み過ぎ、落ちこぼれ問題を発生させた反省に立って計画されたもので、発表当初は授業が学校の裁量に任されるのは画期的だと持て囃されたものの、自由裁量に反して「何を教えていいのか、示して欲しい」と校長会などから文部省に要望が相次いだため、文部省が「体力増進」、「地域の自然や文化に親しむ」等を例示すると、各校の実践が殆んどこの枠内に収まる右へ倣えの従属が全国的に起こったという。

 記事の副題が《「考える力」教師にも》

 要するに学校は生徒たちの「考える力」の不足に危惧を持っていたものの、「総合学習」という名で生徒の「考える力」を植えつける各校自由裁量の授業を文部省から求められはしたが、そのような授業を「考える力」を持ち合わせていなかったのである。

 これは生徒の「考える力」の不足と相互に響き合った学校の「考える力」の不足となっているが、生徒の「考える力」の不足を学んだ学校の「考える力」の不足であったなら立場を逆転させることとなって、そんなはずはないから、学校の不足を反映させた生徒の「考える力」の不足であろう。

 「考える力」が「言語力」と重なる以上、生徒の「言語力」の不足は教師たちばかりか広く日本の大人たちの「言語力」の不足を反映だと当然のこと言うことができる。このことは「言語力」の不足は今に始まった現象ではなく、「考える力」の不足が言われていた1990年代末から存在していたことになり、決して「言語力」の低下ではないということができる。

 いや、1990年代以前から、「考える力」も「言語力」も不足していたのだろう。ただ単に暗記した知識・情報をテストの回答に当てはめていけば済み、「考える力」だ、「言語力」だと騒がれなかっただけのことだったに違いない。

 確実に言えることは、2000年開始の「総合学習」の趣旨に添って学校が生徒に「考える力」を身につけさせることができたなら、今更ながらに学校が生徒の「言語力の低下」だ何だと騒ぐことはなかったろう。ましてや教育現場からの要請を受ける形で言語力検定をスタートさせることもなかった。

 放送内容に戻ろう。

 NHKクローズアップ現代/「言語力」(2)に続く


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKクローズアップ現代/「言語力」(2)

2009-11-30 12:18:43 | Weblog

 解説「言語力が衰えている背景として、別の問題を指摘する声もある」

 大阪の私立中高一貫校「清風学園」

 解説「文武両道と知られるこの学校で数年前から国語の授業である問題が浮上。最近入学してくる新入生の中に作文を正しく書けない生徒が目立つようになっている」

 教師(生徒が書いた作文を前にして)「マーカーで色を入れているところが、よくない例ですね」

 作文「僕がこの本を選んだのは、目次です。・・・・」

 解説「本来、この文は『僕がこの本を選んだ理由は、目次を見て面白そうだと思ったからです』などと書くべきだが、説明をする部分が欠落している」

 次の例――

 作文「僕が一番に思ったのは、西洋のクリスマスというのは、僕がクリスマスを特別に考えている方ではないし、日本人のほとんどがそうだと思います」

 解説「論理を練り上げず、言いたいことを思いつくままに並べている」

 暗記教育が論理的思考能力を不必要としたという視点を欠いたまま番組は進む。

 「言語力」云々と言えば体裁はいいが、後から出てくる携帯文化の影響が確かにあるとしても、つまるところ1990年代後半から言われている、実際にはもっと昔から存在していた「考える力」を欠いていることから起きている「論理を練り上げず、言いたいことを思いつくままに並べている」といった状況であろう。
 
 清風学園国語教師橋口文志「話し言葉はね、どんどん文章の中に、こう入り込んでくる傾向が今あるわけです。単語で返事したら、全部気持が通じ合うという、生活世界があって、それとおんなじ感覚で文章を書いても伝わるんじゃないかという考え方があるんですね」

 携帯文化によって言葉がコマ切れの単語化したと言われているが、かつては子どもの語彙不足が盛んに言われていた。携帯文化が語彙不足を加速させた、あるいは語彙不足の上に語彙不足のまま済ませることができる簡単な単語で通じ合わせることができるコミュニケーション手段を手に入れたと言える。

 いわば学校から見たら、最近の傾向ではあっても、生徒の側からしたら前の代から習慣として受け継ぎ、積み重ねてきた歴史がある思考能力・言語能力といったところではないだろうか。

 つまり前々からあるお粗末な言語状況であって、学校は歴史的に放置してきた。そのような放置の上に現在の状況がある。

 解説「話言葉をそのまま文章にする傾向に拍車をかけているのが携帯メールの普及だという専門家もいる」

 大津教授「携帯メ-ルの場合は画面が非常に限られていますよね。そうすると、あの、文を作るときにも非常に短い文章になるし今度は文章、を重ねて文章を作るときにも非常にコマ切れの文を重ねると。じゃあ、文と文の関係はどうなっているのか、というような、そういう本来だったならば、意識的に考えて、書く場合だったら、推敲してやるべきところを端折ってしまう――」

 携帯の文字画面

 「今帰る

 パン
 
 大丈夫」――

 現在、小論文の指導や、論説文を要約する時間を設け、生徒たちの言語力の向上に努めているという清風学園授業風景――

 「考える力」の育成と銘打って「総合学習」の時間を設けながら、「言語力」と通じ合う「考える力」を育むことができなかった前科があるのだから、日常的な教科授業、あるいは日常的な教師や親といった大人たちとの会話で論理的な言葉の遣り取り、論理的な知識・情報の交換を経験しないことには、頭の中に根付く生きた知識――いつでも活用できる知識とはならないだろう。

 コミュニケーションご専門だという立教大学大学院教授の鳥飼玖美子がここで登場。

 国谷「今、就職戦線厳しいですから、面接はホントに一人一人の学生たちにも重要なんですが、想定外のことを聞かれて、ぐっとつまってしまう」

 鳥飼「絶句しましたよねえ。あれとよくあるケースで、あの、ずうっと、黙ってしまうんですけど、私は、あのー、そういうときにはね、目を泳がせていないで、えー、何でもいいから(手振りよろしく)、頭の中のプロセスをね、ええーと、急にそういう質問を受けたので、ちょっと今、戸惑っていますかがー、とか、あの、そういうこと考えたことなかったんですが、そうですね、私の郷里はーとか、何か、少し言葉に出して言いながら、時間稼ぎをして、忙しく頭の中で纏めて、そして、そうですねえ、でも、盛岡と言うのは、と、こういくといいんじゃないかと、アドバイスをしていますけどねえ――」

 「アドバイス」にならないことを言っている。盛岡に住んでいて、「ここで盛岡市を紹介してください」と言われて、「そういうこと考えたことなかったんですが」ということにはないだろうし、そのようには言えもしない。また、「そういうこと考えたことなかった」としても、何らか感じ取っているはずで、言葉によって把握しているだろうから、「そういうこと考えたことなかった」という言い訳も通用しない。何も感じ取らずに生活し、空気を吸っていたということなら、惰性で生きてきたと把えられかねない。

 もし暗記に頼った知識・情報の処理に慣らされていたなら、「時間稼ぎ」といったテクニックは暗記していない、それゆえに自分で考えて自分でつくり出さなければならない知識、情報の処理には十分には応えてくれないだろう。

 国谷「ホントに企業がコミュニケーション能力を非常に重視するようになった中で、ああ、大事になってきたわけですけれども、多くの大学生の方々とも、その、接していて、言語力の低下というのを、どんなに実感されていらっしゃいますか」

 鳥飼「そうですね。あの、大学生も勿論、ね、あの、企業が心配しているだけあってぇー、なんか話すのが面倒というね、あの、進んで説明するのがなんかかったるいみたいな、それが見られるような不安で、将来、どうなるのかなあという、のがあるんですが、私はもっと心配しているのは、小学生の、時代に常に、例えば、いじめ――っていうのが最近問題になっていますが、ずうっと問題ですけども、最近はちょっと質が変わっていて、その、言葉によるいじめ、それはなぜかと言うと、言葉を使って人間関係を構築するということを子供たちが知らないでいる。だから、思わず傷をつけてしまったり、傷ついてしまったりというね。それはやはり、その、一緒に遊んだり、喧嘩したりしながら、試行錯誤をして、あ、こういうことを言うと、相手は傷つくんだ。自分も傷ついたから、やっぱりこれは人にやっちゃいけない、っていうね、そういう、その、言葉を使って人と人との、関係をつくり上げていくということを、もっと幼稚園とか小学校とかね、家庭は勿論ですけどぉー、そういう場で、このー、実体験を通して、学んでいくということが足りないんじゃないかと思います」

 同時通訳者の草分けの一人と言われている(Wikipedia)そうで、外国人並みに身振りだけは立派だが、大学教授にふさわしい理路整然たる立派な話し方なのだろう。国谷に大学生の言語力の低下をどのように実感しているかと問われて、具体的には何も応えていない。

 また彼女のご説に従うと、「言葉を使って人間関係を構築するということを子供たちが知らない」場合、すべて「いじめ」につながると言うことになる。

 誰もが「言葉を使って人間関係を構築する」。問題は考えた「言葉」となっているかどうかであろう。

 中学生にもなると、パソコンと携帯の使用が一般化して、学校裏サイトや携帯のメールで陰湿な言葉によるいじめが流行っているということだが、「言葉によるいじめ」は昔からあったことで、今に始まった現象ではない。言葉を含めて身体的にも直接的ないじめから、ホームページや携帯といったツールを使った間接的ないじめに時代的に変化したのみで、1994年愛知県西尾市で起きた大河内清輝君いじめ自殺事件を見ても分かるように陰湿さという点では変わらないはずである。いじめ自体が陰湿で悪意ある感情から発している行為だからだ。

 「一緒に遊んだり、喧嘩したりしながら、試行錯誤をして、こういうことを言うと、相手は傷つくんだ。自分も傷ついたから、やっぱりこれは人にやっちゃいけない、っていう、そういう言葉を使って人と人との関係をつくり上げていくということを、もっと幼稚園とか小学校とかね、家庭は勿論ですけど、そういう場で実体験を通して、学んでいく」ことが必要だと言っているが、あるべき理想の姿を言うだけの主張は多くの人間が言っている前々からあるもので、そうはなっていない状況が続いているのだから、役に立たないまま単に必要性、あるいは道理を述べているに過ぎない。教育の専門家でありながら、実効的な解決策を述べているわけではない。

 国谷「そんなに(そんなふうに?)子供たちの小さな社会の中でそれを学ぶ、いい機会ですよね。小学校や――」

 鳥飼「小学校でやらないとぉー、そこが一番大事なところですよね。教科を通して、日常生活の中で、言葉を使って自分をどう表現していきたいとかね、相手に理解してもらい、相手のことを理解しという、その辺が、この、どうもうまくいかないんじゃないかなという気がしますね」

 「どうもうまくいかない」理由が「言葉を使って自分をどう表現して」いくかといったことを考えさせない、テストの点取りにウエイトを置いた暗記教育が学校社会では主流となっているからだという視点がないから、単に道理を述べるだけで終わることになっている。

 国谷「そのー、一つの理由として、その会話が少なくなっているんではないかと、いう分析もありましたけども、例えば、そのー、親が子どもたちの、その言語力を育んでいくために、手助けする方法としての、その問いかけと、いうのがありましたけども、どのようにご覧になりましたか?」

 鳥飼「あのー、あれもいいんですけども、一つ心配なのよね。あれがマニュアル化してしまって、子どもを見ると、ジュース。ジュースどうしたの?ウフフフフ(二人して笑う)。

 (声を大きくして)なぜ?みたいな。いつもそれをやっていると、子どもも厭になりますよね。やっぱりいつも大事なのは、私はその、親自身が言葉の大切さを、本当にあの、こう、我が事のように引受けて、そして言葉を大切に使うという、姿を見せるいうこと。

 もう一つは、やはり、子どもの、その、声を聞く。子どもの話というのはなんかかったるいので、ああ、分かった、分かったとなりがちなんですけども、それを、こう、一歩抑えて、なーに、という、あの、子供の方に話させる。自分が言いたいことを十分に言わせる、という、それがむしろ大事じゃないかなあっていう気がします」

 鳥飼センセイの言っていることができていないことが問題となっているのであって、なぜできないのかを問題とせずに、「それがむしろ大事じゃないかなあっていう気がします」で極楽トンボにも片付けている。

 詩人だ、小説家だといった職業人ではなく、一般人で「言葉を大切に使う」といった意識的行為をする人間は殆んど皆無であろう。親が言語力――論理的な言葉の駆使を備えていたなら、その論理性は子どもに自然と伝わる。親が自分の意に染まないことを子どもがすると、バカっ、いい加減にしろ、といったことしか言えない親の場合、子どももその程度の言葉しか駆使できなくなる。

 「親自身が言葉の大切さを」というふうに時折は親の問題だとするが、全体的には子どもの問題だとして「小学校でやらないとぉー」などと言っている。

 あくまでも親や教師といった大人の言葉の程度を学んで子どもの言葉は存在するはずである。もし子どもが大人の「言語力」――論理的な言葉の駆使を受け継いでいたなら、携帯のメールで 「今帰る  パン  大丈夫」と文字を打ったとしても、携帯のメールに限った「言語力」として使い分けるのではないだろうか。

 大体が日本の親は子どもにああしなさい、こうしなさい、バカ、やめなさいいったふうに自分を権威主義的に上に置いて下に置いた子供に指示・命令し、機械的に従わせる意思伝達を習慣としているから、「子供の方に話させる。自分が言いたいことを十分に言わせる」といった習慣を元々欠いている。

 この上が機械的に下を従わせる権威主義性に覆われた相互の意思伝達構造は暗記教育と同じ構造をなしているから、保育園でも幼稚園でも小中高でも、年齢が上に行くにつれその権威主義性は弱まっていくが、さらに一般社会でも機能している意思伝達の姿であって、このことが原因した「言語力」の元々ない姿――欠如であろう。

 上下関係なく「自分が言いたいことを十分に言わせる」には上が下を従わせ、下が上に従う権威主義性を剥ぐ以外にない。上下の関係から解放することである。

 国谷「どこか、その、日本の社会の中で、言葉というものを軽んじる傾向っていうのはありますか?本来、あの、言葉の意味は――」

 鳥飼(「自分が言いたいことを十分に言わせる」と言った舌の根が乾かないうちに相手の言葉を遮って)「私は何かね、どうも、あの、特に今そうなんでしょうけれども、言葉はスキルだと、皆さん思ってらっしゃるけど――」

 国谷(今度は国谷が相手の言葉を遮ったが、横文字が分からない視聴者のために日本語で説明するための措置だろう)「技術だと――」

 鳥飼「技術。技術ではないんですね、言葉というのは。やっぱり人間そのもの。人間の思想の根幹ですから、その技術論では片付かない。人間をつくっている一番大事なものが思想であり、それをつくっているのが言葉だと、いうことが、少し、認識が浅いのかなあと思います」

 言葉が思想なのは当たり前のこと。言葉が思想を表し、その思想が人間の行動に現れるが、哀しいことに思想も生活上の利害の制約を受ける。

 思想が利害で左右される当てにならないものであっても、問題は言葉に表れる思想の内容であろう。当然言葉が思想次第だとなると、言葉の内容自体が問題となる。

 子どもの言葉は常に親を含めた大人の問題であって、子どもの問題ではないと既に言ってきたが、だとすると、鳥飼が言っているように「人間をつくっている一番大事なものが思想であり、それをつくっているのが言葉だという認識が浅い」ことよりも、子どもの言葉は常に大人の問題だというその「認識の浅さ」を問題とすべきということになる。


 NHKクローズアップ現代/「言語力」(3)に続く


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKクローズアップ現代/「言語力」(3)

2009-11-30 12:03:19 | Weblog

 国谷「情報を整理して、、それを論理的に考えて、それを人に伝えるという、この言語力ですけども、どうやって育むことができるのか、今意外なところで新たな試みが行われています」

 解説「来年6月に開催されるワールドカップでベスト4を目指す日本代表。大きな課題の一つとして、サッカー協会が力を入れているのが言語力の育成」

 〈2006年 ワールドカップドイツ大会〉

 解説「予選全敗という結果の前回のワールドカップ。敗因を分析したレポートで指摘されたのは試合中に仲間が自分の考えを伝える能力の不足」――

 と言うよりも、ボールを保持した味方選手や防御に出る相手チーム選手の動きからそれら相手が考えていることを理解して(読み取って)、考えていることに応じた自分の動きをポジションとして与えられている役目に従って取るという理解能力(読み取り能力)をより問題とすべきでように思えるのだが。

 解説「それを克服するには言語力教育に力を入れるべきということになった。めまぐるしく状況が変わるサッカー。野球と違い、監督が指示できることは限られている。自分がどんなプレーをすべきなのかどうして欲しいのか、選手には自分で考え、それを伝える力がより必要とされる。サッカー協会で言語力教育の旗振り役となった田嶋幸三(日本サッカー協会専務理事)は言語力の強化によって選手の意思の疎通だけではなく、プレーの質も上がると考えている」

 「言語力の強化によって選手の意思の疎通だけではなく、プレーの質も上がる」と今更ながらに言わなければならないのは哀しい。「めまぐるしく状況が変わるサッカー」と言っているが、基本パターンがあるはずである。

 田嶋幸三「なぜ自分がドリブルした。自分がドリブルしていけば、すぐシュートが打てるとか、すべてにそれぞれ理由があるはずですよね。その理由を持ちながらプレーするのがサッカーというスポーツだと思います。考えないで、判断しないでプレーしているっていう、そういう習慣をつけてしまうことが一番怖くて、そういうことにならないためにも、しっかりと自分の意思を言葉によって相手に伝えるいうことを意識的にやらせる必要が逆に日本人には必要じゃないかと思っています」

 「考えないで、判断しないでプレーしている」といったことはまず存在しないはずだ。選手としての役目を全然果たさないことになって、チームから排除されることになるだろう。考えや判断が月並みとか浅いとか、的外れで間違っているとかのプレーは存在する。ボールを保持している選手が味方の選手がシュートする絶好の位置に動いてくれないために仕方なくその選手の位置にパスして、その選手がパスを受けてシュートで応じたものの、ふさわしい位置でなかったために相手選手に阻まれたりしてシュートが失敗するといったことはよくある場面であろう。

 解説「言語力強化の舞台となっているサッカー協会が運営する研究施設(JFAアカデミー福島)で3年前から未来の日本代表を目指す中高生を対象に行われている。これは自分の考えを論理立てて説明する訓練」

 (指導:つくば言語技術教育研究所)

 女性指導員「今日は実際に道案内、いうう(ママ)課題を使って、説明します」

 手作りの地図を使う。

 解説「お年寄りが駅から美術館までの逆順をどう説明したら、いいのかを考える」

 生徒が二人で相談し合う。

 「まっすぐ行って出ると、まっ正面に(美術館が)あるから、分かりやすいかもしれないから」

 解説「なぜそのルートを選ぶのか、さらにそれをどう説明すれば、分かりやすいのか、突きつめながら議論していく。どんなことでも自分の考えを簡潔に分かりやすく説明する。そうした訓練を通じて、選手の意識改革が進んでいる」

 一人(インタビューで)「自分はあんまり人に意見を言うタイプじゃなかったんですけど、こっちに来て、自分の意見を人に伝えることができて、自分のサッカーも他人に分かってもらったり、逆に他人のサッカーも自分で分かるようになりました」

 そういう方向を目指す教育が成果として求めている成長に添った非常に模範的な回答となっているが、サッカーの動きには基本パターンがあっても、基本に則りながら相手チームのめまぐるしく動き回る複数のデフェンスを一度に相手にして、その裏をかく動きを瞬間瞬間で判断していかなければならないから、模範的な回答通りにはいかないのではないだろうか。

 言語力を基礎から鍛えて、自分で考える力を養うという取り組みを始めている大阪 堺市浜寺小学校――

 解説「この小学校ではサークルタイムという授業を取り入れた。毎回テーマを決めて自分で意見を発表する。その日、3年2組に与えられたテーマは大きくなるって、どういうことだろう

 ひとクラスをいくつかのグループに分けて、それぞれのグループが教室の床に殆んどが足を立て、その膝に手を置くポーズで直に車座になって(サークルを描いて)座っている。女教師が生徒に挟まれて正座している。

 男の子「筋肉がもりもりになると思います。なぜなら、大きくなったら、背も伸びるし、体重も増えるから」

 「大きくなるって、どういうことだろう」を身体的な成長と把えた意見だが、そういった女教師の解説もなく、意見を言っただけで次の生徒に移っていく。

 女の子「できることが増えていくことだと思います。なぜなら――」

  成長と共に広がっていく活動範囲の広がり、あるいは行動範囲の広がりから把えた意見だが、女教師は解説も、他の生徒に意見を聞くこともしない。

 解説「先に結論を言い、そのあと、『なぜなら』をつけて理由を述べることを子どもたちは教えられている」

 女の子「大きくなるってことは心が成長することだと思います。なぜなら、心が成長すると、自分のことも一人で考えられるし、自分が言われて傷つく言葉を人に言わないようにできるからです」

 女教師「スゴーイ。拍手」

 車座になった生徒たちが一斉に手を叩く。

 なぜ「スゴーイ」のかの説明がないばかりか、生徒同士のそれぞれが口にした意見なり、主張なりを取り上げて議論し合うこともない。「スゴーイ」と思わずに聞いている生徒もいるはずで、受け止め方は一様ではないはずだが、「スゴーイ」とする自分の価値判断を生徒に押し付ける権威主義を犯し、拍手させるという機械的な従属的動きを誘導、悪く言うと強要している。

 どこがどのように「スゴーイ」のか説明して生徒に理解させる努力をするか、今の意見をどう思いますかと尋ねて、お互いに議論して一つの意見を掘り下げていき、最終的に生徒それぞれの判断に任せるべきで、教師が説明したり、生徒同士が議論し合うことで求めることになるその時々の判断が考える力――「言語力」を育む要素となるはずだが、そういった手続きを一切含まず、単に言って終わることと価値の押し付けだけが見えるのみである。

 学校全体の「言語力」育成の取り組みとして「サークルタイム」を設けている以上、教師同士で方法の良し悪し、内容や成果を話し合ったり情報交換しているはずだから、その時点での方法は学校が考え得る最善の方法でなければならない。意見の言いぱっなしで議論し合うこともない、教師の価値観を押し付けるのみが現在の最善の方法ということになって、学校の授業が教師が一方的に言うことを生徒に受け止めさせる(暗記させる)方法と重なり、あまり期待できなく見えてくる。

 「大きくなるってことは心が成長すること」だとするのは「大きくなるってこと」を精神的な成長と把えた意見なのは言うまでもないが、厳密に言うと、ここで必要とする「なぜなら」の理由は「大きくなるってこと」をなぜ「心が成長すること」と把えたのか、なぜ精神的な成長と把えたのか、簡単に言うと、なぜそう思ったのか説明であって、それを省いて、自分が描いている成長の姿を説明して理由としている。

 このことは「なぜなら」という言葉を省略をするとよく理解できる。

 「大きくなるってことは心が成長することだと思います。心が成長すると、自分のことも一人で考えられるし、自分が言われて傷つく言葉を人に言わないようにできるからです」

 確かに「心が成長すると、自分のことも一人で考えられるし、自分が言われて傷つく言葉を人に言わないようにできる」ようになるだろうが、なぜ「大きくなるってことは心が成長すること」になるのかの理由は依然として説明されないままとなる。身体ばかり成長して、「心が成長」しない人間は私を含めてザラにいる。「大きくなるってことは」は必ずしも「心が成長すること」につながらない。なぜ少女は「大きくなるってことは心が成長すること」だと思ったのか、その理由が知りたい。

 「なぜなら、成長するということは身体(からだ)が大きくなっていくだけではなく、心も大きくなっていくから、心が成長するということにしました」が厳密には正解として最も近いのではないだろうか。

 勿論、小学校3年生に論理的一貫性を厳密に求めるのは酷だが、教師が単純に「凄ーい、拍手」と決め付けていい問題ではないはずである。

 解説「友達から出された意見を今度はそれを図に書いて整理する。考え方が似ているものを線でつないで整理し、論理的に考える力を養う」

 (大人に近づく)  (できることがふえる)   (せいちょうする)   (大きくなるって、どんなこと?)とノートに書いたことを丸で囲み、相互に線を引いてつなげる。

 解説「この学校では1年生から『なぜなら』を使う訓練を始め、2年から『考えを整理する手法』を学ぶ。そうして論理的に考える基礎ができたところで、4年生から論述を書く訓練を始める。成長段階に併せて言語訓練を行うことで自分の考えを合理的に書いたり、説明できるようになるという」

 いいこと尽くめの言語力教育となっていて、3年生までに「論理的に考える基礎」を目指すと言っている。初期最終段階の3年生を担当している先の女教師は3年の生徒以上に「論理的に考える基礎」を身につけていて、それを生徒に伝える能力と役目を有するはずだが、「スゴーイ。拍手」が生徒に対して論理的に考えさせ得る「言語力」とはなっていないところを見ると、いいこと尽くめが怪しくなってくる。

 またこのこと以前の問題として、多分特別授業として週に何時間か設けているのだろうが、暗記式思考方法を元々は習慣としているのだから、圧倒的に時間数の多い普段の授業で考えを整理させたり、論理的に考えさせる習慣を身につけさせないことには、かつての「考える力」と同様に授業時間のプラスマイナスに応じ「言語力」にしても確実に身につくというところにまで達しないように思える。

 由良芳子校長「自分の、こう整理をしてぇー(語尾を伸ばした言い方)、えー、纏めて、自分の考えを自分の言葉で語るということに、やはり抵抗が少なくてぇー、考えを述べる力でありますとか、書く力でありますとかね、あの、着実に伸びてきているという実感が、あるんです」

 やはり「言語力」は先ず大人が身につけるべき能力のように思える。

 国谷「先生、今のレポートの中で、その、サッカーの質を高めるためには言語力を強化するっていうのは――」

 鳥飼「びっくりしましたねえ」

 ただビックリされたのでは困る。効果があるのかどうか、あるいは、結果を見たいですねの一言ぐらいあって然るべきだが、ビックリで終わっている。

 国谷「そうですねえ」

 鳥飼「言語力っていうのがね、えー、ああいうことがあるんですねえー」

 国谷「小学校では、結論を言ってから、なぜならば、っていうその訓練をさせていると言ってましたけど、これはどうご覧になりました?」

 鳥飼「あれはいいですね。あの、やはり、自分がこうしたいと、いうことまでは言えるんですけども、それはなぜかという理由を説明するのって、かなり高度な訓練になりますから、あの、それを訓練するというのはいいことですよね。考えますし」
 
 国谷「本当に正解の問いかけですよね」

 鳥飼「ただ難しいのは、日本の場合は子どもたちが、そういう理路整然と、あの、論理・・・・的なね、話をすると、理屈っぽいねえ、この子は――と言うね、そうなり勝ちですよね。(笑う)それをやはり大人の側で気をつけて上げないとぉ、よく言えたねえ、っというねえ、褒めて、あの、欲しいですよねえ」

 ここでも大人の問題だと把えはするが、なぜ大人の問題なのか、どうして大人の問題となっているのか、表面的には解説しているが、深く掘り下げてはいない。権威主義の行動様式から、子どもは大人の言うことを聞くものだ、いわば大人は正しいとしているから、子どもが何か言うと「理屈っぽい」と遮ることになる。

 国谷「あの、日本の、この、色んなその問題を、こうご覧になって、言語力をなさる問題をご覧になってて、一番に言語力を育てていく上で大事なこと、欠けていることって、何だと思いますか?」

 鳥飼「私はやはり、あの、ちょっと申し上げましたけども、小さいうちから、子どもたちが自分の考えを自由に述べるっていう場が、やはり不足しているんではないかと。日本の場合はね。それはその例えば、親とか、教師が子どもと対等な立場でやっぱり人間として、え、まあ、従いながらも、自分の考えを言っている、それの、その聞く耳を持つ、って言うんですねえ、そこで出発点じゃないかと、それがやっぱり十分ではない、全く十分ではない、というふうに思いますねえ」

 鳥飼センセイが言う「子どもたちが自分の考えを自由に述べるっていう場」とは空間的な「場」であろう。そういった「場」で「対等な立場でやっぱり人間として」「自分の考えを自由に述べる」――

 空間的な「場」で「自分の考えを自由に述べる」、「人間として」「対等な立場」を獲得するには親や教師が上の立場から、ああしなさい、こうしなさいと一方的指示・命令する権威主義的上下の関係性(暗記教育もこのような権威主義性で成り立っているのは既に言っている)を溶解して、人間関係の上からも精神的に同等な「場」、あるいは人間関係の上からも精神的に「対等な立場」を確保しなければ、そのような関係は空間的「場に」移行することもないし、当然のこととして、鳥飼センセイが言っているようにはそういった場所で「対等な立場でやっぱり人間として」「自分の考えを自由に述べる」といった大人と子どもの関係は生じることはないだろう。

 いわば何度でも言っているように精神的にも空間的にもそういった場を子どもに与えるかどうかはすべて親や教師といった大人にかかっている大人の問題であって、当然「言語力」が身につくかどうかも親や教師からのその手の能力の伝達を含めて、すべて大人の問題であるということである。

 国谷「学校の現場でも、やはり同じことと言えますか?」

 鳥飼「と思います。やっぱりどうしても、正解を求めてしまうし、まあ、つべこべ言わないで、ま、ちょっと勉強しなさいみたいなね。そうではなくて、間違っていても、自分の考えを言って、それが、こう、聞いてもらえたという、そういう体験から、話す意欲って生まれますからね。やはり若い人たちがなんか、話す意欲が持てないでいるというのは、大人の責任だと思います」

 確かに大人の問題だから、「大人の責任」だが、若い人たちが自分たちからつくり出した「話す意欲が持てない」状況というよりも、親や教師といった上に位置する大人と「対等な立場」で話す機会がないことから生じた「言語力」の欠如が否応もなしに仕向けている、大人たちがつくり出した「話す意欲が持てない」状況でもあろう。

 国谷「自由に話せる場ということでしょうけど、もう既に大人になってしまった人たち(笑いながら――失敬な)っていうのは、あの、これから社会の中で、そういうコミュニケーションを問われるようになったときに、これは、自分の中で変えていく、育成することができるでしょうか?」

 鳥飼「あの、意識することだと思いますね。つまり、何となく、日本って居心地のいい社会ですから、お互い同士、阿吽の呼吸で分かるという、思いがあるんですが、もやは日本の社会では、そうそうは言っていられないと。日本ではね、やはり、色々な、あの、違う人が一緒に暮らしているのだから、分かっているでしょうと、思わないで、分からないと思って、少し、こう、丁寧に説明していく。それ、意識的にやっていく、ことだと思うんですね。

 だから、もはや、もう、日本の社会は、もう21世紀ですから、沈黙は金の――、ままではいられない。もうあの、そんな、そんなことを言ったら、身も蓋もないなんて言ってられなくてー、口程になんてことも言ってられなくて、これはすべて自分の思い、考えは整理して、秩序立てて、相手に分かるように伝える。それが言葉の――、働きですよね」

 21世紀は関係ない。「阿吽の呼吸」で意思を伝達するには相当濃密な人間関係を築いてから可能となるコミュニケーションであって、問題としている「言語力」は濃密・希薄に関係のない人間関係の場面で求められる能力発揮を言っているはずだが、大学教授らしく頓着なく扱っている。

 「沈黙は金」にしてもそれがカチを持つのはケースバイケースであって、「言語力」以上に価値を持つ場合もあるはずである。「これはすべて自分の思い、考えは整理して、秩序立てて、相手に分かるように伝える。それが言葉の――、働きですよね」にしても、どうすれば身につけることができるかの具体的な方法論を述べているのではなく、知識・情報の伝達方法を表面的に解説しているに過ぎない。

 国谷「そして自分が直面した問題に対しても、どうやって解決していけばいいのか、自分の中で考えていく中での、一つの大きなその力になっていくと思って・・・・」

 鳥飼「そうですね。あの、言葉にすることによって、自分の言葉に整理して、コメントしていたものがはっきりしてくるってこともありますよね。それから、なんかこう、反対だから黙ってしまうんじゃなくて、一歩出て、そうしてこう、話し合うことによって折り合いをつけていく。そこからやはり、理解が始まると、思いますので、最初に言葉ありき、ではないでしょうか」

 国谷「まあ、グローバル化する中で、世界と、その、コミュニケーションしていくってこと以前に先ず、この国内でそういう必要が出てきたと、言うことが――」

 鳥飼「日本語という母語で」

 国谷「そうですね。どうもありがとうございました」

 一般的には「日本語という母語で」なのは当たり前じゃないか。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする