2016年8月14日日曜日午後9時からNHK総合テレビで「村人は満州へ送られた~“国策” 71年目の真実~」を放送していた。
概略を話すと、戦前の日本政府は当時の満州(中国東北部)に満州の支配強化と食料増産のために開拓民を送り込む事業を重要な国策として進めていた。終戦までに送られた開拓民の数は27万人以上等々。
ところが昭和16年に日米が開戦すると、それまで年間5万人以上の開拓民が満州に渡っていたが、開戦後は男性は戦場への、女性は軍需工場への動員を受けて都市部も農村部も人手不足が生じて3万5000人にまで減少。そこで政府は日本国内の各村に人数の割当をして、割当に応じて満州に移民に出した人数で村に補助金を出すアメとムチの政策を行った。
番組はこのように前置きして、国策として満州移民に駆り出される舞台を現在は長野県の豊丘村、かつての村名河野村に置いている。
村民は2900人、急峻な地形で田畑が少なく、慢性的に食料にも困窮する貧しい村であった。
但し35歳で村長となった胡桃澤盛(くるみさわ・もり)は当初は移民に懐疑的であったが、次第に国策を受け入れていく、その心境の変化を1万ページにも及ぶ自身の日記に書き残していた。
また移民に応じた場合には(満州現地で)1戸当たり20ヘクタールの広大な土地が手に入ると謳ったという。
(日記から)「自分の仲間だけでブロックを作って割拠している様で果たして中国人と共に生きて行く様な事が出来るだろうか。為政者たるもの眼前の事象に囚われる事なく大局を掴んで行かねば暗礁に乗り上げぬとも限らぬ」
昭和17年、517戸の河野村に50戸の割当が課せられた。
(日記から)「開拓団送出の件、来る所迄来たのだ。此の問題には容易ならぬ困難さがあると思う。一時の熱情ぐらいで完成する問題でない」
昭和18年10月21日、胡桃澤盛は悩んだ末に窮乏する村を立て直すには補助金を手に入れるしかないとついに決断する。
(日記から)「十月二十一日 曇 村の事業として送出計画を進むる事に肚を定める。安易のみを願っていては今の時局を乗りきれない。俺も男だ。他の何処の村長にも劣らない。優れた指導者として飛躍しよう」
胡桃澤は自ら村中をまわり説得にあたった。だが、割当の数には遠く及ばず、27戸95人が開拓民として海を渡ることになった。
故郷の村を母村として満州国に分村を造るという政策に則って河野村が分村を造ったのは現在の吉林省長春市の郊外。農作業に適した肥沃な土地で、一戸あたり2ヘクタール程度の農地で野菜や大豆などを育てることになったが、現地の中国人から強制的に買収した田畑だという。
二束三文で買い取ったのか、一定程度のカネを出したのかは番組は説明していないが、日本が降伏した翌日、中国人から襲撃を受け、土地を奪い返されたというから、それが報復として行われたなら、奪い取るに等しい買収だったのだろう。
土地を奪われた中国人が番組で証言している。
「日本人が来た途端に自分たちの土地にすると言ったところはそのまま奪われました。どうしようもないという気持ちでした。相手をやっつけることなどできませんから。皆憎んでいました」
昭和18年になると、多くの開拓団で45歳までの男性が関東軍に召集され、河野村の分村でも21人の男性が召集された。残されたのは少年一人と、老人や女性、そして子どもばかりとなった。
昭和20年5月、関東軍はソビエト軍に備え新京より南に防衛ラインを後退させることになったが、開拓民にはその事実は伝えられず、防衛ラインの外側に無防備に取り残されることになった。
そして終戦直前の1945年8月9日未明にソ連軍が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻、開拓民が次々と砲撃にさらされ命を失っていく中、日本が降伏した翌日になると、ソ連国境から遠隔の河野村の住人はソ連兵によってではなく、土地を奪い返しに来た中国人に襲われることになった。
当時少年で生き残った久保田諫さん。
「とにかく大きな声でしゃべって拳銃を空へ向けてぶっ放した途端にうわーっと鬨の声が上がって、日本人の住宅へ飛び込んできて叩き出されてしまったんだ。着のみ着のままで」
山に逃げ込み、一晩を過ごしたものの翌日再び追われ、捕まった村人は殴る蹴るの暴行を受けた。女性や子供ばかりの村人たちは逃げまどい、自分たちの無力に絶望したのか、夕方、集団自決が始まった。
一人生き残った当時少年の話。
「もう日本は戦争に負けてしまって、お父さんのところに会いに行きましょうって、お母さんたちは小さい子供からどんどん首を絞めて殺しはじめた。早く手伝ってくれというおばさんたちの声で。私はこの手で。忘れ去りたくって一生懸命忘れ去ろうと思ったけれど忘れ去りきれなかったね」
少年も手伝って子どもたちの首を絞めた。
胡桃澤盛は河野村95人の安否を確かめるため東京に赴き情報収集に奔走したが、情報は得ることができなかった。失意のまま村に戻った胡桃澤は家にこもりがちとなるが、終戦から10カ月が経った頃、隣村の開拓団員から現地の惨状を初めて知らされることとなった。
そして終戦から約1年後の昭和21年7月27日、窮乏する村を立て直す補助金を手に入れるために国策に乗ったばっかりに村人たちを集団自決に追い込んでしまった責任感からだろう、胡桃澤は自宅で自ら命を絶った。41歳。
1970年代以降、中国残留孤児が相次いで帰国を果たしていた1979年2月、「満州国農政と農業移民―分村計画を中心として―」と題して農林省の元官僚らがかつての国策を総括していたという。
元農林更生協会理事の報告文。
「満州国は広大な土地があり、立派に利用できるのは日本人じゃやないか。それを利用することはある意味いいことだと考えた」
「Wikipedia」の「満蒙開拓移民」の項目には次のように記述されている。
〈入植の実態
満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず「匪情悪化」を理由に既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団」へ強制移住させるとともに、満州拓殖公社がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げ日本人開拓移民を入植させる政策が行われた。およそ2000万ヘクタールの移民用地が収容された(当時の「満州国」国土総面積の14.3%にあたる)。日本政府は、移民用地の買収にあたって国家投資をできるだけ少額ですまそうとした。1934年(昭和9年)3月、関東軍参謀長名で出された「吉林省東北部移民地買収実施要項」では、買収地価の基準を1ヘクタールあたり荒地で2円、熟地で最高20円と決めていた。当時の時価の8%から40%であった。
このような低価格での強権的な土地買収は、吉林省東北部のみで行われたでのはなく、満州各地で恒常的に行われた。浜北省密山県では全県の私有地の8割が移民用地として取り上げられたが、買収価格は時価の1割から2割であり、浜江省木蘭県徳栄村での移民用地の買収価格は、時価の3割から4割であった。そのうえ土地買収代金はなかなか支払われなかった。このように開拓民が入植した土地の6割は、地元中国人や朝鮮人が耕作していた土地を強制的に買収したものであり、開拓地とは名ばかりのものであった。そのため日本人開拓団は土地侵略の先兵とみなされ、初期には反満抗日ゲリラの襲撃にあった。満州国の治安が確保されると襲撃は沈静化したが、土地の強制買収への反感は根強く残った。〉
土地を立派に利用できるのが例え日本人であっても、正当とは言えない値段で買い叩いた土地を利用していいはずはない。
いわば中国人を安く買い叩いてもいい相手と見做している。この手の認識は日本人を中国人に対して優越的な位置に置いていなければ出てこない。
(テープに残された元農林省経営課長の声)
「全て失敗ですけれども、日本の農家から見ればですね、いいことだったと思うし、今でもいいことと思っていますねぇ」
番組は女性のナレーションで、「彼らの残した言葉には反省の色はなかった」と言わせているが、元農林省経営課長にしても奪ったも同然の土地だという認識がない。
いわば相手が中国人だから、奪ってもいい土地だとしている。前者と同じく優越意識を覗かせている。
中国残留孤児に関して番組は女性のナレーションで、「国は戦争の損害はすべての国民が受任しなければならない。国内外どこであっても異なるものではないとその責任には言及していない」と批判しているが、いつ誰の言葉かネットで調べたところ、「中国残留邦人への支援に関する有識者会議」第3回議事録(厚労省/2007/05/30)の中での発言と思われる。
当時中国残留邦人集団訴訟が各地で起こされていた。このことに関して会議に出席していた野島厚労省援護企画課長が次のように発言している。文飾は当方
「これは一番最初に出た平成17年7月6日の大阪地裁の判決でございますが、戦中戦後において、国民のすべてが多かれ少なかれその生命、身体、財産上の犠牲を耐え忍ぶことを余儀なくされていたものであるから、戦争損害は、国民の等しく受忍しなければならないものであり、このことは、被害の発生した場所が国内または国外のいずれであっても異なるものではない。これは地裁でございますが、判決が出ておるところでございます。〉――
だが、集団訴訟は原告側が相次いで取り下げることになった。改正中国残留邦人支援法で、残留孤児や終戦時に13歳以上だった残留婦人を対象に現在3分の1しか支給していない基礎年金を満額支給(月額6万6000円)し、生活保護に代わる生活支援給付金として月額最高8万円(単身世帯)を支給することなどが盛り込まれ、訴訟費用も国は孤児側に請求しないとしたからだ。
残留孤児に対する国の責任を認めたなら、国内で国民を米軍の空襲で死亡させた責任、その他の責任まで認めなければならないし、最終的には国の戦争責任まで認めなければならなくなる恐れが出てくるから、元慰安婦に対するように支援という形でカネで解決することにしたのだろう。
河野村の村長胡桃澤盛が日本から満州国への移民送出の国策に最初は懐疑的であったこと、窮乏する村を立て直す補助金を手に入れるために国策に乗ってしまったこと、分村という形で満州国に送ったものの、1年足らずのうちに45歳以下の男性は関東軍に招集され、高齢者や女性ばかりが取り残されたこと、関東軍が開拓民には事実は伝えずにソビエト軍に備え新京より南に防衛ラインを後退させて、防衛ラインの外側に開拓民を無防備に取り残して邦人保護の責任を放棄したこと、日本が敗戦すると、二束三文同然のカネで土地を奪われた中国人が復讐にやってきて様々な狼藉を受け、逃げ惑い、絶望してだろう、子どもを殺してから老人や女性が集団自決したこと、戦後そのことを知った胡桃澤盛が国策に乗って村民を満州国に移民させたことの責任から首を吊って自殺したこと。
かくまでも反戦の思いを込めた番組を終戦記念日の特集の形で放送されたのでは、安倍晋三が数の力で決めることができる国会同意人事を力としてNHK会長の任免権を持つNHK経営委員に安倍晋三に思想的に近い人物を送り込んで、同じく安倍晋三に思想的に近い籾井勝人をNHK会長に据えることに成功し、その人事で安倍晋三の歴史認識を逆撫でする番組に圧力をかけたい気持が十分に理解できる。
あの手この手を使っているのだろうが、今のところ完全には成功していない。