中国の胡錦涛国家主席が中国南部の海南島でオーストラリアのラッド首相と会談して、「われわれとダライ・ラマのグループとの争いは、民族や宗教、人権の問題ではない。国の統一を維持するか、それとも分裂するかの問題だ。チベットの問題は完全に内政問題だ」と述べたと昨12日夕方、NHKテレビがニュースで伝えていた。
「民族や宗教、人権の問題」ではなく、「国の統一を維持するか、それとも分裂するかの問題だ」――。
胡錦涛は邪なまでに飛んでもない心得違いをしている。
基本的人権を保障せずに直接的な武力や軍隊・警察を誰の目にも見える形で存在させたり、監視、密告制度等の情報操作を装置として恐怖感情を喚起させ国民の自由な活動を抑圧する種類の「国の統一」は国家権力と国民が相互性を備えた「統一」とは既に言えない状態にある。国家権力による国民に向けた一方通行の支配でしかなく、国民は国家権力に従属する存在としての価値しか持たないことになる。
そのような支配と被支配の関係は支配地域を領土としてはいても、国家権力と、支配地域に住み生活する国民の間にはそれぞれの存在性に乖離を内在させていて「統一」とは正反対の「分裂」状態にあると言える。
「国の統一」とは国民あっての国土・国家なのだから、国民の存在性を第一義的問題としなければならない。
いわば国民の間に「民族や宗教、人権の問題」を限りなく抱えない状況が保障されて、初めて国家は統一性を担保し得る。国民の存在性を無視した国家は権力のための権力へと自己目的化した国家であって、形の上の「統一」はあっても、国民を疎外した「統一」という倒錯を抱え込んだ一体性しか保持できない。
もし胡錦涛がチベット問題を「国の統一を維持するか、それとも分裂するかの問題だ」とするなら、「民族や宗教、人権の問題」の解消を前提として、初めて正当性を得る。決して相手の望まない様々な手段を講じた対チベット中国化を以って、「国の統一」とするのは当たらない。
対チベット中国化は緩やかな「民族浄化」とも言える。
胡錦涛は自らの心得違いに気づかないようだから、聖火リレーの妨害、開会式のボイコット、あるいはオリンピック出場選手による開会式や表彰台での何らかの人権アピールを通じて抗議の姿勢を示し、そのたびに胡錦涛に外国首脳や外国メディアを通して世界に向けて百万遍も「チベットの問題は完全に内政問題だ」と言わさせよう。夜の眠りに就いているときも、夢の中でも「チベットの問題は完全に内政問題だ」と言わさしめ、寝言でも言う程になるまで様々な抗議方法でチベット問題を訴える。
もし「チベットの問題は完全に内政問題だ」が実態どおりの事実で、それが世界標準として通用する状態なら、わざわざ「チベットの問題は完全に内政問題だ」と言う必要もないわけで、言わざるを得ないところに実態とは違うことの暴露を自ら演じることになる。世界標準とは懸け離れているゆえのそれを誤魔化し正当化するための強弁に過ぎないことを炙り出すこととなる。
何度も何度も言わせることで、「狼と少年」の「狼が来た」と同様の言葉で証明しているに過ぎない「内政問題」とする。
胡錦涛が言い疲れたところで言ってやる。「世界が認めることなら、何度か言えば済むのだが、何度も言い続けなければならないのは世界が認めるわけにはいかないからでしょう。チベット自身も認めていない」
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中国主席 チベットは内政問題(NHK/08.4.12)
中国の胡錦涛国家主席は12日、チベット自治区で発生した大規模な暴動について「チベットの問題は完全に内政問題だ」と述べ、国際社会が干渉すべきではないという立場を強調しました。これは、胡錦涛国家主席が、中国南部の海南島でオーストラリアのラッド首相と会談した際に述べたものです。
中国国営の新華社通信によりますと、会談で胡主席は、チベット自治区で発生した大規模な暴動について、「われわれとダライ・ラマのグループとの争いは、民族や宗教、人権の問題ではない。国の統一を維持するか、それとも分裂するかの問題だ」と述べました。そのうえで「チベットの問題は完全に内政問題だ」と述べ、国際社会が干渉すべきではないと強調しました。
これに対して、オーストラリアのラッド首相は、チベットには重大な人権の問題があると指摘したうえで、ダライ・ラマ14世との対話の再開を促したとみられます。しかし、胡主席は、ダライ・ラマ14世のグループがチベットの分離独立を求める運動をあおったり、北京オリンピックを妨害したりしているとして、こうした行為をやめなければ対話に応じることはできないという中国政府の立場を伝えました。
2007年1月12日、国連安全保障理事会が提出したミャンマー軍事政権に対してその人権抑圧政治を非難し、民主化運動指導者アウン・サン・スー・チー女史の自宅軟禁解除及び全政治犯の無条件釈放を求めるミャンマー非難決議案は中ロの拒否権に会い、否決された。
そのときの中国王光亜国連大使の反対演説「ミャンマーの問題は主権国家の内政問題であり、隣国いずれの地域的平和と安全に対する脅威だとは認識していない」(≪ミャンマー非難決議案で安保理 中ロ拒否権、否決 そろって行使は5年ぶり≫07.1.13『朝日』朝刊)
いわばミャンマーに於けるアウン・サン・スー・チー女史の自宅軟禁に代表される政治活動の制限も軍事体制反対派及び人権活動家の刑務所への拘束といった人権抑圧も周辺国家に何ら「平和と安全に対する脅威」を与えているわけではなく、「国内問題」にとどまっているから「非難決議」するに当たらないと言っているのである。
中国がこのように人権抑圧が地域国家の「平和と安全」を脅かさない限り「主権国家の内政問題」(=国内問題)にとどまるとする政策を堅持するのは自国の人権抑圧政策を正当化し、国際圧力をかわす方便となり得るからなのは説明するまでもない。
そして8ヶ月後の年9月19日、ミャンマーで僧侶を中心とした軍事政権に対する抗議デモが勃発、官憲による流血の弾圧を受けて鎮圧され、元の軍事独裁的平穏状態に復した。
その際デモ隊鎮圧中の軍兵士にその模様を撮影していた日本人ジャーナリスト長井健司氏が至近距離から狙撃され、不条理な死を遂げさせられている。取締る側に強い鎮圧の意志とその様子を一人でも多くの国民及び外国に報せまいとする強い意志が働いていたことからの現場を撮影する者に対する相手を問わない非情な狙撃だったのではないか。
中国にとってはデモも武力鎮圧も「地域的平和と安全に対する脅威」を与えているわけではないミャンマーに於ける「主権国家の内政問題」に過ぎないのだから、それを撮影して国外に持ち出し、報道することで国際世論を不当に煽ること自体が間違った行動だとしか受け止めていないに違いない。
「国内問題」だと譲らない中国の反対によって纏まらないことを恐れて、国連安全保障理事会のミャンマー軍事政権に対する議長声明案は軍政への非難や要求などの文言が削除され、「強い遺憾」を表明するにとどめて採択されるに至っている。
そしてミャンマー軍事政権は中国のそのような姿勢の後押しを受けて、国際世論の様々な圧力に関わらず頑強な軍事独裁政治を維持している。
一つの国がどのような人権状況にあろうと、「地域的平和と安全に対する脅威」を与えていない以上「主権国家の内政問題」に過ぎないとする中国の国際政治理論は今回のチベット暴動と中国当局による武力弾圧でも当然のことながら適用された。
中国の温家宝首相の「チベットは中国の領土の不可分の一部」という姿勢もチベット問題は「国内問題」だとするメッセージの言い替えに過ぎないが、米議会が対中非難決議を可決すると、中国外務省姜瑜副報道局長は次のように述べている。
「中国内政に対する粗暴な干渉であり、中国人民の感情を著しく傷つけた」(≪中国「粗暴な内政干渉」 チベット問題 米議会の決議に反発≫西日本新聞/2008年4月12日 00:29)
姜はこうも言っている。「チベットの歴史と現実を勝手に歪曲(わいきょく)し、暴力犯罪に対するチベット自治区政府の対応を理由もなく非難している」(同記事)
だが、自由な思想・自由な信教、自由な言論の発露は生まれながらにして持っている人間の本性であり、人間が人間らしく生きるために本能として等し並みに与えられている普遍の原理であって、憲法による人権の保障は法律という文書によって可視化し、権利としての契約を行ったに過ぎない。
そうである以上、人権問題は人類の問題であり、全世界の問題としなければならない。このことは人権の保障が政治や文化と一致することによって成立可能となる。
それを一部の政治あるいはその他の権力が制度や文化の押し付け等で自由であるべき人権に抑圧、制限を加えて等し並みの条件を外し人類全体の問題ではない、「主権国家の内政問題」に過ぎないとした場合、人類にとってはそのことだけで脅威であろう。例え直接的に「地域的平和と安全に対する脅威」を与えないとしてもである。
例えば男が妻に家庭内暴力を振るう。それを家庭内の問題で片付けることはできまい。なぜならそのような男の存在が許されること自体が他の女性にとっても脅威となる女性全体の問題であり、全女性の安全保障に関わってくるからだ。
中国はあくまでもミャンマーの軍事政権の国内的な人権抑圧政策も自国の対チベット抑圧政治も「主権国家の内政問題」だとする姿勢を取り続けるだろうが、チベット人権抑圧に対する北京オリンピック聖火リレー妨害を世界各地で展開することで世界は人権問題が決して「主権国家の内政問題」で収まらないことを認知させる絶好の機会とすべきである。「主権国家の内政問題」だとする中国式標準を世界は標準としていないことを。
標準の違いをより多く知らしめるために各国首脳のオリンピック開会式の出席取り止めも効果があるのは言うまでもない。
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≪中国「粗暴な内政干渉」 チベット問題 米議会の決議に反発≫(西日本新聞/2008年4月12日 00:29)
【北京11日傍示文昭】中国外務省の姜瑜副報道局長は11日、チベット問題で米議会が9日に対中非難決議を可決したことについて「中国内政に対する粗暴な干渉であり、中国人民の感情を著しく傷つけた」と強く反発し、「強い憤りと断固たる反対を表明する」との談話を発表した。中国政府は昨年、ブッシュ大統領がチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世と会談した際も抗議の談話を発表したが、ここまで厳しい論調で米国を非難するのは異例。
姜副局長は談話で、特に下院決議に強く反発し「チベットの歴史と現実を勝手に歪曲(わいきょく)し、暴力犯罪に対するチベット自治区政府の対応を理由もなく非難している」と厳しい姿勢を示した。
談話はまた、「米議員の一部がチベット自治区ラサで起きた暴動参加者や暴動を画策したダライ・ラマ側を非難せず、批判の矛先を中国政府と中国人民に向けている」などと指摘、ダライ・ラマを擁護している点も強い調子で批判している。
日本銀行の副総裁を総裁に昇格させる政府提案の人事案が9日午前の与党その他の野党の賛成多数で可決、同意の運びとなった。だが、前財務官の渡辺博史副総裁案は民主党その他の野党の反対で否決。不同意となった。
民主党は全員が反対したわけではない。「造反・欠席・棄権は7人」と『毎日jp』(08.4.10≪日銀総裁:後任人事 民主、党運営に火種 造反・欠席・棄権7人、小沢氏への反発拡大≫)は伝えている。
その理由は渡辺副総裁案がふさわしい人事であるにも関わらず小沢氏主導の不同意が「政局がらみの判断」だからというものらしい。
いわば小沢一郎の「政局がらみの判断」は間違っていると断罪した「造反・欠席・棄権」の意思表示というわけである。
ここで問題としなければならないのは、小沢一郎の「政局がらみの判断」は間違っているという7人の判断が果して正しい判断なのかと言うことである。つまり渡辺氏が日銀副総裁にふさわしい人事だから「同意」とする判断が果たして正しい判断だと言い切れるのかということである。勿論、現在の政治状況にあってという条件付きである。状況に応じてた正しい・正しくないは違いが生じる場合があるからである。
優等生意識があるのか、自信過剰なのか、何となく小賢しさが鼻につく前代表だか元代表だかの民主党前原誠司も<「本音は同意したかった」と発言。「党内の大半が容認していた中で『反対』となった。相当、党内に不満がたまっているのではないか」>と上記記事が伝えているが、これも小沢一郎の「不同意」は「政局がらみの判断」であって、間違っているとする立場であろう。
先ず小沢一郎がその頭に思い描いている最大・最終シナリオは断るまでもなく、「解散・総選挙・民主党政権誕生」である。そのようなシナリオ意識に立っているから、与党が出すすべての政策に対する対応が「解散・総選挙・民主党政権誕生」の一点に光を集める政治行動を取ることとなっている。4月6日日曜日の朝7時半からのフジテレビ「報道2001」でも9時からのNHK「日曜討論」でも「解散・総選挙・民主党政権誕生」に言及している。参議院与野党逆転状況であることのみならず、それを武器として追い込んだ福田内閣低支持率の今がそのチャンスだと見ていることからの当然の態度であろう。
フジテレビ「報道2001」で語った内容を「MSN産経」(2008.4.6 20:45)が伝えている。
≪「できればサミット前後に解散に追い込む」 報道2001で小沢氏≫
<民主党の小沢一郎代表は6日、フジテレビの「報道2001」に出演し、衆院解散・総選挙に向けた戦略について語った。主なやりとりは次の通り。
――政府・与党は揮発油(ガソリン)税の暫定税率復活のため、衆院の再議決に踏み切るか
「国民が許すかどうかだ。『けしからん』という意見が大きくなったら、自公政権は再議決できない」
――再議決した場合、福田康夫首相に対する問責決議案を出すか
「具体的にはその時だが、あらゆる選択肢を考えてやる」
――7月の洞爺湖サミット前後の衆院解散に追い込む考えか
「できれば。国民の意識がどこまで盛り上がるかによるが」
――福田内閣が総辞職する可能性は
「行き詰まれば総辞職になるかもしれないが、ぼくらは『早く選挙をしろ』ということだ。国民が『自公政権でいい』と言うなら仕方がない。『民主党やってみろ』と言うなら頑張る。その判断を早く国民にしてもらいたい」
――総辞職で新内閣が発足した場合、対応しにくくなるのでは
「いや。頭をすげ替えて、年金やガソリン税の問題が何とかなることはない。誰になったっていいが、早く国民の判断を問うてほしい」
――福田首相は道路特定財源の一般財源化に関し「『骨太2008』に盛り込むことを検討する」と述べた
「官僚の作文だ。『盛り込みます』と言わなければ『検討した結果どうなるの』という話になる」>・・・・・
NHKの「日曜討論」でも小沢一郎は同じ姿勢を示している。司会者から「小沢さんの戦略からしますとね、いわばここまでは(暫定税率期限切れ廃止のこと)第一幕で、解散・総選挙に持ち込んで政権交代を実現すると、言うところまで行かないと、シナリオは完結しないと思うんですけども――」
小沢一郎「そう」(と即座に答えている。)
司会「そういう意味で、どうなんでしょう?ここまで来たってことは今どの辺まで来ているのか、もうシナリオは目前まで来たっていう感じですか?」
小沢「と、あのー、思っています。ガソリン税について言えば、もう今の福田総理は、3分の2でまた値上げすんだと、そう言っておられるますけれども、このぐらい国民の皆さんが期待していることをまた引っくり返して値上げするようなことになりますと、それこそ混乱しますし、こういう事態のときは要するに年金もあれば、防衛省の問題ということもありますね。色々もう膿が吹き出ていますけど。ですから、国民主権者の、僕は、審判を仰ぐ以外に方法はない。そう思います。そしてそれがやっぱり民主主義の一番の機能、効果じゃないでしょうかね。それで、国民のみなさんが何をやったって自民党・公明党の政権でいいと言えばしょうがないし、いや、やっぱりこの辺で一つ大掃除して、国民中心の生活中心の、民主党政権をつくろうと、言うことであれば、そう判断していただく。まあ、どっちか判断していただく以外ないと思います」・・・・・
福田首相はマスコミに早期解散を否定しているが、小沢代表はいつ解散しても選挙に万全を期することができるよう民主党に指示を出している程に「解散・総選挙・民主党政権誕生」に向けて積極的である。今のチャンスを逃してなるまいという意識を強くしているからだろう。
この解散に関わる相反する両者の姿勢は昨9日のNHKニュースが伝えた福田対小沢の党首討論にも如実に現れている。実況ではなくニュースで伝えているのだから、不必要箇所をカットした放送となっている。
小沢代表「大蔵省の経験をした人が、入るちゅうのは、あの、鼻っからいけないと言っているわけではないんです。日銀の総裁、副総裁、その中に必ず大蔵省がポストを占めると、そういう既得権益の中にあるから、それがいけないって言うんですよ。そういう支配の構造を直さなければならない――」
福田首相「日銀というのは誰でもできるというポストでもないと思うんですよね。適材適所、人物本位、そのこともお考えいただきたい。ま、正直言って、翻弄されました。翻弄されたですよ。そんな思いが致しておりますけども。しかし、その人事権は政府にあるんだと、ですね、余っ程変な人事をしないんであれば、それをお認めいただくというのが、それが議会の、その、国会の人事制度だと思います。もう4人も否定したんですから。武藤氏以来。そういうのは権力の乱用って言うんです。人事権の乱用って言うんです。これはね、私はね、いただけない」
小沢一郎「内閣は二院制の中で一院しか多数を持っていないんです。そういう状況の中で、政府・与党の出したことは、みんな、とにかく、あのー、呑まなきゃいけないことでは、それはあり得ないんで、本来ならば、予算編成の段階から、その、色々と協議しようと言うならば、協議するのが当たり前でございますが、国民が与えてくれた過半数に対する認識が違うんじゃないかな、そのように思います」
福田首相「一つ一つの大事なことについて、結論が遅いですよ。民主党と申しますか、野党は。遅い。昨年の10月以来、もう、本当に何度も何度も、その政策協議したいと言うことは申し上げてきたんですよ。代表の気持ちはやっぱり、これ一緒に、いなくて、やらなきゃできないということを考えてね、あの会談をセットされた、こういうふうに思っておりますんでね。その気持は今でも、私の気持ちは一杯あるんですよ。誰と話をすればですね、信用できるのか、そのこともですね、是非お示し、教えていただきたい。大変苦労してるんですよ――」(以上)
小沢代表の方は「協議」自体は否定していないが、「国民が与えてくれた過半数に対する認識が違う」という表現で自分が手にエースのカードを握っていることを十分に承知していることを示し、切り札としてのその優位性に自信たっぷりなところを見せている。
勿論、この優位性が小沢氏をして「政局」行為、「党利党略」を可能たらしめている。
対して福田首相の方は大連立に未練を残している。大連立は自民党を権力の一角に温存させることを意味する。権力温存が意識にあるから、日銀人事での民主党の不同意を「権力の乱用」、もしくは「人事権の乱用」という解釈が出てくる。
もし小沢一郎の戦略が「解散・総選挙・民主党政権誕生」以外にないと思い定め、腹を括ることができていたなら、日銀人事に対する不同意、その他の小沢手法が「政局」目的の当然の措置だと観念しただろうから、「権力の乱用」だとか「人事権の乱用」と言った言葉は益もないことだから口に出すことはなかったろう。腹を括るしかないのだが、括ることができないから、「権力の乱用」、「人事権の乱用」が泣き言に聞こえてくる。
自民党幹事長の独善的な不平不満居士伊吹も民主党の日銀副総裁人事不同意について<「やや国益を離れた党利党略的な判断が優先したとしか思えない」と批判。参院の採決で同党から造反者が出たことを指摘し、「真っ当な意見を持った人がいたことは民主党執行部はしっかりと考えてほしい」と語った。>(≪日銀総裁 空席解消)白川氏、午後に任命≫08.4.9『朝日』夕刊)と語っているが、小沢一郎からしたら伊吹のこの言葉を知った時点で「解散・総選挙・民主党政権誕生は長期的には国民の利益となるのだから、それこそが国益であって、そのための党利党略のどこが悪い」と腹の中でせせら笑ったに違いない。NHK「日曜討論」で話していたように「民主主義の一番の機能、効果」というわけである.
「国益を離れた党利党略的な判断」などと表面的にしか解釈できない伊吹不平不満居士に対して、「燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知らんや」(「ツバメやスズメのような小さな鳥にオオトリやクグイのような大きな鳥の志がわかるだろうか。小人物には大人物の大きな志は分からない。」『大辞林』三省堂)と思ったかどうかは推測しようがないが。
小沢一郎の財務省の天下り・既得権益を口実にした財務省出身官僚の日銀人事不同意が「解散・総選挙・民主党政権誕生」という大事を実現するための、その大事から比較したらごくごく小事でしかない確信犯的「政局」行為であり、「党利党略」判断なのだと受け止めるなら、小沢一郎主導の不同意を民主党内の「造反・欠席・棄権」の7人が「政局がらみの判断」だと批判したのは「解散・総選挙・民主党政権誕生」の戦略を弱める批判となり、正しい判断とは言えなくなる。「解散・総選挙・民主党政権誕生」を望んでいないということなら、逆に正しい判断となる。野党民主党に所属していながら、隠れ自民党議員ということで、望める立場にないということなのだろう。前原にしても普段から自民党べったりの主張を展開している。
「解散・総選挙・民主党政権誕生」に持っていくためには「政局」も「党利党略」も結構毛だらけ、猫灰だらけではないか。今のチャンスを逃したなら、民主党に政権のお鉢がいつ回ってくるか分かったものではない。鉄は熱いうちに打てである。「政局」、「党利党略」で押しまくる以外に政権交代の機会を手に入れることができるというのだろうか。
福田政権が生き残るためには小沢一郎の挑戦に乗ってイチかバチかの勝負にかける以外ないだろう。これ以上支持率を下げていき、解散に追い込まれたら、生き残る道は万が一にもなくなる。微かな希望を託して吉と出るか凶と出るか賭けに出る。今以上に日本の政治を混乱させないためにも国民の審判にすべてを委ねる。それは政権党の役目でもあり、責任でもある。福田康夫はただただ安倍の二の舞を恐れているとしか思えない。
例え二の舞を演じることとなっても、安倍晋三の有難い置き土産が招いた二の舞なのだから、恨むなら安倍晋三を心ゆくまで恨めばいい。
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≪日銀総裁:後任人事 民主、党運営に火種 造反・欠席・棄権7人、小沢氏への反発拡大≫)(毎日新聞 2008年4月10日 東京朝刊)
「3度目の不同意」となった9日の日銀人事案の参院本会議採決で、前財務省財務官の渡辺博史氏を副総裁に起用する案を巡り、民主党内で小沢一郎代表に対する不満があらわになった。造反・欠席・棄権は7人。同一会派の無所属議員1人を加えると8人で、4人だった前回(3月19日)の倍に増えた。造反議員は党内の大勢だった容認論に反する党方針を「政局がらみの判断」などと批判。党方針を決定付けた小沢代表に対する反発の広がりは、今後の党運営に大きな火種を残した。
「党の決定はおかしい。小沢代表は非常にかたくなに何かに固執された」。渡辺副総裁案に同意票を投じた大江康弘氏は記者団に語った。渡辺秀央氏も小沢氏の言う天下りに当たらないと主張し「民主党に国を任せることに疑問が出てくる」と懸念を示した。
日銀正副総裁人事の採決は今国会で3回目。民主党の造反者増に加え、統一会派を組む国民新党が2回目から同意に回ったため、同意と不同意の票差は次第に縮まっている。
衆院採決で党の方針に従った前原誠司氏も「本音は同意したかった」と発言。「党内の大半が容認していた中で『反対』となった。相当、党内に不満がたまっているのではないか」と指摘した。
こうした声に小沢代表は9日の会見で「違う意見をまとめるために組織がある。組織のプロセスを経て決めるのは当たり前」と反論した。しかし、欠席にとどめたある議員は「ダメージは大きい。今回はまずい」と漏らした。【上野央絵】
聖火ランナーを巡る抗議活動を報道する各新聞記事を見ていると、如何に人間が利害の生きものであり、利害に縛られて活動しているかがよく理解できる。
北京五輪組織委員会王恵・新聞宣伝部長(≪「チベット独立」分子の聖火リレー妨害は支持されない≫(08.4.8「人民網日本語版」)「オリンピックの聖火は全世界の人々のものであり、オリンピック精神を公然と挑発する極少数の者の行為は、人々の支持を得られず、平和を愛しオリンピックの趣旨を擁護する人々に必ずや強い憤りを呼び、失敗する運命にある」云々――。
中国政府の立場に立った利害が言わせているに過ぎない言葉の数々となっている。「オリンピックの聖火は全世界の人々のもので」あったとしても、中国の人権抑圧政策は決して「全世界の人々のもの」ではないことが中国政府の立場上の態度に過ぎないことを最初から証明している。
新聞宣伝部長が言う「チベット独立分子」の側から言わせたなら、中国政府がどれ程の人権抑圧政策を敷いているかの共通認識を「全世界の人々のもの」とする意図で聖火を人権抑圧に対する抗議の標的としているということなのだろう。とにかく中国国内と違ってどのような取材制限もなく、情報操作のゴマカシもなく、即時に世界に向けて見たまま、ありのままが発信されるのだから。
聖火に向けた抗議活動は「オリンピック精神を公然と挑発する」行為だと非難しているが、「オリンピック憲章」は「根本原則」で「オリンピック精神」を次のように伝えている(一部抜粋)。
「オリンピズムの目標は、あらゆる場でスポーツを人間の調和のとれた発育に役立てることにある。またその目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにある。この趣意において、オリンピック・ムーブメントは単独または他組織の協力により、その行使し得る手段の範囲内で平和を推進する活動に従事する。」・・・・
聖火ランナーに向けた抗議活動が、それが例え「暴力」を用いた阻止を目的としていたとしても、「人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立」に真っ向から「挑発」、逆行させる人権抑圧政策と比較した場合、どれ程に重大な罪を犯していると言えるだろうか。
オリンピックの精神が求める「人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立」と相反する人権抑圧社会の確立を行っている中国である。それを第三者に向けて「平和を愛」するとかしないとか口にする資格もないのに口にするのはやはり立場上の利害が言わせていることだから破廉恥を省みずに言えることなのだろう。
そもそもからしてオリンピックを開催する資格自体がなかった。また、「人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立」にまで至っていない人権後進国の中国に国際オリンピック協会が自らが掲げるオリンピック憲章に反してまで開催を許したこと自体が間違っていたのである。
このことはドーピング違反を犯してメダルを獲得する選手よりも質が悪く、その罪はより重いのではないか。
北京五輪の聖火リレーがロンドンとパリで妨害されたことに対する中国外務省姜瑜副報道局長の非難の言葉を『毎日jp』(2008年4月8日 12時27分)≪北京五輪:「卑劣な行為」 聖火リレー妨害で中国外務省≫が次のように伝えている。
「この卑劣な行為は崇高な五輪精神を汚し、五輪を心から愛する全世界の人々への挑発だ。・・・・トーチが伝える平和、友情、進歩の理念は何人も妨げることはできない」
中国のチベット人や新疆ウイグル族や国内人権活動家に対する人権抑圧は決して「卑劣な行為」ではなく、「崇高な五輪精神」にも反しない「崇高な」中国政策だとする立場なのだろう。そのような利害に立った態度となっている。中国の対チベット政策は「トーチが伝える平和、友情、進歩の理念」に添ったもので、「何人も妨げることはできない」。
トーチがいくら「平和、友情、進歩の理念」を伝えようとも、中国の人権抑圧政策がそれを相殺してその非人間性のお釣りが出る程なら意味もないことだが、立場上の利害が対チベット政策を「崇高な」正義と位置づけているからこそできる非難である。如何に人間の利害なるものが始末に悪いものか証明して余りある。
中国政府関係者及び中国オリンピック関係者が中国の利害に立って自己正当化の主張を展開するのはある面当然の行為だが、そのことは中国政府関係者にとどまらない。
国際オリンピック委員会(IOC)のロゲ会長がパリ・ロンドンで聖火リレーが妨害されたことに関して「五輪の美しいシンボルが妨害されることは悲しい」と述べたと『asahi.com』(≪聖火リレー、ルート見直し検討も 国際五輪委≫2008年04月08日21時03分)が伝えている。
守るべきは「五輪の美しいシンボル」なのか、それとも中国の人権抑圧政策の犠牲となっているチベット人なのか。国際オリンピック委員会(IOC)の会長という立場上の利害からしたら、中国の人権抑圧政策の犠牲となっているチベット人を守ることよりも、「五輪の美しいシンボル」をこそ守ることを優先させるのも無理はない選択ということなのだろう。
そう、「五輪の美しいシンボル」さえ守ることができればいいのです。チベット人のことなどどうでもいいことなのです。
国際オリンピック委員会(IOC)会長がこうだから、フェルブルッゲン北京五輪調整委員長にしても副会長のリンドベリにしても同じ利害感情に侵されて次のように言っている(≪妨害は「非常に悲しい」 副会長は「罪悪」と批判≫日経インターネット記事/08.4.8)。
フェルブルッゲン「われわれの聖火がこのように利用されるのを見るのは悲しい。聖火の意義はもっとほかにある」
聖火に人権抑圧政策に対する抗議の「意義」を持たせたことなどオリンピックを開催する側の立場の人間の利害からしたら、気づくこともない無「意義」なことなのだろう。
リンドベリ「聖火は平和と非暴力の象徴。聖火リレーを利用するのは、ほとんど罪悪だ」
自由と平等、人権を保障する民主主義国家がオリンピックを開催してこそ「聖火は平和と非暴力の象徴」となり得る。オリンピック発祥の地アテネからリレーされ、人権抑圧国家の中国の地に於いて開会の瞬間を告げる聖火を「平和と非暴力の象徴」だとするのは中国に於ける現実を反映しない倒錯そのものであろう。現実世界を映さない象徴は象徴としての意味を失い、単なる形式(この場合はスローガン)にとどまる。
だが、国際オリンピック委員会の人間の利害からしたなら、開催国を決めるに当たって選考の決定権を持つ委員が開催立候補国の国内オリンピック委員から高額の接待を受けたり高額の贈り物を受けて情実を働かせて決定したとしても、そんなことは些かも「罪悪」だと思わずに「聖火は平和と非暴力の象徴」であり続けるだろう。自己が置かれている立場上の利害からしたら当然の感覚である。
国際オリンピック委員会(IOC)の猪谷千春副会長「抗議をするのは言論の自由の世界で認められているが、暴力があってはいけない。ロンドンではかなり暴力があった」
男子棒高跳び世界記録保持者ブブカ理事「表現の自由は支持するが、世界で最も美しい理念である五輪を政治的に利用してはいけない。聖火リレーを攻撃するのは間違っている」
いずれも「日刊スポーツ」(08.4.7記事≪聖火リレー妨害にIOC「暴力は残念」≫)
五輪は暴力も政治利用も似つかわしくない「世界で最も美しい理念」を体していると後生大事に掲げ、必要に応じてひけらかしたいだろうが、既に述べたように委員や理事の接待や贈物を受け取る卑しい人格性、あるいはドーピング行為まで働いてメダルを獲得しようとする跡を絶たないアスリートたちの浅ましい功名心、国威発揚を目的としてカネを集中的にかける不純な選手育成、あるいは法外な懸賞金でメダル獲得に尻を叩くあざといメダル狙い等を考えた場合、オリンピック開催関係者の側の利害が言わせている「理念」、「オリンピック精神」に過ぎないことがバレバレとなる。
世界205カ国・地域の国内オリンピック委員会で構成する各国オリンピック委員会連合(ANOC)が4月7日に北京で総会を開き、声明を発表したと「毎日jp」(08.4.7≪チベット問題:五輪開催支援などの声明承認 ANOC≫)が伝えている。
<声明には、北京五輪開催を全面的に支援する▽すべての国・地域が北京五輪に参加し大会に貢献する▽大会を政治的に利用することを拒否する▽中国政府が対話と理解を通じ、チベットにおける内政問題の解決に努めると確信する--などを盛り込んだ。チベット問題の解決は要求ではなく「確信」と表現することで、中国に配慮したとみられる。・・・・>――
この「確信」が如何に当てにならないものか、気づいていないとしたら詐欺師だ。気づいて、自分が置かれた立場上、そう言わざるを得ない利害に迫られて盛り込んだ体裁上の文言に過ぎないだろう。中国が「対話と理解」などそっちのけで自分たちのペースで対チベット中国化を果たそうとしているのは既に明らかになっていることだからである。
つまるところ、オリンピック開催関係者の利害が「正義」であり、チベットの人権抑圧に対する抗議は「挑発」、「罪悪」、「暴力」、「理念に反する」非正義として片付けられる。
そのことは次の「人民網日本語版」(≪ANOC「北京は五輪史上最も成功した五輪都市になる」≫2008年04月07日)が最もよく証明している。
<各国オリンピック委員会連合(ANOC)主席で、国際オリンピック委員会(IOC)執行委員のマリオ・バスケス・ラーニャ氏は6日北京で、「北京五輪組織委員会の準備業務は非常に円滑に進んでおり、北京が、五輪史上最も成功を収めた開催都市となる日も近くなっている」と述べた。
中国メディア数社の取材に対し、バスケス氏は、「北京五輪の準備業務は綿密で、完備されたものである。また、北京市内も大きく変化している。北京五輪の準備業務に対し非常に満足している」と述べている。
パン・アメリカンスポーツ機構(PASO)の主席も兼ねる、メキシコ人のバスケス氏は、「オリンピックスポーツの主旨とは、発展を推進し、全世界の団結や友好を促すもの。開催準備中の五輪都市である北京は、今、大きく変わろうとしており、北京市民も更に開放的になっており、また自信も備わってきている」と述べている。
バスケス氏はまた、「北京五輪の功労は、中国国民すべてに属すもので、その成果は全世界の人々に属すものだろう。北京五輪の成功は、中国国民と世界の人々との友好的な交流を促すだろう。ANOCは、各方面で、北京五輪のサポートをしていくつもりだ」と述べている。
ANOCは、205の国・地域オリンピック委員会で構成されており、第16回各国オリンピック委員会連合会議は、4月7日から9日まで北京で開催される。>――
中国が「五輪史上最も成功した五輪都市にな」ったからといって、人権抑圧政策が帳消しになるわけでもないのに、そうなるとでも考えているのだろうか。お祭りが終われば現実が姿を現わす。
開催国を中国と認めたことが間違っていなかったことを世界に知らしめることができる唯一の絶対条件が北京オリンピックの大成功、中国が「五輪史上最も成功した五輪都市にな」ることなのだから、利害上、北京オリンピックの成功を確信し、謳い上げなければならない。そして利害の点からも意識の点からもチベット問題も人権抑圧問題も排除することによって、成功は約束される。彼らの利害がそう要求している。
となると思想・表現の自由に関わる「基本的人権」の敵・抑圧主体にそれぞれの人間ガ抱える「利害」を付け加えることを忘れてはならない。
4月に入って学校は新学期が始まった。各地域の自治会所属の交通安全会が小学生の登校時の交通指導のために各通学路に立って世話を焼く。各警察署の婦人交通指導員が幼稚園や小学校を順次訪れて幼稚園児や小学校新入生を対象に横断歩道の渡り方の指導に当たる。「信号が青になるまで待って、青になったなら手を上げ、車が来ないか右左を確認し、安全だと確認できたなら、渡りましょう」
説明しながら指導員が手本を示すべく右手を高く上げて歩き出すと、その後ろについて子供たちは手本をそっくりなぞって指導員に言われたとおりそのままに幼稚園の庭や小学校の校庭に石灰で白線を引いた仮の横断歩道を渡っていく。あるいは車両通行の少ない実際の横断歩道を使って訓練する。
わが町では横断時の黄色い旗を見かけなくなったが、まだ存在するのだろうかとインターネットで調べてみたら、「楽天市場」で扱っていた。以前は信号機のポールに黄色い旗が収められた箱が取り付けてあって、子供たちが横断歩道を渡るとき1本手にしてそれを高く上げながら横断歩道を渡り、渡り切ると反対側道路の信号機のポールに取り付けてある箱に収める。
黄色い旗を高く持ち上げながら歩く姿は簡単にヒトラーユーゲントの一員に変身可能な姿を彷彿とさせた。とにかく誰も彼も同じそっくりの旗の掲げ方なのは同じ精神性が刻印されているように思えて、簡単に集団化可能に見えたからだ。
多分新学期開始とかの機会に新しいのに代えたり本数を補充するのだろう、箱に満杯状態になっている光景を見かけたものだが、と言っても箱は小さいから本数は10本程度だが、次第に本数が少なくなり、中にはカラッポの箱といった状態のところもあった。
わが町で黄色い旗を見かけなくなったように、信号機のない横断歩道で車を止めて幼稚園児や低学年の子供の横断を譲ると、以前は決まってのように大きな声で「ありがとう」と言ったものだが、最近殆ど聞かなくなったような気がする。その物言いは男の子も女の子も誰であってもみなそっくりの一本調子に機械的に発する声となっていた。元気よく「ありがとう」と言いましょうと教えられたとおりの言葉と抑揚をなぞって声を発することになるから、自分の声で自然に感謝を呼びかける声とはならずに同じ言葉を大きく発するだけの声となるのだろう。
大体が歩行者優先なのだから、車が率先して停車し歩行者に通行を譲るのは当然のルールなのだから、わざわざ大きな声で「ありがとう」などと言う必要はないし、また言うように教える必要もないのだが、一生懸命に機械的に従う子供をつくり出している。
言ってみれば交通マナーを教える側は交通に関わる言いなりに従うロボットを全国単位で大量生産しているということなのだろう。但し幼稚園に入った、小学校新入生になったといって交通指導に出かけて短時間でロボットをつくり出すことなど不可能だから、もともとロボットになる素地があったからと考えなければならない。本来的に権威主義の行動様式を民族性としているのだから、当然の経緯と言える。
その結果として、教えたとおりに機械的に従う子供は日本という国では素直ないい子と評価されることになる。
親や教師、あるいはその他の者の教え(=指示)に「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己の判断を基準に置いた行動性を習慣としていたなら、交通指導という名の短時間の教えに対する短時間の学びに誰も彼も横断歩道を渡るとき同じそっくりなロボット人間になることはないはずである。
交通指導の名を借りて交通マナーを教えながら、「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己規範性の育みの阻害を側面から援助しているといったところなのだろう。
「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性の獲得は自己思考を基準としているゆえに自己の自律的存在への止揚を意味する。また「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を基準としたとき、自分のみが関わる事柄としてそのすべての行動は自己責任行為となる。自己責任行為としないのは許されない。
交通指導という名の教えに関わる学びだけではなく、すべての教えに対する学びが「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断の心理機制を介在させる躾のシステム、あるいは教育のシステムとなっていないことが自分で考えることはせずに他者の言いなりに従うロボットの上に新たに同じロボットを上塗りしていく形式で人間形成を果たしているのではないのか。
最近は特に携帯をかけながら運転する高校生の自転車事故が多発していると言うことで、警察は交通課の警察官や女性交通指導員を高校にまで派遣させて自転車の乗り方、交通マナーを教えている。もしも幼稚園や小学校での交通マナー指導が教えられたとおりそのままに機械的になぞり、従うのではなく、「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性の育みにまで発展させることができていたなら、道路を自転車に乗って走るようになる年齢になったとしても「自分で判断して判断した自分の考えに従」って乗り方を自分から学んでいく自己判断行為としていっただろうから、高校生の年齢にまでなってわざわざ警察といった他者の力を必要としないずである。
ところが警察の方も本人任せにできず、わざわざ出張ってマナーを指導しなければならない。自分たちの幼稚園や小学校での交通マナー指導がそれぞれの子供たちの自己判断行為にまで高めることができなかったからに他ならないが、そのことを自覚もしないまま交通課の役目として繰返している。他のどの教育・指導とも同じように子供たちの自己判断行為に高めることまで意識した教えとはなっていないからだ。
高校生は指導を受けている間は警察官や交通指導員の指示に忠実に従うだろうが、元々「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を自己性としていないから、その場限りの指導に終わるのは目に見えている。そのことは高校生の自転車マナーの悪さがいつまでも言い伝えられていることが何より証明している。
上は下を従わせ、下は上に従う権威主義を行動様式としている関係から、日本の教育は基本的には「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を育む教育とはなっていない。
もしそういう教育となっていたなら、交通マナー指導は幼稚園や小学校の教えで足りていただろうし、またそれ以前の問題として、親が子供の手を引いて歩くようになってから、その時々の必要に応じて何をどう気をつけなければならないか交通マナーを教えない親はいないだろうから、警察の指導に待つまでもなく子供は自ら学んでいったはずである。
そうなっていないということは親の教えが「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」形式の自己判断行為とする教えでもなかったし、そういった教え方を受け継いで子供の方もそのような形式の学びとしなかったかったということだろう。逆の機械的に従うなぞりで終わらせていたから、当然の帰結として自己判断行為にまで高める機会を見い出せなかったことになる。
もし親が「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を育み教える「教育力」を有していたなら、「教育の原点は家庭にある」と考えて「改正教育基本法」の第十条で、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」とした条項は生きてくるはずである。
「親の教育力」を常に問題としているのは、親がそういった「教育力」を有していないからであり、その不足を補う要求としてわざわざ「改正教育基本法・第十条」に書き込まなければならなかった。
だが、親とは大人となった人間の立場上の一つの姿であり、教師も同じであり、交通マナーを指導する警察官も同じである。親だけではなく、すべての大人が「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を育み、教える「教育力」を有していないから、子供にそういった自己判断性を伝えることができないに過ぎない。
大人自体が権威主義の行動様式に侵されて「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性を欠いているから、そのような判断性が子供に伝わらず、伝わらないままそれを自らの行動性としてそのまま大人になるという循環が繰返されているのみである。
「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性の教育に留意しないと、教育基本法の家庭の教育のあるべき姿を謳った「第十条」は永遠に空文のまま、ハコモノのままで終わる。
政治家の介入をキッカケとした映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止をめぐって言論の自由・表現の自由の危機を訴える声が起こっているが、言論・表現(=情報)はそれぞれの政治的立場によって受け止め方・解釈が異なってくる。
根も葉もない言論・表現による風評等で精神的、あるいは経済的損害を与えることは許されないが、それ以外の主義主張に関係する言論・表現は人それぞれで受け止め方・解釈が異なる以上、どのような内容でも許されなければならない。
すべての人間が一致する主義主張など存在しないからなのだが、問題は他者の言論・表現を機械的になぞり、従う自己判断性の喪失によってではなく、「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性に依拠してどう解釈し、どう受け止めるからであろう。常に自己の判断を介在させて、その判断に従って自分の行為として自律的に行動し、自己責任を伴わせることを最重要の行動性としなければならない。
それが街宣車を出動させて最大限の音量を上げ、威嚇・恫喝する声を発する行為として表現されようとも、やっていることは言論の抑圧・表現の抑圧に当たるが、連中にとっては自分たちの言論・表現を守る闘いに位置づけている以上、周辺住民に騒音被害をもたらしているとして条例で規制するしかない。
あるのは正当性を獲ち得る闘いがあるのみである。言論の自由・表現の自由が抑圧されていた戦前の日本に戻したくないなら、「自分で判断して判断した自分の考えに従って行動する」自己判断性・自己思考性の育み・教育に留意する以外にない。
戦前と同様に言論の抑圧・表現の抑圧を正当とする自己判断性が一致した考えとして集団化され、多数派を形成することとなったなら、何をか況やである。
安倍晋三は自らが法案を上程・成立させた「改正教育基本法」(平成18年12月22日公布・施行)で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と、「愛国心教育」を規定した。
先月28日(3月)に文科相が告示し、平成24年4月1日から施行する小中学校改訂学習指導要領でも「改正教育基本法」の「愛国心教育」の企みを道徳教育の名を借りて反映すべく、「第1章 総則」で同じ要求を行っている。
<道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。
道徳教育を進めるに当たっては,教師と生徒及び生徒相互の人間関係を深めるとともに,生徒が道徳的価値に基づいた人間としての生き方についての自覚を深め,家庭や地域社会との連携を図りながら,職場体験活動やボランティア活動,自然体験活動などの豊かな体験を通して生徒の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。その際,特に生徒が自他の生命を尊重し,規律ある生活ができ,自分の将来を考え,法やきまりの意義の理解を深め,主体的に社会の形成に参画し,国際社会に生きる日本人としての自覚を身に付けるようにすることなどに配慮しなければならない。>・・・・・
「道徳的価値に基づいた人間としての生き方についての自覚」の要求は学校の生徒以上に日本のすべての政治家・官僚・公務員に求めなければならない規範のはずだが、学校の生徒のみに求めることによって大人たちは自分たちを「道徳的価値」を備えた人間と装うことができ、頭から信じてそれらしい人間として振舞っている。
大人本人は気づいていなくても、無意識が内心に抱えたその矛盾に気づかされているから、勢い要求が余程の人間でもなければなかなかに実現できない過大な内容となる。伝統と文化の尊重、愛国心の育成と郷土愛、個性豊かな文化の創造、公共の精神の育成、民主的な社会及び国家の発展への寄与、他国の尊重,国際社会の平和と発展及び環境保全に向けた貢献、そのためには道徳心を養ってそれを未来を拓く主体性の原動力としろ。
そして一方でテストの成績を上げろと尻を叩く。結局実利(=テストの成績)が優って、道徳的価値の育みは掛け声倒れとなる。
勿論このことばかりが道徳だ、愛国心だと言わなければならない理由ではない。大体が「国際社会に生きる日本人としての自覚」を持った大人がどれ程いると言うのだろうか。私利私益・私腹肥やしの日本の大人たちばかりではないか。つまるところ、何から何までの過大な要求は大人たちが欠如させている精神性を身代わりに埋め合わせるための代償的欲求となっている。
子供たちの各種精神性の欠如は大人の欠如を正直に受け継いだ存在性でありながら、自らの欠如を放置したまま、子供たちにのみ道徳的価値に基づいた生き方を求める。結果として子供たちが道徳的価値を学ぶ教師とはなり得ない大人たちから学ぶという滑稽で倒錯した教育が行われることとなって、無意味を成果とすることになる。
無意味な成果であることは大人たちの劣等な道徳性が証明している。その永遠の循環となっているからこそ、いつまでもバカの一つ覚えのように道徳だ、愛国心だと囀ることになる。
大人たちが持っていない精神性を子供たちに求める白々しい矛盾・食い違いは「愛国心」教育そのものについても言える。道徳性を欠いた人間が標榜する愛国心が果たして真正な愛国心足り得るのかを問題とせずに子供たちに愛国心を求めているからである。
道徳性を欠いた大人たちが子供に道徳性を求めることによって自分たち大人が道徳性を備えた人間だと自他に思わせることができる無意識の心理的詐術を愛国心を求める行為でも行っている疑いが生じる。
道徳性を欠いた愛国心の標榜だからこそ、「国家愛」のモデルを必要とし、そのモデルへの押し付けとなるのではないか。安倍晋三や中川昭一、あるいは稲田朋美といった一部突出した政治家たちの「国家愛」のモデルは断るまでもなく戦前の日本である。民主主義と自由・平等を基盤とした理想の国家像を創造し得る程の優れた道徳性を備えていないから、過去に国家のモデルを求める。
戦前日本を「国家愛」のモデルとしているからこそ、戦前日本のどのような否定も許すことができない。戦前の従軍慰安婦制度を旧日本軍の強制的関与による犯罪だと断罪する<「女性国際戦犯法廷」のNHKテレビ放送に安倍晋三や中川昭一が反対する立場から介入し、中国人監督の映画「靖国 YASUKUNI」が「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージ」を発しているからと映画の思想そのものを否定する立場から稲田朋美が文化庁の助成金を受けて制作されたのはふさわしくないという口実は設けて言論の自由の制限に当たる介入を行う。
すべてが戦前日本の否定に対する否定の構図を取っている。
彼らが思い描く理想の日本とは天皇を戴いて明治維新を実現した日本であり、日清・日露戦争に勝利した日本であり、「八紘一宇」を「肇国の大精神」(=建国の理念)としていた時代の日本であり、日本のアジア支配を目的とした「大東亜共栄」の大構想を掲げていた大日本であり、天皇が統帥権を持ち、「国のために命をなげうってでも守ろうとした特攻隊員」(安倍晋三)が存在した日本であり、「国体の本義」に美しく描かれている完璧な日本である。
だから、軍強制による従軍慰安婦も認めることができなかったし、中国人強制労働も南京虐殺も軍強制の沖縄集団自決も認めることができなかった。日本が起こした戦争を侵略戦争であったことも認めることができなかった。勿論、東京裁判も勝者による裁判で認めてはいない。そして現在、認めざるを得ない場合は部分的に認めているが、決して心の底からの許容とはなっていない。
戦前の大日本帝国に偉大さを見ているのである。偉大さの人間的象徴が軍服を着て白馬に跨った昭和天皇である。
言って見れば、安倍や中川、稲田が言う「愛国心」とは持つべき国家観を限りなく戦前の日本の国家観に近づけ、その精神性を担わせることを意味している。過去の日本への限りない親和性は国際性を犠牲として獲得可能とする。にも関わらず学習指導要領で小中学生に「国際社会に生きる日本人としての自覚」を求める矛盾を犯して平然としていられる。
安倍「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」(『この国を守る決意』)
それにしても「命をなげうってでも」どころか、正反対に自分の健康を優先させる命欲しさから、あまりにもあっさりと総理大臣職を投げ捨てたものである。
安倍や中川、稲田の単細胞なところは自分たちが理想の対象としている「国家」の姿を問う合理性を欠いていることである。欠いているからこそ、単純に戦前日本を肯定でき、否定する動きに単純に反発する。
金正日を狂信的に妄信している北朝鮮人が将軍様のため、首領様のためにといくら「命を投げうって」も構わないが、民主主義を信奉する国の人間は金正日の独裁体制、その国の姿を考えた場合、その「命の投げうち」を肯定できるだろうか。
問題は「国の姿」である。靖国神社にしても「国のために命を捧げた戦死者の御霊を追悼する場所」と国家的な価値づけを行っているが、命を捧げる対象とした「国の姿」を問わない追悼であり、そのことに何ら疑問を感じなかったなら、再び「国の姿」を問わない愚かしい「命の投げうち」を再現することになるだろう。
自民党と公明党が支配する現在の「国の姿」を考えた場合、今の日本という国には心の底から命を投げうつ気にはならないことだけは確かである。安倍や中川らを喜ばせるだけだからだ。
「国の姿」を問わすに戦前日本を理想の国家像とする過去へ傾倒する精神性は言ってみれば大日本帝国陸軍が主力銃としていた三八式歩兵銃の前近代性に相応する精神性と言わざるを得ない。
朝目が覚めて着替えながらテレビのスイッチを入れ、TBSにまわすと「みのもんたのサタデーずばっと」のちょうど締めくくりの場面に出くわした。「進む高齢社会 今どうすべき」のタイトルを画面に映し出していた。いわば4月1日からスタートした後期高齢者医療制度問題を扱っていた。
桝添厚労相が、私が母親を介護していたとき、介護保険ができたお陰でかかる費用が安くなった(金額を言っていたが、頭が悪いから覚えていない)。名前が長寿医療制度であろうと後期高齢者医療制度であろうと、きっと高齢者の役に立つといったことをコメントしていた。
桝添の横に座っていた東国原宮崎県知事が、暫定税率期限切れを狙って1ヶ月以上国会を空転させた民主党の戦術を取り上げ、「国会は空転しても1日3億円かかる。もう少し有意義な議論をしてもらいたい。暫定税率の廃止でも迷惑を蒙るのは地方であり、ツケは結局国民に回される。」と出席していた民主党や社民党の議員に向けて批判の一矢を放った。
対して、野党は何も反論しない。と言うよりも、反論する言葉を生み出せなかったのだろう。だから最後に負け惜しみのように民主党議員が「後期高齢者医療制度は役に立たないで終わる」といったことを言い、社民党の福島党首がその尻馬に乗るように「名前だけで終わる」と言っていた。
「1日3億円、1ヶ月の国会空転の損失は政権交代してムダ遣い自民党政治に終止符を打つことができれば、大きな利益となって地方にも還元され、当然国民にも還元されます。ムダ遣い自民党政治がこれ以上続くようだと、1日3億円の空費では済まないことになります」となぜ反論できなかったのだろう。
もう少し言葉の発想に磨きをかけないと、小泉純一郎がマスコミや巷に露出するたびに国民の注目を奪われてしまう現象から抜け出れないことになる。衆議院解散、総選挙となれば、政権を奪われないために小泉純一郎はフル回転の選挙応援活動を展開することになるだろう。野党はそのことに今から危機管理の準備をしているのだろうか。
批判の相場は大体決まっている。「政局にしている」とか、「国会を空転させて税金をムダ遣いしている」とか、「対案を出さない」とか、「予算の裏付けがない」とか。それぞれを前以て予想して理論武装しておくことで言葉の発想の不足を補うことができる。
道路整備特別会計から道路事業に関わるPR費が06年度だけで96億円が支出され、その3割に当たる29億円がムダな支出だと「毎日jp」が報じていた。過去に遡れば、まだ国の借金が少なかった時期は湯水のようにムダ遣いを平気で行っていただろうから、そういったムダ遣いをなくすだけで国会経費1日3億円は十分に取返し可能な、しかも政権交代を生み出しさえすれば有意義な方向に転換できる金額と言える。
今朝4月5日の「朝日」朝刊は、≪道路財源支出先の50法人 カネ余り計555億円≫の見出しで、<道路特定財源からまとまった収入を得ていた国土交通省所管の50公益法人が、余剰資金にあたる内部保留を06年度末時点で合計555億円ためていたことがわかった>と、そのムダな滞留、活用されていないムダな状況を伝えている。50法人のうち27法人が国の基準を超えた内部留保額で、その額は計124億円に達しているという。
余った予算が正直に内部保留に回されていたならいいが、PR費だけではないムダな支出、さらに健康器具を買ったりしていたから、どれ程ムダ遣いにまわされていたか分かったものではない。ただ改めればいいという問題ではないだろう。
このようなムダ遣い体質、予算活用の無能体質は今に始まった問題ではなく自民党政治の歴史と共に維持され、跳梁跋扈していた負の遺産であり、ムダ遣いの総額と同等額が税金の形で国民にツケとしてまわされていたのである。東国原が言うように国会の空転で1日3億円、その1ヶ月分や暫定税率の廃止で国民にツケがまわるどころの問題ではないだろう。
世界遺産に登録する価値もあるムダ遣い自民党政治である。
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≪道路特別会計:国交省、広報費を半減 特会「無駄」点検--今年度から≫(毎日jp/08年4月4日 東京夕刊)
「道路ミュージカル」の公演など道路整備特別会計(道路特会)から不適切なPR費が支出されていた問題に関連し、国土交通省は4日、道路事業の広報広聴経費として、06年度の1年間で道路特会から計約96億円が支出されていたことを明らかにした。このうち3割の約29億円は見直しを必要としたり、効果が十分に見込めない支出と判断した。冬柴鉄三国交相は同日の閣議後会見で、今年度から支出を半減する方針を示した。【窪田弘由記、高橋昌紀】
道路特会での相次ぐ不適切な支出を指摘された国交省が過去の広報広聴経費の見直しを行い、中間とりまとめとして発表した。今後の調査で総額は増える可能性がある。
内訳は、道路事業・行政に▽直接関係する支出約67億円▽関係を確認する必要がある支出約25億円▽効果が十分に見込めない支出約4億円。
「効果が見込めない」とした支出の一つは、道の資料館の運営費など1億7000万円。「東京みちの情報館」(新宿区)など全国の道路PR施設の利用者がほとんどないなどの理由で、3月までに相次ぎ閉鎖された。
道路ミュージカルなどへの支出9000万円も効果を否定。啓発活動「未知普請(みちぶしん)」の一環として、各国道事務所が劇団と随意契約を結んでいた。まつりやコンサートの開催経費4000万円も無駄とした。
また「関係を確認する」として、実質的な見直しを必要とする支出は▽シンポジウムや座談会(8億3000万円)▽道路ふれあい月間関連イベント(3億5000万円)▽地球温暖化防止運動「エコロード」の広報(2億2000万円)--など。「直接関係する」支出についても、上限を定めるなど削減に努める。
国交省は無駄遣いの改善策として、事務所長らの決裁権限について現在の青天井を改めて上限を定め、(1)すべての役務契約1700万円未満(2)車両管理契約1億円未満(3)物品購入契約1000万円未満--に限定。
広報広聴関係の契約のうち、予定価格500万円以上のものは地方整備局本局の承認を必要とするなどとし、ホームページで契約内容を公表する方針。5月1日から、施行する。
■道路関係広報広聴経費の点検結果■
※単位・億円
《道路に直接関係=約67億円》
・事務所ホームページ作成、維持、更新=9.4
・事務所事業概要の作成、配布=4.5
・道路事業、行政に関する広告啓発活動=21.5
・個別事業パンフレットの作製、配布=5.4
・事業プロセスにおける説明会の実施や周知=0.1
・開通式典等=7.9
・社会実験の広報=2.4
・防災、雪害等に関する広報=1.8
《道路との関係確認必要=約25億円》
・シンポジウム、座談会等=8.3
・フォトコンテスト、作文コンクール等=1.0
・エコロードの広報=2.2
・地域づくり、地域活性化等に関する広報=1.0
・道路ふれあい月間に関連するイベント=3.5
《効果が十分に見込めない=約4億円》
・未知普請に関連するミュージカル等=0.9
・まつり、コンサートの開催等=0.4
・道の資料館等=1.7
スーダン政府に支援されたアラブ系民兵がダルフール地方で非アラブ系住民に虐殺を行っている民族紛争。 そのスーダン政府への主要な経済・軍事援助国である中国の姿勢に抗議して米映画監督のスティーブン・スピルバーグが「私の良心がこの仕事を行うことを許さなかった。私の時間とエネルギーは五輪のためでなく、(スーダン)ダルフール地方で続く、筆舌に尽くしがたい人権侵害を終わらせるために、費やされるべきだ」(「読売」)と北京オリンピック開閉会式の文化芸術顧問を抗議の辞退を行った。
そして今回のチベット及びチベット人に対する精神抑圧(=人権抑圧)に端を発した暴動に武力弾圧で応じた中国に対する抗議として今年8月に開催される北京オリンピックとオリンピック開催に向けた聖火リレーの機会を把えて何らかのアクションを起こそうとする動きが生じた。北京オリンピック出場選手や聖火リレー参加者、そしてオリンピック開会式に出席予定の各国首脳たちである。
先ずポーランドのトゥスク首相が中国のチベットに対する姿勢に直接抗議する意志を見せて開会式に欠席する意向を示した。
ついでチェコのクラウス大統領が理由を明らかにしないものの、開会式に欠席する意向を表明。余程のことがない限り欠席はあり得ないのだから、チベット問題に対する抗議なのは明らかである。そしてエストニアのイルベス大統領も北京五輪の開会式に出席しないことを表明。
フランスのサルコジ大統領は開会式出席は「中国の対応次第」とする態度。中国がチベットに対する自らの武力弾圧正当化の姿勢を変える可能性がゼロに近いことを考えるなら、出席する可能性もゼロに近い確率となるに違いない。
英国ではチャールズ皇太子が「仮に開会式に招待されても出席することはない」(「読売」)と明言している。
アメリカでは議会がチベット問題で、民間平和団体がダルフール問題で大統領に開会式を欠席するよう要求しているという。
聖火リレーは「調和の旅」と命名されたそうだが、聖火ランナー関係ではタイ国内の聖火ランナーに選ばれていたタイ女性(王族の関係らしい)が中国のチベットに対する武力鎮圧に抗議してリレー参加を辞退。待ち構えているのは中国がチベットやダウフール、あるいは自国内にもたらしている人権抑圧の「非調和」と同じ調和とは無縁の聖火リレーの「旅」となるのは誰の目にも明らかであろう。
オリンピック選手ではドイツの女子棒高跳びアンナ・バトケ選手が<「チベットの出来事は悲劇としか言いようがない。五輪で不正を指摘するのはスポーツ選手の義務だ」と指摘。北京五輪の開会式で、選手仲間がチベット仏教の僧衣と中国政府官僚の服装をまとい、お互いに握手するパフォーマンスで入場行進することを考えているという。>(「毎日jp」)。
そしてシドニー・アテネ五輪(04年)の競泳男子百メートル自由形で2連覇したピーター・ファンデンホーヘンバント選手(オランダ)は五輪ボイコットには賛成しないものの<IOCに中国の人権抑圧の改善を要求するよう訴えた。>(「毎日jp」)という。
こうした状況に国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ副会長(ドイツ)は「チベットの流血事態を受け、かなりのトップ選手が北京五輪ボイコットを検討している」(「毎日jp」)と懸念を表明。
さらに国際オリンピック委員会(IOC)調整委員会のフェルブルッゲン委員長(オランダ)が記者会見で<聖火リレーに参加する現役選手らが、人権擁護などの意思表示をすることに、IOCとして規制するつもりはないとの考えを示した>(≪北京五輪:会場外なら選手らの意思表示を規制せず IOC≫毎日jp/08.4.3)という。
但しフェルブルッゲン委員長<「五輪参加の可否を決めるのは選手と国内オリンピック委員会(NOC)だ」(上記「毎日jp」)と政治の介入を牽制している。
我が日本の高村外相はと言うと、「(ボイコットは)ないでしょう。日本政府として北京五輪は成功裏にやってもらいたい」、「人権問題は国際社会が関心を持つのも当然。中国のためにも、なるべくオープンに透明にした方がいい」(「asahi.com」)と一般論に終始する距離を置いた当たり障りのない事勿れな姿勢に徹している。
ダルフールの民族紛争を引き起こしているスーダン政府の政治体制を無視して関係強化を図っている中国の姿勢、チベットに対する武力支配の姿勢、ミャンマー軍事政権の人権抑圧政治に関係なく最大援助国となっている中国の友好姿勢、国内人権活動家を拘束する言論の抑圧政策等々に対して北京オリンピックを機会とした人権と自由の観点からの抗議の輪に日本のオリンピック選手の姿が一人として見当たらない。政治家などの著名な日本人の姿が見えない。
昨4月3日のブログ記事≪映画「靖国」上映中止/稲田朋美が明らかにした功績≫に「日本人の民主主義意識、基本的人権意識が未だ発展途上にある」と書いたが、人権問題に関わって日本人の姿の見えなさから判断すると、言っていたことが必ずしも間違いないように思えてくる。
こう言い訳するのではないだろうか。日本人は平和な国民で争いごとが嫌いだからと。そう、自分に対してだけ平和を願う国民なのだろう。一国平和主義と言われる所以である。
* * * * * * * *
参考までに引用。
≪北京五輪:会場外なら選手らの意思表示を規制せず IOC≫(毎日jp/08.4.3)
【北京・石井朗生】北京五輪の準備状況を確認する国際オリンピック委員会(IOC)調整委員会のフェルブルッゲン委員長(オランダ)は3日、当地で会見。聖火リレーに参加する現役選手らが、人権擁護などの意思表示をすることに、IOCとして規制するつもりはないとの考えを示した。同委員長は「競技会場内では政治的な行動を取ることは許されないが、会場外ならば選手も自由に意思表示をすることができるはずだ」と答えた。
世界21都市を巡回する聖火リレーでは、シドニー五輪男子柔道金メダリストのドイエ(フランス)が、7日のパリでのリレーで人権擁護を訴えるバッジをつける計画を表明するなど、チベット問題での中国当局の姿勢に対する抗議行動が予想されている。
一方で、フェルブルッゲン委員長は世界各国の政治家らから、北京五輪の開会式や大会自体のボイコットを求める声が起きていることについて「五輪参加の可否を決めるのは選手と国内オリンピック委員会(NOC)だ」と強調。個別の国の政治問題で、五輪への参加が制限されることを懸念した。
民主主義発展途上の日本人
4月12日から東京と大阪でロードショーされる李纓(リ・イン)中国人監督のドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」が映画館側の自主規制で上映中止に追い込まれている。
事の発端は08年3月19日当ブログ記事≪ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」とNHK番組「ETV2001 問われる戦時性暴力」に見る政治家の干渉とその類似性≫に既に書いたことと重なるが、「反日的」内容と聞いたからと一部自民党議員が配給会社に文化庁を通じて試写を求めたのに対して監督と配給側が「検閲のような試写には応じられない」からと全議員を対象とした試写会を開くことに決定、3月12日に行われた試写会には自民党、民主党、社民党の40人の議員と代理出席の40人、計80人が出席したことがマスコミを通じて世間に大きく報じられたことから始まっている。
騒動の代表格は自民党稲田朋美・右翼政治家だが、当初「客観性が問題となっている。議員として見るのは、一つの国政調査権」と言っていた。「表現の自由や上映を制限する意図はまったくない。でも、助成金の支払われ方がおかしいと取り上げられている問題を議員として検証することはできる」
いわば「助成金」を口実に映画の「客観性」に口を挟もうとした。それを「国政調査権」だと言う。試写終了後のコメントがそのことを証明している。
稲田議員「助成金にふさわしい政治的に中立な作品かどうかという一点で見た」
「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感
じた」
「助成金」を受ける資格のある作品は「政治的に中立な作品」に限るという思想・言論の網をかける制限を行ったのである。そして映画「靖国 YASUKUNI」は「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージ」が込められているゆえに「助成金」を受ける資格はない、網に引っかかると認定した。
「助成金を受けるにふさわしいのか」とか「客観性」とか「国政調査権」だとか色々と言っているが、主張していることに一貫して通底しているのは「反日」のレッテル貼でしかない。
上記ブログ記事の締めくくりに安倍や中川昭一等の国家主義政治家の政治的介入の「意図」を忖度してNHKが「女性国際戦犯法廷」の番組内容を改変したのと同列に<政治家の他者の思想・信条への有形・無形の干渉も問題だが、干渉を受けてその意図を忖度して過剰反応や自己規制する側の態度も問題としなければならない。稲田朋美等の薄汚い干渉を受けて、文化庁がどういう態度を取るかである。多分、稲田朋美の「意図を忖度」して、影でこっそりと「反日」か「反日」でないかを補助金交付の条件に付け加える「自己規制」を行うことになるのではないだろうか。>と書いたが、文化庁を超えて「靖国 YASUKUNI」の上映を予定していた映画館に「自己規制」は飛び火していった。
東京、大阪のすべての上映が中止され、そういった中止状況にも関わらず上映を予定していた名古屋の映画館まで中止を決定したと言う。そのことを2008年04月02日の西日本新聞インターネット記事(≪「靖国」の上映を延期 名古屋でも≫)が次のように伝えている。
<靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」について、名古屋市の映画館が上映延期を決めたことが2日、分かった。
延期を決めたのは「名古屋シネマテーク」(同市千種区)で、5月3日から上映予定だった。
名古屋シネマテークでは「東京などで上映が取りやめになっているが、いずれは上映したい」と説明。しかし、上映延期をめぐり、政治団体などから働き掛けがあったかどうかについては「お話しすることはない」として明らかにしなかった。
映画をめぐっては、自民党の稲田朋美衆院議員らが、文化庁の所管法人から助成金が出ていることを理由に試写会を求め、公開前の試写会が実現。その後、東京や大阪の映画館が相次いで中止を決めた。>・・・
「働きかけ」がなかったなら、正直にありませんでしたと言うだろう。あったから、「お話しすることはない」と隠す必要に迫られた。
「政治団体などからの働き掛け」についての事情は≪クローズアップ2008:映画「靖国」上映中止 揺れる表現の自由≫(毎日jp/2008年4月2日 東京朝刊)が次のように解説している。
試写会が行われていた<時点で映画は都内4館、大阪市内1館で、今月12日から公開されることが決まっていた。しかし「バルト9」(東京・新宿)が3月18日「営業上の総合的判断」を理由に公開中止を発表。他の上映予定館周辺では街宣活動が行われたり抗議電話がかかってきた。右翼団体が稲田氏らの動きに刺激された可能性がある。バルト9の中止決定から約1週間後、他館も「観客や近隣に迷惑がかかる」などの理由で、相次いで公開を取りやめた。>
稲田朋美なる国家主義国会議員が発した「政治家の意図」を文化庁よりも敏感・俊敏に思想・言論弾圧勢力である右翼が「忖度」し、過剰に反応、上映館に圧力をかけ、上映中止の自己規制に至らしめた。稲田と右翼は阿吽のいやらしい不倫関係を素早く築いたと言ったところだろう。
だからこそ、稲田はそう取られない姿勢を示さなければならなかった。
<「中止は残念」稲田議員
稲田朋美衆議院議員は31日夜、「日本は表現の自由も政治活動の自由も守られている。一部政治家が映画の内容を批判して上映をやめさせるようなことは許されてならない。今回、私たちの勉強会は、公的な助成金が妥当かどうかの1点に絞って問題にしてきたので、上映中止という結果になるのは残念。私の考え方とはぜんぜん違う作品だが、力作で、私自身も引き込まれ最後まで見た」と話した。(≪「靖国」上映中止 「一番懸念した状況」 上映側萎縮に危機感≫(08.4.1/『朝日』朝刊))
右翼が暗躍し、上映中止の自己規制に追い込んだ意外な展開の責任が自分に及ばないように自分が「政治家の意図忖度」の発信元ではないことを知らしめるための火消し、いわばマッチポンプに走ったに過ぎないだろう。直接的に指図しなくても、映画の内容を「反日」だと批判することで「公開」がふさわしくないというメッセージを発したのであり、その結果として上映禁止に追い込む間接的な圧力を生じせしめたのである。
大体が「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」と拒絶反応を見せた「私の考え方とはぜんぜん違う作品」を「力作」だと思うはずはないし、当然「引き込まれ最後まで見」ることはないだろう。人間の自然な人情に反するからだ。
この辺の事情を『朝日』社説(≪映画「靖国」―上映中止は防がねば」08.3.30/日曜日)は違う見方をしている。
<稲田氏らが問題にしているのは、助成金を出すのにふさわしい作品かどうかだという。そんな議論はあっていいが、もしこうした動きが上映の障害に結びついたとしたら見過ごすことはできない。
幸い、稲田氏は「表現の自由や上映を制限する意図はまったくない」と述べている。そうだとしたら、一部の人たちの嫌がらせによって上映中止になるのは決して本意ではないだろう。
そこで提案がある。映画館に圧力をかけることのないよう呼びかける一方、上映をやめないように映画館を支えるのだ。それは、主義主張を超えた「選良」にふさわしい行為に違いない。>――
上映中止が「本意でないだろう」と推測する感覚は素晴らしい。だから稲田国家主義者に「呼びかけ」が期待できた。「映画館を支える」気持があったなら、どのような口実であろうと介入しなかっただろうことを考えずに。「選良」の名に反して「主義主張を超え」ることができなかったからこそ、そもそもの発端の演出者足り得たのである。ジャーナリズムの一翼を担いながら、事実に向ける目を持たず、安易に希望を語る。
「政治家の意図忖度」の装置がうまく作動し、上映中止という成功をもたらした。その装置にスイッチを入れた政治家が稲田朋美というに過ぎない。
先月最後の日曜日3月20日の朝日テレビ「サンデーモーニング」でチベット問題について田原総一郎と森本拓殖大学院教授が討論していた。
田原「ギリシアのオリンピアで聖火が灯された。そのときに式典に何人かが乱入した、と。で、トラブルが起きた。その乱入シーン。西側の国は全部放送したんだけど、中国は放送していない。違うシーンを撮っているんですね。さらに実は、もう一つ中国ではNHKもCNNも見られるんですが、CNNがそのシーンを出そうとした直前に画面が暗転、身振り手ぶりよろしく)ポーンと黒くなった。見えない、ということが起きています。これはおかしいじゃないかと、私が討論会でやったんです。日本人が。『こんなことじゃ言論の自由も何もないじゃないかっ』と。そしたらね、ここが相当変った。中国のある高名なジャーナリストが言った。一番有名といっても言い。これがね、そんなことをもしやったとすれば、飛んでもないと。そんな映像を流すよりも止める方が遥かに中国にとってはデメリットが大きい、ナンセンスだと、バカげている。堂々と言ったんですよ」
森本に「そこは大分中国も変化していると言うことですか?」
田原「うん」
森本「我々が考えている情報の公開性・透明性からかなり程遠いですね」
田原の言う「変化」を否定されながら、面の皮厚く「そこはねジャーナリストたちは言える。で、言ったら、それはもう政府に聞こえるに決まってるんだけど」と政府の体制に反する言論の存在を言い張っていたが、中国当局が「そんなことをもしやったとすれば」の仮定ではなく、「そんなことを」既に「やっ」ていた既遂行為なのだから、何ら役に立たないことを言っていたことさえ見抜けない見事なジャーナリストの目を持った田原総一郎に出来上がっていた。
森本の言う「情報の公開性・透明性」が中国の総体的な現実であったなら、事実そうなっているからこそ「CNNがそのシーンを出そうとした直前に画面が暗転」するといった事態が起こるのだが、例え「政府に聞こえるに決まって」いようがいまいが、結果として政府の言論制限の火付けに対して単に消火の量にも達しなバケツの水をかけるに過ぎない火消しを行う、一種の政府と一体となったジャーナリストのマッチポンプの意味しかないことに気づくべきだが、気づきもしなかった。
要するに田原は自分が中国人の高名なジャーナリストに「こんなことじゃ言論の自由も何もないじゃないかっ」と中国の言論状況を批判したことの役割を過大評価することにウエイトを置きたいがために、つまり自分の偉さを宣伝したいがために中国全体を総体的に俯瞰する客観的な目を曇らせてしまったのだろう。
国家主義者稲田朋美は「政治家の意図忖度」装置をうまく作動し得て上映中止にまで持っていくことができた。その結果明らかにされたことがある。右翼といった思想・言論弾圧勢力の直接・間接の威嚇を恐れて、あるいは直接・間接の威嚇が実体として存在しないにも関わらず、自分の方からつくり出して、その影に怯え、言うべき言葉をつぐむ。言論を自己規制する。日本人がそういった精神状況にあるということである。プリンスホテルもそうだったし、NHKもそうだった。かつての昭和天皇の死去の際のテレビコマーシャルの自粛や派手な音楽の自粛もそうだったし、一般人の結婚や祭りの延期に見せた一億総自粛と言ってもいい一大社会現象化した自己規制もそうだった。
いわば稲田朋美は日本人の民主主義意識、基本的人権意識が未だ発展途上にあることを白日の下に露呈させた。その功績は大きいのではないか。
映画「靖国」上映中止/稲田朋美が明らかにした功績(2)に続く
各新聞記事から。
≪「靖国」上映中止 「一番懸念した状況」 上映側萎縮に危機感≫(08.4.1/『朝日』朝刊)
映画「靖国 YASUKUNI」ガ予定された12日には公開されなくなった。上映を決めていた5館がすべて中止を決断した。多く名トラブルを警戒しての先回りの自粛だが、実際に厭がらせを受けた劇場もあった。関係者には、表現の場を奪われていくことへの懸念が広がる。
31日夕、東京都内で開かれたメディア向けの試写会の冒頭、配給・宣伝会社アルゴ・ピクチャーズの宣伝担当者は、12日からの上映注視を口頭で発表した。そのうえで、「こういう結果になり、非常に残念。今後、ぜひみなさんに上映を応援していただければと思っている」と、集まった約50人に呼びかけた。都内の上映館はすべてなくなったため、上映してくれる映画館を今後探す、としている。
実際、既に前売りしている名古屋シネマテークは、5月中旬の上映に向けて日程調整中という。
一方、上映中止を決めた大坂・シネマート心斎橋の野村寛支配人は「悔しい。素晴らしいドキュメンタリーなのでぜひ上映したかったが、シネマートグループ全体の判断として中止を決めた」と話した。
同日、日本映画監督協会(崔洋一理事長)は、「表現の自由を侵害する恐れのあるあらゆる行為に対し、断固として反対する」との声明を発表した。声明は、「一部の国会議員が文化庁を通して特別に試写会を要求した行為及びその後の言動に等に対し、強く抗議の意を表明する」と指摘している。
映画監督の立場として崔洋一さんは31日夜、取材に「一番懸念した状況になった。批判でも肯定でも、上映が保障される社会の規範が民主主義だ。映画館側が圧力や抗議をイメージして、上映を取りやめるのは、民主主義の根幹が崩れつつあるのではないかという危機感を抱く。作り手や上映側の萎縮を恐れる」と語った。
(今に始まったことではない。昭和天皇の死去時の過剰な自粛状況も右翼の「圧力や抗議をイメージし」た退行現象ではなかったか。稲田の功績は、日本人の民主主義がいまだ未発達なことを明らかにしたこと。)
ジャーナリストの大谷昭宏さんは「厭がらせで言論活動が次々と中止に追い込まれることは危険な兆候だ。映画館は理不尽なことに断固と戦って欲しい」と話した。
この作品を見たいと言う稲田議員側の要請を受けたアルゴ側にフィルムの貸出しを求めるなど、試写の実現へ向け当初仲介役を果たしたのは文化庁だった。同庁の清水明・芸術文化課長は「一般論で言えば、映画など芸術文化の発表の機会が、外部からの厭がらせなどによって妨げられることはあってはならないと考えます」と話した。
「中止は残念」稲田議員
稲田朋美衆議院議員は31日夜、「日本は表現の自由も政治活動の自由も守られている。一部政治家が映画の内容を批判して上映をやめさせるようなことは許されてならない。今回、私たちの勉強会は、公的な助成金が妥当かどうかの1点に絞って問題にしてきたので、上映中止という結果になるのは残念。私の考え方とはぜんぜん違う作品だが、力作で、私自身も引き込まれ最後まで見た」と話した。
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≪クローズアップ2008:映画「靖国」上映中止 揺れる表現の自由≫(毎日jp/2008年4月2日 東京朝刊)
靖国神社を舞台にしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止が、波紋を広げている。グランドプリンスホテル新高輪(東京都港区)が今年2月、日本教職員組合の教育研究集会の会場使用を拒んだのと同じ構図が、映画界にも波及したとみられるためだ。中止を決めた映画館周辺では、右翼団体による抗議活動が確認されている。【勝田友巳、棚部秀行、野口武則】
◇「自己規制、生まないか」
「やむにやまれぬ判断。劇場内には三つのスクリーンがあり、安全な上映環境を確保できるか、不安がぬぐえない。表現の自由を守れと言われても、限界がある」。上映中止を決めた映画館「銀座シネパトス」(東京・銀座)を運営するヒューマックスシネマの中村秋雄・興行部長は戸惑いを隠さない。昨年10月に上映を決めた際にはこんな事態は予想もしなかったという。中止決定から一夜明けた1日は代わりの作品の選定などに追われた。
一方、3月31日に国会議員の試写などへの抗議声明を出した直後、上映予定全館での中止を知った日本映画監督協会も事態に驚く。崔洋一理事長は「映画の表現の自由は映画館での上映があって守られる。作り手が自己規制する空気が生まれないか心配だ」と話す。
問題の発端とみられるのは、自民党の稲田朋美衆院議員が2月12日、文化庁に「映画の内容を確認したい」と問い合わせたこと。稲田氏は、文化庁管轄の独立行政法人「日本芸術文化振興会」が製作に750万円を助成したのを問題視していた。文化庁は配給協力・宣伝会社のアルゴ・ピクチャーズと協議し、3月12日夜に国会議員向けの試写を行い、自民、民主、公明、社民4党の40人が参加した。
この時点で映画は都内4館、大阪市内1館で、今月12日から公開されることが決まっていた。しかし「バルト9」(東京・新宿)が3月18日「営業上の総合的判断」を理由に公開中止を発表。他の上映予定館周辺では街宣活動が行われたり抗議電話がかかってきた。右翼団体が稲田氏らの動きに刺激された可能性がある。バルト9の中止決定から約1週間後、他館も「観客や近隣に迷惑がかかる」などの理由で、相次いで公開を取りやめた。
過去には92年に「ミンボーの女」の伊丹十三監督が暴力団員に襲われ、翌年、伊丹監督の「大病人」が上映中、右翼団体員にスクリーンを切り裂かれた。98年には「南京1937」のホールなどでの上映会が右翼の街宣活動で相次いで取りやめになった。00年には「バトル・ロワイアル」の暴力描写を、石井紘基衆院議員が問題視して国会で取り上げた。しかし映画館での公開が中止に追い込まれたのは極めて異例だ。
◇自民議員「反靖国だ」--勉強会、怒声も
「稲田氏の行動が自粛につながったとは考えないが、嫌がらせとか圧力で表現の自由が左右されるのは不適切だ」。町村信孝官房長官は1日の記者会見で、上映中止問題について一般論で応じた。
国会議員向け試写会の翌日の3月13日、自民党の保守派でつくる「伝統と創造の会」(会長・稲田氏)と「平和靖国議連」(会長・今津寛衆院議員)が、文化庁などを呼んで合同勉強会を開いた。
両団体とも首相の靖国参拝を支持する議員の集まり。試写後、映画を「靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」と論評した稲田氏は勉強会で日本芸術文化振興会の助成金問題を集中的に取り上げた。
約10人の出席者からは「反靖国の内容だ。大きな問題になるから覚悟した方がいいよ」との怒声も飛んだ。稲田氏は3月31日「問題にしたのは助成金の妥当性。私たちの行動が表現の自由に対する制限でないことを明らかにするためにも中止していただきたくない」とのコメントを出した。
一方、警視庁によると、上映予定の映画館に対する右翼団体の街宣活動は複数回確認されていた。しかし「際立った抗議活動は把握していない」(警視庁幹部)という。警察白書によると、07年の右翼の検挙数は1752件2018人。5年前は1691件2217人で件数は増加したものの人数は減少し全体ではほぼ横ばいの状態だ。
右翼の事情に詳しい関係者は「大部分の右翼にとって靖国神社は特別な存在。過敏に反応してしまう傾向はある」と指摘した。
李纓監督
◇李監督「作品を見て健康的な議論を」
李纓(リイン)監督(44)は1日、毎日新聞の取材に今回の動きについて、「市民から『考える自由』を奪う危険な事態。まずは作品を見て健康的な議論に生かしてほしい」と話した。
中国広東省出身の李監督は、大学で文学を学んだ後、国営中国中央テレビに入局。チベットの伝統芸能祭の復活を追ったドキュメンタリーなどを製作したが、中国での報道に限界を感じて退局し、89年に来日した。
97年には、南京大虐殺を否定する趣旨の集会に参加した。「日本兵の名誉回復を熱心に訴える人々の姿に衝撃を受け、理由が知りたくて靖国神社でカメラを回し始めた」。10年間撮りためた映像を123分にまとめて、「靖国」を作った。「靖国神社の空気をできるだけ静かに、先入観なく感じ取ってもらえるように、あえてナレーションは付けなかった」と説明する。【福田隆】
◇映画館に責任ない--映画監督の羽仁進さんの話
「靖国」は非常に慎重に作られており、靖国神社に対する批判を強硬に打ち出している映画ではない。文化庁が助成金を出したのは、映画の出来を評価して、一般の人に見てもらうため。もちろん政治家にも見てもらいたいが、彼らが文化庁に文句を言うのは筋が違う。また、映画に反対する人たちが映画館や近隣の人に迷惑になるような形で意見表明することは、社会のルールを壊している。上映中止の責任を映画館側に押しつけてはいけない。
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■ことば
◇映画「靖国」
第二次世界大戦中の靖国神社境内で、軍人に贈る「靖国刀」を作った刀鍛冶(かじ)へのインタビューと境内でのさまざまな出来事で構成。軍服姿で参拝する団体や、「靖国支持」という看板を掲げる米国人、A級戦犯合祀(ごうし)に抗議する台湾人遺族らの姿がナレーションなしで映し出される。
監督は日本在住約20年の中国人、李纓さん。自分が日本で設立した製作会社「龍影」と中国電影学院などが共同製作した。日本芸術文化振興会のほか韓国の釜山国際映画祭から助成を受けている。