北京五輪が8月8日(08年)開会式を迎え、各競技が繰り広げられることとなった。尤も開会式に先立った6日にサッカー競技の女子1次リーグが現地時間の午後5時から行われ、2大会連続3度目の出場となった日本代表のなでしこジャパンがニュージーランドと対戦し、2-2で引き分けている。
多くの人間がスポーツの素晴らしさを言う。自らの肉体の限界に挑み、真摯に闘いに臨む姿が純粋で美しく感動を与えると。「スポーツは人間賛歌だ」と持ち上げる者さえいる。
だが、選手は勝ち負けに一喜一憂し、テレビ観戦を含めた観客は自国籍選手の勝ち負けに一喜一憂する。競技する者も観る者も勝つことを目的としているからに他ならない。勝つことを目的としていながら、既に露見していることだが、「オリンピックは参加することに意義がある」と勝ち負けに関係なく、さも参加することが目的だとする標榜は偽善そのもので、そのような偽善が通用したのは勝つことを目的としたオリンピック競技及び競技する者の勝ちへの執着を隠し、競技への動機を美しく装わせる奇麗事として必要だったからだろう。
確かに優れたプレーは人に感動を与える。だが、勝ちへの激しい執着がなさしめるエネルギーの発露であって、「参加することに意義がある」とする動機づけからは生まれないプレーであり、感動であろう。
選手の勝ちへの執着を高める道具立てに世間に広く知られるようになった「ニンジン作戦」がある。8月9日(08年)の『朝日』朝刊記事≪報奨金 無冠の国、巨額準備≫がそのことを伝えている。
金メダルを未だ一つも取ったことのないアジアの国々がそれぞれにニンジンならぬ高額の報奨金を用意して、選手の勝ちへの執着を高めようとしていることと日本と中国の事情を紹介しているが、箇条書きにしてみる。
1.シンガポール、金メダリストに50万ユーロ(約8500万円)
2.マレーシア、アテネまでの金メダル16万リンギ(約480万円)を今回は100万リンギ(約3千万円)
3.フィリッピン、金メダルに950万ペソ(約400万円)
4.タイ、1千万バーツ(約3200万円)、浪費防止策として半額は20年間の分割払い
タイのそうさせた前例を記事は紹介している。アテネオリンピックのボクシング金メダリスト、マヌト・ブンチュムノンが約6600万円の報奨金をギャンブル等で散財、一文無しとなるが、現在は「別の人格に生まれ変った」と北京で連覇を目指しているという。
5.中国、前回32個の金メダルを獲得、「各国の政策にならい、報奨金を用意しているが、額は未定」
ご当地開催国であり、共産党一党独裁体制の矛盾を隠して大国の仲間入りを世界に示すために何よりもオリンピックの成功と国威発揚を必要としている中国である、特大のニンジンをぶら下げないはずはないだろう。
記事では最初に紹介している日本の事情だが、日本オリンピック協会(JOC)は前回同様、金メダル300万円、銀200万円、銅100万円のそれ相応に眩しい「ニンジン」のぶら下げ。
04年アテネ大会は金16、総メダル数37個で総支給額は1億5600万円。今回も3月に承認した予算で約1億6千万円を計上して、アテネ同様のメダルラッシュの再現を期待しているという。
当然金、もしくは銀・銅のメダルに近い実力者たちは胸算用を弾いていることだろう。それが捕らぬ狸となるかどうかは別問題として。谷亮子は300万円が3分の1の100万円となったことだけは確かである。
「ニンジン」の備えはJOCばかりではなく、各競技団体も紐をつけて待っているという。
1.バトミントン、金1千万円。銀500万円。銅300万円。美人ダブルスが人気だからとのこと。
2.陸上、アテネから倍増で金1千万円、銀600万円、銅400万円。
陸上で金が取れそうなのは女子マラソンの故障していない野口か室伏のハンマー投げといったところと考えると、バトミントンと同じ1千万円では少々かったるい気がしないでもないが、競技種目の大衆性と華やかさの違いか。野口が出場見合せとなったら、金に1千万円の値をつけた目的の一つが潰え去ることになる。
3.卓球、シングルス金2千万円、最も獲得に現実味が持てる団体の銅メダルの場合は監督、選手に40万
円ずつ。
かつては卓球王国日本と言われたが、そのことへの微かな郷愁をない混ぜた、バトミントンや女子マラソンと同様の女子狙いの高額金のように思える。女子選手、それも美人、スタイル抜群、セクシーと言うことなら高値がつく。
このことは男子軽量級ダブルスカルで2大会連続入賞し、初メダルを狙うボートが今回初めて報奨金を設定したこととその金額――金300万円、銀100万円、銅50万円にも現れている男尊女卑ならぬ、その逆と言える女高男低の値付け傾向であり、このことはスポーツが利害や打算から離れて存在する美しいばかりの活動ではないことを物語っている。
その他所属企業からも報奨金を貰う選手がいるとのこと。企業の広告塔の役目を持たせている関係からなのは間違いない。有名選手ともなると、スポーツウェア企業やスポーツ用具企業と専属契約してイメージキャラクターとなり、高額のコマーシャル料を得る。アマチュアの生活を余儀なくされているのは人気のない競技の選手のみで、殆どはプロ化して、選手生命の短さを補う収入の獲得にもエネルギーを注いでいるといったところが実情だろう。
こういった上記事情はスポーツが競技することだけで成り立っているわけではなく、カネのバックアップも加わって重要な位置づけをなしている人間営為であることを教えてくれている。となると、一概に、あるいは不用意に人間賛歌などとは言えなくなる。
カネに関わる問題はニンジンの意味を持たせた報奨金だけにとどまらない。内科、整形外科、歯科、眼科、耳鼻科、婦人科、皮膚科の診療科を抱え、最新鋭の医療機器・検査機器で選手の健康チェック、体力チェックを行い、その能力の強化・向上を図って最善のコンディションに持っていく目的の建設費274億円をかけ01年(平成13)10月1日東京都北区にオープンさせたトータルスポーツクリニックとしての国立スポーツ科学センターにしても、この国立スポーツ科学センターと隣接させて建設費200億円、土地の買収も含めた総事業費335億円、両者を含めた敷地が東京ドームの1.5倍の約7万平方メートルもある日本で最初の国家予算による最新鋭の総合トレーニング施設ナショナルトレーニングセンターにしても(「Wikipedia」から)、選手育成にカネの力が無視できない形で預かっていることを物語っている。
このようなスポーツエリート養成のカネの関与があってこそ可能としている中国や日本、欧米経済大国のメダル独占であり、その逆説が選手の育成に満足に国家予算というカネを注ぎ込むことができない発展途上小国のメダル獲得数の少なさとなって現れている光に対する陰の光景であり、このような傾向も簡単には「スポーツは人間賛歌だ」、「純粋で美しい」と讃えて済ますわけにはいかないスポーツの姿としてあるものであろう。
子供の教育が親の経済力(=カネ)によって左右されるのと同じく、スポーツにしても選手の直接的な能力強化のみならず、次世代の選手の発掘のためのスポーツ人口の裾を広げる事業に関してもスポーツ振興を目的として注ぐことのできる国家予算の規模(=カネの規模)がモノをいう点では同じである。科学的な選手育成はカネこそが大いなる力となる。決して自身の肉体の躍動一つで、あるいは記録の限界への挑戦といったことでケリがつくスポーツの世界と言うわけではない。
選手それぞれの勝つことへの激しい執着・執念も国家予算や所属倶楽部、所属企業の報酬、あるいはスポーツ用具会社の用具の提供を受けつつ商品宣伝を担うことで手にする高額の報酬等のカネの支えを必要事項として発揮できる行動様式であり、あるいはそれらをまだ手にしていない者が新たに手に入れようとして燃やす執着・執念でもあり、そのことをそのまま裏返すと、勝負への執着・執念を失ったとき、生活の保証ともなる手にしていたカネの機会を人に譲る、あるいは一度も手にせずに終わることを意味するゆえに燃やし続けなければならない凄まじい情念とも言える。
またそうであるからこそ、この勝ち負けへの囚われは人間の自然な情としてあることだとしても、勝ちへの執着・執念が過ぎたとき、スポーツの世界に限ったことではないが、様々なルール違反が生じて、それまでそうと見えていたスポーツの純粋さ、虚飾のない真摯さに綻びが生じて美しいばかりではない醜い姿を覗かせることとなる。
日本人選手には殆どいないが、薬物を用いて運動能力を高め、記録を伸ばそうとするドーピング問題がその代表例であろう。2004年のアテネ大会のハンマー投げ競技で金メダルを獲得したハンガリーのアドリアン・ アヌシュ選手が試合後の尿検査を拒否したことからドーピング違反を疑われ、金メダル剥奪措置を受けたが、ハンガリーに帰国したまま金メダル返還を拒否、最後には返還に応じて2位だった日本の室伏広治が繰上げで金メダルを授与した事件まだ記憶に新しい出来事となっている。
アドリアン・ アヌシュのその潔くないスポーツマンシップを非難する声が世界各地で起こったが、私自身はスポーツマンシップなる精神性など信じないから、アドリアン・ アヌシュに人間の姿、その虚飾性を見たに過ぎなかった。
スピード社製の水着を着た外国選手が各種大会で次々と記録を画期的に塗り替えていく場面を演じて、「今年生まれた世界新40のうち、37がスピード社製着用」(NHKニュース)といった事態が生じると、他社水着と契約し、高額の報酬でその宣伝に努めながら、日本水連がメダルを失うことへの恐れから許可を出したものの、勝つことへの執念、と言うよりも勝つことへの打算を優先させて契約水着を捨て、スピード社製に走った水泳選手たちの姿は厳密に言うとスポーツマンシップに則った態度だと言えただろうか。
8月10日(08年)の「サンスポ」インターネット記事が北京オリンピック「競泳第2日で初めて決勝が行われた4種目とも優勝者は英スピード社の高速水着『レーザー・レーサー(LR)』を着用していた」といったことを伝えていたが、スピード社製水着へのなり振り構わない殺到が見せたものはやはりスポーツだから美しいとは断定できない利害打算・損得勘定、勝つことへの執着・執念に囚われた(大袈裟に言うと、仁義なき)人間の姿であった。
他社と契約していながらスピード社製に走った殆どの選手がスポーツマンシップなど薬にもしていなかったろう。元々見せかけに過ぎなかったスポーツマンシップだからこそ、薬にしないで済ますことができる。
もし各選手共に「オリンピックは参加することに意義がある」を姿としていたなら、自民党総裁選で勝ち馬に乗るべく安倍晋三に雪崩を打ったようには、あるいは各派閥領袖が福田康夫に雪崩現象を起こしたようには、スピード社製水着着用に向けて雪崩を打つことはなかったろう。ホンネは「勝つことに意義がある」としているオリンピックだからであり、勝つための利害打算、損得計算は決して厭わない。それがスポーツを演じても何を演じても見せることとなる人間の姿であろう。
1987年の世界陸上選手権と1988年のソウルオリンピックの男子100メートルでカール・ルイスと対決したカナダのベン・ジョンソンは両試合とも世界記録を打ち立てて金メダルに輝いたが、ドーピング検査で陽性反応が出て世界記録と金メダルを剥奪され、共に2位だったカール・ルイスに金メダルを譲っているし、ソウルオリンピックのカール・ルイスの記録が世界新記録へと訂正された。
今大会でも多くの選手がドーピング検査により資格停止処分や出場禁止処分、あるいは選手団から外されたりしている。今までの例から考えると、競技終了後の尿検査で引っかかる選手が出てくる可能性は否定できない、いとも簡単に一括りに「人間賛歌劇」だとは言えない美しくない姿を背中合わせとしたスポーツであり、オリンピックでもある。
勝つことへの執念が行過ぎた例としてまだ記憶に新しい「中東の笛」も取り上げなければならない。「Wikipedia」を参考に解説すると、2007年9月に愛知県豊田市で開催された北京オリンピックハンドボールアジア予選のクウェート対韓国戦は国際ハンドボール連盟の指示でドイツ人審判団によって試合が行われる予定だったが、クウェートの王族によって支配されたアジアハンドボール連盟の指示によりヨルダンの審判へと変更、クウェート対日本戦もドイツ人からイラン人へ審判の変更がなされ、クウェートに極端に有利となり、韓国、日本に極端に不利となる依怙贔屓の「中東の笛」を吹きまくったばかりか、ヨルダン審判が国際審判員の資格を持っていなかったことが判明、日本と韓国は國際ハンドボール連盟に改善を要求、試合の遣り直しとなって話題を提供、ファンでなかった者もファンにして遣り直し戦は今までに例のない少数の徹夜組も出したが男子、女子共に韓国に敗れ、最終予選でも負けて双方とも五輪出場を逃している。
「中東の笛」程には露骨な国贔屓はなくとも、レフリーのホイッスルや体操、あるいは柔道などの判定が常に厳正中立を保証するものではないことは誰の目にも明らかであろう。スポーツ競技と同様に人間の営為に過ぎないからからである。
以前日本女子マラソンの五輪代表選考で成績が振るわなかった選手を過去の記録を実績として代表に選考、そのお陰でより成績のよかった選手が代表から洩れてその基準の曖昧さ、不透明な選考方法が問題になったことがあったが、これもスポーツの世界が美しいばかりの姿を取るわけでないことを物語る場面であった。
JOCに所属する各競技団体の会長が殆ど政治家によって占められ、中には安倍晋三や河野洋平、笹川尭といった政治家が親子世襲で会長職を引き継いでいる奇妙な光景は何を物語るのだろうか。著名な政治家の顔が交渉ごとに有利に働くからとお願いし、政治家にしても見栄えのいい肩書きだからと引き受けているとしたら、競技関係者が自ら行うべき使命を裏切る、あるいは自らが関係する競技に持つべき熱意を裏切る怠慢以外の何ものでもないだろう。
面倒なことを自らが担ってその責任を自らが果たしてこそ、その使命感、熱意は競技選手にも伝わる。会長に据えた政治家と昵懇の間柄だと世間に見せたい虚栄心からやたらと一緒の会合を持ったり、選挙のときに票の取り纏めの便宜に動いたりしているとしたら、競技は選手任せ、組織は役員が役員でいるための目的を違えた形だけのものとなる。
役員人事問題で混乱が続いていた日本バスケットボール協会会長に麻生太郎が、副会長に同じく自民党の愛知和男が8月10日(08年)それぞれ正式就任したと「asahi.com」が伝えているが、バカでもチョンでもといった具合に、あるいは判を押すように著名政治家をトップに持ってくる慣例は横並びの画一性を示すもので、思考の硬直化なしには実現し得ない人事ではないだろうか。
07年11月7日の『朝日』朝刊記事≪もっと知りたい 競技団体トップなぜ政治家≫によると、麻生太郎は日本クレー射撃協会の会長に納まっていて、自身は全日本選手権に3度優勝。モントリオール五輪にも出場とその経歴を紹介し、協会自身は「会計処理などををめぐり混乱」と解説を加えている。
クレー競技者としての経歴も政治家としての経歴も適正な会計処理に向けた指導という点では何ら役に立たなかったようだ。多分お飾りに過ぎない会長職だったのだろう。だが、お飾りであっても、トップの人間がそれとなく醸し出す存在感によって下の者をして下手なことはできないぞという緊張感を与えるものだが、ヘラヘラしたことばかり喋っていて逆に下の者の緊張感を奪ってしまい、いい加減な会計処理を間接的に引き出すことになったと疑えないこともない。さもありなんと思わせるヘラヘラ口調が特徴の麻生太郎である。
時折りお家騒動が起きたり権力闘争が起きたりする競技団体だが、それぞれの団体に所属する選手が組織の内紛や役員の問題行動に影響を受けないはずはない。勝つことへの執着・執念を殺がれるケースも出てくるだろう。身体は身体だけでつくられているわけではない。感情が精神を大きく左右して、肉体そのものを良い方向にも悪い方向にも支配する。プレー以外の選手を取り巻く様々な要素が微妙に影響してプレーそのものの姿を変えることもある。常に純粋培養を受けて純粋培養のまま発揮されるプレーといったものは存在しないだろう。
日本選手はドーピング違反を犯してまで勝つことへの執念を見せる選手はいないようだが、北京オリンピック緒戦の米国戦を0-1、二回戦のナイジェリア戦を1-2で落として最終戦のオランダ戦を残し一次リーグ敗退が決定した男子サッカー「反町ジャパン」の試合を見ていると、ボールを蹴り合いながら相手チームの選手と競り合って走るとき、相手選手のユニフォームの背中を掴み、前に行かせまいとしたり、後ろに倒そうとしたりする反則を犯す。
こういった反則はやはり勝ちへの執着がそうさせてしまうどこの国のチームもやっている反則でお互い様だが、身贔屓なのか、単に偶然なのか分からないが、レフリーの笛が鳴って反則を取られることもあるし、笛がならないまま見過ごされることもある。私自身は「おお、やっているな」と感心するし、もし運よくレフリーのホイッスルを誘わずに済んでファールを取られたりしなければ、「うまくやったな」と感心したりする。
また勝っているチームが試合時間終了間際になると味方の選手同士でボールを長く保持して時間稼ぎをするのも日常的に見かける試合光景となっている。
これも勝ち負けへの利害打算、損得勘定が仕向ける姑息な手段であり、同時に勝ちへとつなげようとする執念がそうさせる美しいとは言えない試合光景であろう。
中国政府が反体制の人権活動家を取締まり、新聞・テレビ報道を制限、あるいは統制し、インターネットを監視し、あらゆるデモを力で抑えつけようとする過剰な警備体制を敷いて開催に漕ぎ付けた北京オリンピックの舞台である。そのような舞台で各国選手は競技を演じる。例え個々の選手が勝つことへの執着・執念のみで競技に熱中したとしても、あるいは観客がテレビ観戦をも含めて選手の勝ち負けのみに目を向けたとしても、選手たちの一見肉体の限界に挑む真摯で純粋なプレーに見える一つ一つの挑戦はカネを力としているという事実や、プレーの舞台そのものが中国政府の自由と人権の制限の上に成り立っている事実等が組み合わさってオリンピックという全体像をなしているものの一部であって、その全体像にしても、それを成立させている一つ一つの事実にしても消えることなく歴史に刻まれることになるだろう。
ドーピング違反を犯した選手の名前と記録とメダル剥奪の事実が歴史に記録されるように。
米下院外交委員会が人権侵害やスーダン・ミャンマー両政府への支援の停止を中国に求める決議を採択したことについて中国の報道官が中国に対する不当な非難はオリンピック精神に反することだと非難していたが(北京週報)、オリンピック精神が謳っている人間の尊厳の維持、人権の保障、差別の否定、平和な社会の確立等に向けて中国国民に、あるいは外国のこととはいえ、ミャンマー国民やスーダン国民に力を果たしているとは思えない中国政府がオリンピック精神を持ち出し、オリンピックを開催するその倒錯性も競技にのみ目を向けることで忘却していいわけのものではない美しくない姿であろう。
胡錦涛国家主席は8日昼に北京人民大会堂で北京五輪開会式に出席する各国の要人を歓迎するレセプションを開催したが、要人の一人ひとりの名前が読み上げられて順番に胡錦涛主席の前に進んで挨拶し合うシーンは極めて高度に政治的なショーであった。そこには対等であることの演出はなく、各国要人が名前を読み上げられてから胡錦涛主席に握手を求めにいき、胡錦涛主席が各国要人に求められた握手を鷹揚に受ける上下関係の演出が施してあったからだ。大国中国を世界に見せ付ける演出だったのだろう。
このような政治的な不純さも混じった北京オリンピックであることも見逃すわけにはいかない。身贔屓もあれば、虚飾もある、姑息な違反もある、ときにはカネと名誉、あるいは虚栄を賭けたあざといばかりの勝つことへの執着・執念も見せる。オリンピックは政治とは無関係だと言いつつ、国家による政治的な思惑を露骨に関与させることもある。決して美しい姿ばかりを見せるわけではない人間劇のオリンピックであるにも関わらず、選手のプレーが見せる表面的な感動シーンにのみ目を奪われて、スポーツは人間賛歌だ、虚飾のない世界だ、記録の限界に挑む姿は美しいとのみ言える人間は幸せである。
02年2月から始って「いざなぎ景気」を超えて戦後最長となった景気拡大期が終止符を打った可能性が高いと8日(08年8月)の時事通信社インターネット記事が伝えている。
「いざなぎ景気」を超えた戦後最長となった景気拡大。――
だが新聞・テレビは「戦後最長、戦後最長」と姦しく伝える一方で、「景気拡大の実感がない」、「景気がいいという感じがしない」と言う街の声を伝えてきた。
政府が企業収益の向上分が賃金に跳ね返り、個人の所得が増えて消費が喚起されるとする構図を持たせた景気回復シナリオを描いて税制面で企業優遇政策を行ってきた中で(「企業と家計の間で好循環を形成し、内需の厚みを増す成果配分」とも言っている。/「asahi.com」記事から)戦後最長の景気拡大が実現し、大手企業の収益が格段に上がったものの、その利益が「企業と家計の間の好循環の形成」どころか、全く以ってと言っていい程に個人所得(賃金)に反映されなかったことの当然過ぎる結果として個人消費が伸びない低迷状態のまま景気が終息した、そのような皮肉な逆説性をも孕んだ「戦後最長」であった。いわば政府の景気回復のシナリオ、利益配分は絵空事に過ぎなかった。
いや、自民党政府は「企業と家計の間の好循環の形成」を実現させる政治能力を持たなかったと言った方が正確であろう。
その象徴が低所得状況に閉じ込められたフリーターの存在であろう。7月23日(08年)『朝日』朝刊記事≪漂う年長フリーター≫によると、景気回復で03年の217万人から年々減り続けて昨07年は181万人までになったフリーターではあるが、その減少を主として担ったのは前年より6万人減って89万人となった15歳~24歳の若年組で、03年の98万人から06年92万人にまで減少した25~34歳年長組は07年も92万人で減少なしの横ばい、逆に15~24歳若年組を3万人上まわることとなり最多数を形成、総務省のフリーターの年齢定義(15~34歳)から外れる35歳~44歳の最年長組に至ると、03年の29万人から年々増加を続け、05年に30万人となり、06年32万人、07年38万人へと「戦後最長の景気拡大」に逆行する「拡大」を見せている。
この「拡大」の一因は総務省のフリーターの年齢定義を超えているということで公的支援対象から外されていることにあると記事は伝えているが、その対象外政策を受けて企業の求人対象からも除外させられているということにもあるのではないのか。
企業も役所も人間35歳を過ぎたら、フリーター以外はお呼びではないよを決まりとしていると言うわけである。後期高齢者保険制度では75歳を過ぎたらお呼びでないよであった。
「戦後最長」の景気回復で07年にはトヨタやソニー、キャノンといった日本を代表する大手企業、あるいは三菱とか住友とかの大手金融機関が戦後最高益を記録したが、企業の高収益が個人所得に公平に配分されないまま雇用状況は確かに改善された。そのような結果を受けてのフリーターに関しては15歳~24歳の若年組フリーターに限った03年には119万人だったのが、06年95万人、07年89万人の改善であったろう。
そして再びアメリカのサブプライムローン問題や世界的な原油高騰、穀物高騰を受けた原材料費の高騰が悪影響したアメリカの景気後退と連動した日本の「戦後最長の景気拡大期」の終焉の可能性。
この「可能性」は経済活動の実態に既に現れている。日本最高最大の自動車生産企業トヨタは北米での販売不振から人員整理は行わないまま現地生産ラインの一部を8月から3カ月間休止する生産計画の変更を迫られている。
北米で人員整理を行わない一方でトヨタグループは直近3~4カ月間でデンソー、関東自動車工業など主要5社の人員整理を進め、その削減人数は派遣社員・期間従業員を合わせて約2300人に上ると5日(08年8月)の「日経ネット」が伝えている。
GMは北米で人員整理を進めている。トヨタが国内生産拠点では人員整理を行い、北米生産拠点では行わない矛盾の理由はどこにあるのだろうか。
約2300人の内訳に入るのだろう、トヨタ自動車九州工場が6月と8月初めの2回に亘って92年操業開始以来の最大の800人の派遣社員の人員整理に踏み切ったと「asahi.com」記事が伝えている。
同記事は「新車種の生産準備が本格化する10、11月頃をめどに、改めて500人の派遣契約をする方針だ」としているが、300人は振るい落されたままとなるし、再契約の目標としている500人も景気の動向次第で当てにならない数字と化す危険性を孕んでいる。15歳~24歳の若年組フリーターに限った減少傾向も再度の景気悪化でいつ増加に転ずるか、その持続性の保証も危ういものとなる。
いわば戦後最長の景気拡大場面に於いてもフリーターを中心とした社会の最も弱い層である低所得層には利益配分の恩恵は殆ど還元されることがなかったし、景気後退局面に直面してその最初の打撃が社会の最も弱い層であるゆえにフリーターを中心とした低所得層に最初に及ぶ。
政府は財政再建を掲げつつ、総選挙対策上景気回復策の必要にも迫られる困難な状況に立たされているが、福田内閣支持率回復と総選挙対策の切り札とされて久し振りの表舞台復帰に張り切っているのか、麻生幹事長は、政府が掲げてきた2011年度の基礎的財政収支(プライマリーバランス)黒字化目標達成年度の先送りと小泉元首相が政策としていた新規国債発行枠30兆円に拘らない姿勢を示し、財政再建よりも景気対策のための財政出動を優先させる考えを示した。
「こんなことを言ったら、バラ撒き、放漫経営と言われるんだよ。しかし私に言わせたなら、今、景気対策は政策優先順位の一番だと思います」(「日テレ24」)と右手の人差し指を突き立てて前置きし、「株式300万円から出る配当や株式の譲渡益を無税にする。政府は1円も使わず、日本中の株の評価が上がり、資産が増える」(「毎日jp」)と景気のいいことを言って300万円以下の株式を1年以上保有した場合の配当と譲渡益を非課税にすることと住宅取得を促すための減税や設備投資の減税も検討すべきだとの考えも明らかにした(同「毎日jp」)。
結構毛だらけ、猫灰だらけのネズミ講並みのうまい話に聞こえるだけではなく、浪花節語りの語り口調に似て、言葉以上に景気のいい響きを振り撒くこととなっているが、企業収益の向上分が賃金に跳ね返り、個人の所得が増えて消費が喚起されるといった政府の利益配分方式――簡単に言うと、上が潤えば、順にその利益が下に滴っていくというシナリオ自体がいさなぎ景気を超えた戦後最長の景気拡大局面で機能せず、破綻の憂き目を見ている以上、麻生の提案する株式優遇税制及び基礎的財政収支(プライマリーバランス)黒字化目標達成年度の先送り等の財政出動によって手にすることになる高所得層、あるいは大手企業の利益が今度こそ個人所得(賃金)に反映される道筋――いわばこれまで機能せずに破綻した従来の利益配分方式に替る機能する利益配分方式を前以て明確に示す必要があるのではないのか。
確実に機能することを保証する公平な利益配分の道筋を示さずにぶち上げた政策ということなら、「いざなぎ景気」を超えた戦後最長の景気拡大期でも大手企業の収益が個人所得(賃金)に公平に分配されなかった前科を抱えた以上、同じ二の舞となる再犯を繰返さない確信は麻生の話のどこからも看取することはできない。講釈師、見てきたようなウソを言いで終わるだろう。
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≪麻生幹事長:300万円以下の株、配当と譲渡益無税検討≫(毎日jp/2008年8月9日 22時08分)
自民党の麻生太郎幹事長は9日、札幌市などで講演し、景気対策について「株式300万円から出る配当や株式の譲渡益を無税にする。政府は1円も使わず、日本中の株の評価が上がり、資産が増える」と語り、300万円以下の株式を1年以上保有した場合の配当と譲渡益を非課税にすべきだとの考えを示した。あわせて、住宅取得を促すための減税や、設備投資の減税も検討すべきだとの考えも明らかにした。
麻生氏は一連の優遇税制の拡充案について「首相になってからやりたいと思っていたが、待っていられない。やるなら今だ」とも強調した。
麻生氏は景気対策を急ぐ必要性を唱え、財政再建より財政出動を優先すべきだとの立場を鮮明にしてきた。しかし党内の一部から「バラマキ」との批判が出ており、財政出動だけに頼らず、税制での対応もアピールしたい狙いがあるとみられる。ただ、税収減につながることは確実で、政府・与党内の調整は難航しそうだ。
現行の証券税制は、上場株式の譲渡益や配当にかかる税率を本則の20%から10%に引き下げている。08年度中に本則に戻す予定だったが、米低所得者向け高金利住宅ローン(サブプライムローン)問題で低迷する株式市場への配慮などから、08年度税制改正では適用上限額を設けた上、10年末まで延長することを決めた。【西田進一郎、須佐美玲子】
自民党の麻生太郎幹事長が4日の日江田五月参院議長に就任の挨拶に訪れた際、「民主党が政権を取るつもりなら、ちゃんと対応してもらわないといけない。ナチスドイツも国民がいっぺんやらせてみようということでああなった」(「毎日jp」記事)と忠告(警告?)したと言う。
親切心からの忠告でないことだけは確かである。
この言葉を忠実に読み解くとすると、民主党がちゃんと対応しないままでいたなら、「国民がいっぺんやらせてみようということで」政権を取らせた場合、日本はナチスドイツの二の舞となりかねない、ということであろう。
麻生の釈明。
「民主党とナチスを一緒にしたわけじゃない。審議することが大事だという話をしただけだ」(「西日本新聞」インターネット記事)
要するに「ちゃんと対応してもらわないといけない」とは、「ちゃんと審議に応ずること」を求めた意味となる。
ではなぜちゃんと審議に応じない民主党を国民がいっぺんやらせて見ようと言うことで政権を取らせたなら、日本はナチスドイツの二の舞となると言えるのだろうか。
そこの説明がない。ないから釈明不足のままで終わっている。と言うよりも、きちんと釈明できないのだろう。
なぜかと言うと、麻生太郎は審議に応じないことを以ってナチスドイツ化の唯一の根拠と看做し、審議に応じない政党が政権を取った場合、ナチスドイツの二の舞となると言っているのだから。
ちょっとどころか、かなり乱暴な根拠付けであり、乱暴な解釈となっていないだろうか。
この手の理解は2003年に東京大学学園祭での講演で「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と言ったのと同じく論理的な脈絡を一切欠いた短絡思考からの結論付けと同質のものだろ負う。
「Wikipedia」の「麻生太郎」の項目に「創氏改名は朝鮮人が望んだ」は「満州や日本国内で経済活動をする上で朝鮮名が不利な場合があったという文脈での発言」だと解説がしてあったが、「創氏改名」そのものは植民地支配の皇民化を目的とした法令化であり、改名しない者には公的機関に採用しない、食糧の配給対象から除外するといった、いわば改名に応じない場合は飢えることを覚悟しなければならない兵糧攻めで強制したことが始まりであって、満州や日本国内で朝鮮名が不利で自ら日本名を名乗ったのは差別や蔑視を受けた反応であって、決して「望んだ」のではなく、「望まされた」が実態であろう。
いわば少しでも差別や蔑視から逃れたい、朝鮮人であることを隠したい思いが選択させた日本名(麻生の言う「創氏改名」)であろう。
麻生の「創氏改名」発言は戦前の日本を正義の立場に置こうとする意味合いの発言であり、民主党政権になった場合の日本のナチスドイツ化発言は自民党政権を正義の立場に置こうとする意図を持った発言と看做すことができる。
ヒトラーはその弁舌でユダヤ人を劣る民族とすることでドイツ人の敵と位置づけ、翻ってドイツ人自身を優秀な民族と思わせ、そのアイデンティティーの統一に成功、大衆動員を思いのままにした。
この構図は善か悪か、肯定か否定かは政策で闘わせるべきを、そのこととは無関係に民主党が政権を取った場合の日本のナチスドイツ化を思わせることで国民を民主党否定に向かわせ、翻って自民党を間違いない政党だと思わせて国民をそこに導こうとする単純形式な善悪二元論と本質的には同じ姿を取っていると言える。
大体が単純・単細胞な結論付けが大好きな我が麻生太郎なのである。
論理的な判断能力には疎く、単純な思考しかできないにも関わらず、そのような論理性を巧妙に隠すに余りある弁舌の巧みさを持ち、尚且つ権力欲に長けた人間は危険である。ひとたび権力を握ると、ヒトラーのように論理的な判断能力を欠いたまま、単純な思考で仕立てた政策を巧みな弁舌で国民に押し付けることになるからだ。
若者主体の漫画文化やサブカルチャーのよき理解者を装った上に福田首相との総裁選の最中秋葉原で街頭演説、「秋葉原じゃあ、結構評判がいいみたいですが、キャラが立ちすぎるらしくて永田町の古い古い自民党にゃあ、あんまりウケが良くない麻生太郎です」と「古い自民党」の嫌われ者を演じることで逆に秋葉原の若者の受けを狙う自己紹介を行って拍手喝采、麻生コールを誘い出し、おたくと言われる若者の教祖と祭り上げられる弁舌の巧みさはヒトラーの大衆動員に劣らない弁舌の巧みさであろう。
民主党政権下の日本をナチスドイツになぞらえるよりも、自己の巧みな弁舌をヒトラー張りの演説に譬えるべき麻生太郎であろう。
もしかしたら若者を巧みに惹きつけることができる自分の弁舌をヒトラー張りの名演説と自ら酔い痴れていて、その意識があったから、つい民主党をナチスドイツになぞらえてしまったと疑えないこともない。
麻生は殊更に柄の悪い言葉遣いをするが、思考そのもの、解釈そのものが品がない。それらの品の悪さがそのまま言葉の柄の悪さとなって現れている。人間そのものが品がなく仕上がっているからなのではないか。
永世死刑執行人」、もしくは「死神」と名誉の称号を戴いた鳩山法相に代わって福田改造内閣で新法相に就任した保岡興治が初閣議後の記者会見で「希望のない残酷な刑は日本の文化になじまない」として終身刑の創設に否定的な考えを示したと8月3日(08年)の「毎日jp」記事(≪終身刑:保岡法相、導入否定的 「希望がなく残酷」「日本の恥の文化になじまぬ」≫)が伝えている。
記事は終身刑がなぜ「「希望のない残酷な刑」なのかの保岡の説明は伝えていない。
こうは言っている。「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」と。その上で、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」
記事は終身刑について、<超党派の国会議員でつくる「量刑制度を考える超党派の会」が5月、死刑と無期懲役刑のギャップを埋める刑として導入を目指すことを確認している。>と解説、保岡自身に関しては<00年7~12月の第2次森内閣でも法相を務め、在任中の死刑執行は3人だった。>と補足説明している。
因みに「永世死刑執行人」、もしくは「死神」の名誉称号を戴いた鳩山邦夫前法務大臣は2007年8月27日の安倍改造内閣で法務大臣に就任、福田内閣で留任、8月1日の内閣改造で保岡と交代するまで約11ヶ月の在任中、4回に亘って1993年3月の死刑執行再開以降の法相では(Wikipedia)歴代1位の計13人の死刑執行にサインしている。
死刑や終身刑が「残酷」だとしても、罪を犯した者にのみ降りかかる代償作用としての「残酷」さであって、殺人被害者や生涯に亘ってその家族・近親者にまで殺人被害の代償作用として降りかかる「残酷」さとは別物である。
「潔く死をもって償う」とは、自ら進んでという自発性を責任行為に於ける基本姿勢としているということであろう。自発的でなければ、「潔く」とはならない。
日本人が自らが犯した重大犯罪を自ら進んで「死をもって償う」程に「潔」く、それが日本の「恥の文化」に関わる行動価値観だと言うなら、その「潔」さは日本人の行為全般に亘って発揮される自発的な責任意識でなければならない。
だとしたら、「潔」いとする日本人の自発的な責任意識に反する自発性のカケラもない政治家・官僚の責任感のなさ、責任意識の欠如はどう説明したらいいのだろうか。
自分が関わった事柄及び行為から生じた結果に対して責めを負うことも「責任」と言うが、自己に与えられた役割を全うすることも「責任」と言う。政治家の責任・官僚の責任とは基本的には後者の「責任」を言うはずである。
不作為や怠慢を原因として役割を全うする責任すら果たさず、そのことによって生じた社会的不公正や矛盾といった結果に対して責めを負う「責任」も果たさない。
自己に与えられた役割を全うする「責任」を果たしたとき、役割の結果に対する「責任」(=責め)とは距離を置くことができる。自己に与えられた役割を全うする「責任」を果たさなかったとき、その結果に対する「責任」(=責め)が生じる。
そのときどう責任を取るか(どう責めを負うか)によって、その人間の結果責任に対する態度が「潔」いかどうかが計られる。安倍前首相はいくら体調を崩したとはいえ、政権をいきなり投げ出しておきながら、何ら責任を取らず、今以て国会議員の職にしがみついていることなどは「潔」い責任態度の例に入れることは不可能だろう。
死刑は殺人以上の罪を犯した者を対象とした刑罰である。果して殺人行為は社会人としてそれ相応に担わされていた役割の内に数えることができるだろうか。親が子供を殺す。逆に子供が親を殺す。カネを奪う目的で殺人まで犯してしまう。どのように理由があろうと、社会の一員として、あるいは人間としてそれぞれに担っているそれぞれの役割とは無関係の、そのことに反する行為であろう。
人間に与えられた基本的な責任はあくまでも自らに与えられた役割を全うすることであり、そのような生き方を基本的な生存形式としなければならない。
殺人が社会人として、あるいは人間として与えられた役割を全うする責任を放棄した行為であり、そうである以上、その責めを負う責任は生じるが、社会人としての、あるいは人間としての役割を全うするという基本的な生存形式を自ら破っているのである、その結果としての死刑という責任を負うについて、「潔」いとか「潔」くないとかの価値観で計ることができるのだろうか。
そういった価値観で図ることができるとしたなら、2001年6月8日の児童8名を殺害し、児童13名・教諭2名に傷害を負わせた大阪教育大学附属池田小学校無差別殺人事件の加害者に対する一審判決は死刑、弁護団が控訴したが、被告本人が控訴を取り下げて死刑が確定、2004年9月14日に大阪拘置所で死刑が執行された宅間守などは保岡の主張からしたら、「日本は恥の文化」を物の見事に体現して「潔く死をもって償」ったと言える誉むべき代表的な日本人に挙げることができるだろう。
果してそうだと言えるだろうか。
どんなに苦しくても、どのように困難に遭遇していようとも、基本的な生存形式を曲りなりに守り通す生き方をこそ、「潔」いとか「潔」くないとかの価値観で計るべきではないだろうか。
大体が「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償う」が事実なら、一審の死刑判決に対して「刑が重すぎる」とする控訴・上告といった審理やり直しの訴訟手続きは存在しないはずである。すべて一審で片付く。
坂本弁護士一家殺人と同僚信徒殺害容疑で一審で死刑判決を受けたが、減刑対象となる自首を理由に高等裁判所に控訴するも、罪の意識からの自首ではなく、教団から身を守る保身からの自首とされて減刑を認めず控訴棄却、最高裁に上告、再度棄却されて2005年4月7日、元オウム信徒岡崎一明は死刑が確定している。
最高裁に上告中だった岡崎一明の心境を05年2月18日の朝日新聞朝刊が伝えている。
「どれくらい時間が残っているか分からないが、麻原の過ち、オウムの過ちを指摘し、まだいる教団の信徒を目覚めさせたい。それが私の償いだ」
「真理を探究する多くの者が、偽者とは気づかずに別の足跡を追って道を踏み外し、最悪の場合、人生を棒に振ることもある」
「大切なのは宗旨や教義ではない。トップやリーダーの人間性だ」
自らを「真理を探究する多くの者」の内の一人と価値づけることから抜け出せず、そのことが原因してのことなのだろう、麻原彰晃を絶対権威として崇め尊び、その指示を絶対正義と疑わずに無条件、且つ有り難く承って全行動を決定してきた愚かしいばかりの自らの権威主義的行動様式を責め、反省する責任意識からの言葉はなく、弁明とすべてを麻原一人に責任転嫁する麻原非難の言葉のみしか見受けることは不可能で、到底「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償う」とは言えない岡崎一明の態度であろう。
殆どの場合、一審で死刑判決を受けた者は「刑が重過ぎる」と最高裁まで争う。そのプロセスからはオウム信徒岡崎一明と同様、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償う」といった自発的受容を価値観とした行動性を窺うことはできない。裁判所の刑の確定に受動的に従う他律的受容を基準とした価値観のみしか見ることができない。
それをさも死刑囚のすべてが「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償う」ことを責任の方法としているかのように言い、そのような責任方法をさも「多くの国民が支持している」かのように美しく仕立てる。
ここには日本民族優越意識があるが、そのことをも含めて、人間の現実の姿を見る目を持たないからこそ言える奇麗事であろう。客観的判断能力が粗末にできているからこそ言える空言に過ぎない。
大体が「恥の文化」とは社会の一員として、あるいは人間として課せられた役割を果たす「責任」行為を遂行する上で社会の規範に合わせて「すべきこと・すべきではないこと」を基準に自らの行動を決定する自律的行動形態を言う文化ではなく、こうすると他人がどう見るか、世間は何と思うかといった他者の価値評価を基準に自己の行動を決定する非自律的行動性を言う文化であって、そこから日本人は「自立していない」とか「横並び行動」とか言われているのであって、決して誇っていい「恥の文化」というわけではない。
終身刑にしても中には死刑にならないことを計算して殺人行為に走る者も出てくることも考えられるし、いつ死刑が執行されるか怯えることもない生命の保証及び収入に対する不安を持たずに済む衣食住の保証を受けて人間が環境の生きものであることを発揮して生活上の不自由を凌ぐ有利な条件に変え、終身刑の生活に慣れる者も相当数出てくることも考えると、終身刑を「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑」だと一概に断定することはできないわけで、それをさも「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑」だと固定的に価値づけ、断定できるのはやはり客観的判断能力の欠如の賜物であろう。単細胞だから言える言葉だと言うわけである。
また「真っ暗なトンネル」は終身刑や死刑の世界だけに存在する生活状況ではなく、現実の社会、シャバにも存在する生活状況であって、法務大臣だから管轄外だと放置してもいい人権問題ではないはずである。
就職氷河期に社会に出て満足な就職にありつけずフリーター化して十分な収入の保証もないまま結婚もできず、そこから抜け出せないままに30代40代にもなってフリーター生活を引きずらざるを得ない者が07年で38万人(35歳~44歳)にも存在すると言う。
彼らや25歳~34歳で07年で92万人いるフリーター、あるいは15歳~24歳で89万人いるフリーターの中には「真っ暗なトンネルをただ歩いてい」といった生活を送っている者が一人として存在しないと断言できるだろうか。政治家である以上人間存在の全般に亘って目を向けるべきであり、目を向け得たとき人間の現実の姿を理解する眼を養うことができ、養うことによって客観的判断能力の欠如に距離をを置くことが可能となる。
人間の現実の姿を洞察する判断能力もない単細胞の政治家が法務大臣を努める。この滑稽で倒錯的なパラドックスは日本の政治家だから許されるのか、奇麗事を言う才能に長けた政治家こそが大臣として出世できる土壌が日本にはあるからなのか。
そうであるとしたら、首相の任命責任外の人事ということになる。
但し人権問題に関して
ちょっと題名が長すぎるかな?
戦後以来、経済も外交も改革案件も金融政策もアメリカに依存し、アメリカの属国だ、対米追従一辺倒だ、ハワイに次ぐ51番目の州だ、主権を備えた独立国家ではないという非難が日本という国にかぶせられた有難い国柄となっていた。
ブッシュ米大統領が7月29日に中国の民主活動家の魏京生氏、中国の強制労働収容所の実態を告発したハリー・ウー氏、新疆ウイグル自治区出身のラビア・カーディル氏ら米国在住の5人をホワイトハウスに招いて面談し、8月8日の北京五輪開会式出席に合わせて訪中する際、胡錦濤国家主席らに「人権」と「宗教の自由」を強く申し入れることを確約したと7月30日(08年)の「毎日jp」記事が伝えている。
またホワイトハウスの別室でハドリー大統領補佐官(国家安全保障担当)と会談中だった中国外相とも面会し、「五輪は中国にとって人権と自由への思いやりを示す好機」と訴えたとも伝えている。
ハドリー大統領補佐官が声明で「人権と宗教の自由は誰に対しても否定できない、という米国の立場を明確にする機会となる」と北京五輪開会式出席に向けた大統領訪中の意義を強調しているが、「毎日jp」記事は<米国ではチベット暴動に対する中国当局の弾圧を受け、大統領の五輪開会式出席に対する批判が根強い。ブッシュ大統領の面談はこうした批判を抑える狙いがあるとみられる。>とその対策的側面性を指摘している。
同じ出来事を伝えている「asahi.com」記事(2008年7月30日)にしても、ブッシュ大統領が五輪開会式出席の意義を「中国の指導者との関係を築くことで、人権や宗教の自由は否定されるべきではないとの米国の立場をはっきり伝えることができる」と訴えたのに対して、<米国では、中国の人権状況などを理由に大統領の北京五輪開会式出席への批判があり、訪中前の会見で「人権問題重視」の姿勢を印象づけることを狙ったようだ。>と批判鎮静化の性格を持った会見だと同じように解説している。
その一方で「asahi.com」記事は<活動家らはブッシュ氏の姿勢を評価したうえで「中国指導部だけでなく、国民にもメッセージを伝え続けて欲しい」と要望したという。>とその評価を伝えている。
しかしマスメディアの情報を通じてだが、世界の人間に見える言葉・聞こえる言葉で非民主国家の民主化要求を行うのはアメリカ以下の欧米諸国であって、そういった形式の民主化要求は日本は言葉を出さないままの状態でいる。
いわばこの点に関しては日本は決して対米追従ではなく、アメリカの属国的態度に陥ることもなく、如何なる外国にも依存しない自主独立の態度を頑固なまでに貫いている。
さらに言うなら、ハワイに次いで51番目の州と受取られかねない主体性なき卑屈な態度も示さず、見事なまでの権の姿勢を示していると言えるのではないだろうか。
最良の方法はブッシュ大統領が中国政府と「民主化に向けて一層の努力をする」とする中国側の言葉と引き換えに開会式への出席を了承する裏取引きを行うことではなかったろうか。
それが中国に対する言質となって、中国政府の権態度に遭遇するたびにあのときの約束はどうしたと言えることになる。
中国側としたら、そんな約束はできないとは言えないだろう。北京オリンピックの承認を受けるに当たって北京の五輪招致団は7年前に、「五輪が来れば人権問題を含む社会問題は改善されるだろう」(MSN産経/08年4月11日≪ロゲIOC会長発言で波紋 人権問題に踏み込んだ?≫)と民主化を条件として北京オリンピックの招致を成功させている手前があるからだ。
この約束は国際オリンピック委員会のロゲ会長が持ち上がったチベット問題及び聖火リレー妨害問題の沈静化を図るために「道義上の約束を尊重するよう中国側に求める」と約束履行を求めた中で明らかにした中国側の言質であった。
これが中国政府とアメリカ政府当局同士の直接の約束なら、北京の五輪招致団とIOC同士の約束と比較にならない強力な言質となることは間違いない。
だが、残念ながら裏取引はなかった。なかったから、中国民主化活動家の5人をホワイトハウスに招いて会見して、中国に民主化を求める姿勢を示す必要が生じたのだろう。
7月31日(08年)のNHKニュースは、アメリカ議会下院が30日、中国政府に対して不当に拘束した人権活動家などの釈放、チベット人やウイグル人に対する抑圧の停止、中国政府と立場の異なる人々がオリンピック期間中に中国を訪問できるようにすることなどを求める決議案を可決したと伝えていた(文章はNHKインターネット記事から引用)。
同NHKは、この決議に対して中国外務省の劉建超報道官が31日、「北京オリンピックを妨害する邪悪な意図がある」として抗議の声明を発表し、アメリカ政府と議会に厳正な申し入れを行ったことを明らかにしたことも同時に伝え、さらにブッシュ大統領が29日に中国出身の民主活動家5人をホワイトハウスに招いて面会したことを取り上げて、オリンピックを機に海外の関心が中国の人権問題に集まることに中国当局は神経をとがらせていると解説している。
アメリカは2004年10月に「北朝鮮における基本的人権に対する尊重と保護の推進」等を要求する「北朝鮮人権法」を米議会上下院で可決、大統領の署名によって成立させている。
2005年と2006年に国連総会本会議において「北朝鮮の人権状況」決議がなされ、日本は賛成国に名を連ねているが、国独自としては06年6月に「北朝鮮人権法案」を成立させている。
だがこの法律はその「目的」の項で「拉致問題の解決」と併行させて<北朝鮮当局による人権侵害問題の実態を解明し、及びその抑止を図ることを目的とする。>と謳っていることから分かるように北朝鮮の人権侵害問題が06年6月の時点では「実態解明」以前の状態にあり、当然のこととしてアメリカが「中国政府に人権尊重を求める決議案」で不当に拘束した人権活動家などの釈放、チベット人やウイグル人に対する抑圧の停止、中国政府と立場の異なる人々がオリンピック期間中に中国を訪問できるようにすると具体的要求項目を掲げたように、北朝鮮ではこれこれの人権侵害がある、それを改めることを要求するとはなっていなくて、「その抑止を図る」と言っても、実態解明後の問題として把えている。
06年6月まで日本政府は何をしてきたのだろうか。拉致解決のみでよしとする姿勢が原因して拉致以外の北朝鮮の人権侵害問題に目が向かなかったとでもということなのだろうか。
だとしたら、何という一国主義であろうか。
それとも拉致解決のみを目的とした「北朝鮮人権法案」であったなら、その一国主義が批判を受ける恐れから、一国主義批判を避ける必要上、<人権侵害問題の実態を解明し、及びその抑止を図ることを目的とする。>と拉致以外の人権侵害問題も取り上げざるを得なかったということなのだろうか。
前者・後者いずれにしても一国主義に変りはないが、日本政府がどのような人権侵害が北朝鮮で演じられているか把握していない、「実態解明」はこれからだとしたのは俄かには信じがたく、日本人の人権意識と他国の人権問題に関して決してアメリカ追従ではないことを併せ考えると、どうも後者のように思える。
ブッシュ大統領は昨2007年9月のシドニー開催アジア太平洋経済協力会議ビジネスサミットで「米中間の協力関係は継続するが、これまで同様、われわれが個人の尊厳や自由への信念に多大な価値を置いていることを表明し続けたい」、「(北京五輪は)中国の国民にとって最も誇り高く感じられる時となるだろう。同時に中国の指導者にとっても、さらなる開放性と寛容性を表すことで国としての自信を示す機会になり得る」(AFPBB News)と中国首脳の面前で演説を行い、中国の一層の民主化を促している。
さらにブッシュ大統領はミャンマーや北朝鮮に於ける人権の改善や軍のクーデター後総選挙が初めて実施されるタイについても「自由で公平」に行われるよう言及している。
日本の首脳が中国やその他の権国家の首脳の前でこのような人権改善要求の場面を演じたことがあるだろうか。アメリカの属国だ、対米追従一辺倒だ、ハワイに次ぐ51番目の州同然だと言われながら、アメリカのかくある対外的人権要求姿勢・民主化促進要求態度に追随することなく、何も物申さない自主独立国家姿勢を貫いて止まないことから推測しても、「北朝鮮人権法案」は拉致解決のみを視野に入れた一国主義的権姿勢が成立させしめた法律としか思えない。拉致問題のみが日本にとっての「人権侵害」だというのがホンネといったところなのだろう。
7月29日(08年)にアメリカではブッシュ米大統領がミャンマー産ルビー、ヒスイなど宝石の輸入全面禁止や同国軍事政権高官らの資産凍結などを盛り込んだ「対ミャンマー制裁強化法案」に署名、同法を成立させている。
このことを伝えている「毎日jp」記事(≪米国:対ミャンマー制裁強化法成立、在米資産も凍結へ(毎日新聞 2008年7月30日≫2008年7月30日 21時46分)によると、米財務省が同日、軍政が所有ないし管理しているミャンマー国内の企業10社の在米資産を凍結し、米国企業との取引を禁止する追加制裁措置を決めたという。
<ミャンマーはルビーなど宝石の一大産地。軍政が見本市などを主催し、貴重な外貨収入源となっている。米国はこれまでもミャンマーから宝石の直接輸入を禁じていたが、第三国経由の輸入は対象外だった。今回の法成立で第三国経由も禁止される。>――
ブッシュ大統領が署名後、「米国は民主主義と自由を信じる、というのが我々のメッセージだ」と語ったことも伝えている。
「民主主義と自由を信じる」アメリカのメッセージの発信に関しても日本は決してアメリカ従属では決してない。北朝鮮に対する「圧力と対話」のいくつかの実効性のさしてないささやかな「圧力」は日本人が関わっていることからの圧力であって、対ミャンマーに関しても反政府デモを取材中の日本人フリージャーナリスト長井健司氏(50)がミャンマー当局のデモ治安部隊員に至近距離から背中に銃撃を受けて非業の死を遂げた07年9月27日の前日の9月26日、いわばまだ日本人が関わっていない時点での日本政府の態度は「いたずらに欧米の国と一緒になってたたきまわるのがいい外交なのか、という感じが前からしていた」(町村官房長官/)が日本の基本姿勢であり、殺害の事実が伝えらて日本人が関わっていることが判明した後も「いきなり制裁するのではなく、各国と相談しながらやっていく」(福田首相)とその基本姿勢を変えなかったが、10月に入って中旬に「日本・ミャンマー人材育成開発センター」の計画を延期する制裁を発表、推進中の人道案件のみ援助を継続することを決定しているが、フリージャーナリスト長井健司氏銃撃死の真相解明に向けてミャンマー当局を積極的に動かす力を日本政府が発揮できないことを受けた措置――日本人が関わっていることからの圧力であろう。
いわば対米追従、属国態度からの制裁ではなく、一国主義的な自主独立の権姿勢からの申し訳程度の制裁といったところでしかない。
福田首相は北京五輪開会式に出席しても世界の人間に見える言葉・聞こえる言葉で中国首脳に民主化を要求することは決してあるまい。余分な面倒はなるべく起こすまいとする事勿れ主義に衝き動かされて、あくまでも一国主義的な自主独立の権姿勢を貫き通すに違いない。
かくも人権問題に関してはアメリカの属国とならず、対米追従に陥らず、51番目の州の如き同調姿勢を示さず、如何なる外国にも追随しない誇り高き自主独立の一国主義を見事なまでに維持している。
人権問題?――自分たちさえよければ、他国のことはどうでもいいのです。「いたずらに欧米の国と一緒になって叩きまわる」ことはないのです。
戦前、日本軍の下級兵士及び国民の人権・生命を無視・蹂躙したお国柄だけのことはある。
改造福田内閣の党幹事長にあのキャラが立ち過ぎ、アキバ系のおたくに人気抜群と言われているあの麻生太郎が任命された。昨07年9月の現福田首相と争った自民党総裁選では「オレんとこ(麻生派)16人しかいないんだぜ。それが(議員票だけで132票と)約9割増えた」「197票は大事な大事な財産です」(日刊スポーツ)と上機嫌だったあの麻生太郎が。
開票当日、自民党本部前に昼頃からインターネットの掲示板「2ちゃんねる」で呼び掛けあった約300人の麻生サポーターの若者が「YES! 麻生」のプラカードを手にして十数人の機動隊員が警戒する中、「麻生! 麻生! 麻生!」(同日刊スポーツ)の疲れを知らないエールの連呼を総裁選終了後の午後4時頃まで演出させしめたあの麻生太郎が。
麻生太郎「新宿、秋葉原。そして今日の永田町。あれ、多分、自民党員ゼロよ。2ちゃんねるで(スレッドが)立ったんだろうけど、永田町にあんなに人が集まるなんて過去に例はない。すごく感激した」(同日刊スポーツ)
福田首相の麻生太郎幹事長起用についての大方のマスコミの見方は「人気」の高い麻生を「政権の顔」、「党の顔」とすることで支持率を揚げて政権浮揚を狙うことと「選挙の顔」にして近々予想される総選挙を乗り切ることを図った起用となっている。
すっかり泥まみれになって期待値が限りなく失墜してしまっている福田と比較して政権担当者として汚れ役を一度も演じていない手付かず状態の麻生がそれ相応に人気を維持しているのは当たり前のことだが、しかしあくまで政権担当者は福田総理大臣であって、「政権の顔」、「党の顔」を総理大臣に次いで党内ナンバー2の要職とされ党務を掌握する役職にはあるとは言うものの、国の政策をリーダーとして担うわけではない幹事長に託すのは主体性の放棄と言われても仕方があるまい。福田首相の「顔」ではもはや内閣支持率を上げることも選挙を戦うこともできないと宣言したようなものではないか。死に体内閣のカンフル剤とでも表現したいが、果してカンフル剤となり得るかどうかである。
「政権の顔」、「党の顔」の麻生への譲渡は政権のトップを福田首相に据えたまま密かに主役交代を行うといった矛盾行為を孕んだ主体性の放棄でもある。
また麻生の人気を「国民的人気」と持ち上げるマスメディアがあるが、「国民的」とは老若男女、性別を問わず、年齢及び世代を問わない国民全体に関わる様を言うのであって、アキバ系、あるいはマンガおたくといった若者層に限った反応を言うはずはない。確かに自民党本部前に300人もの若者が押し寄せ、昼頃から午後の4時頃まで「YES! 麻生」のプラカードを持って「麻生! 麻生! 麻生!」と連呼する姿は今までになかった驚きを誘う貴重な場面ではあろうが、それをさも国民全体に亘った現象であるかのように露出させ、社会現象であるかのように流布させるのは特にテレビが抱える悪しきセンセーショナリズムの表れであろう。
あのときの熱狂を今以て維持しているアキバ系・おたく若者がどれ程いるだろうか。総裁にならなくてよかったのではないか。なっていたとしたら福田首相同様に今頃堕ちた偶像となって泥まみれになっているだろうから。
小泉の規制緩和一辺倒政策、過度の経済合理主義が負の面として遺し、時間の経過と共に深刻化していった派遣、フリーター、ワーキングプアといった若者に振りかかった社会的な雇用矛盾は同じ自民党の一味として加担した限界から麻生太郎にも押しとどめめようがなかったろうし、若者たちを熱狂の世界から否応もなしに現実に引き戻していたに違いない。
小泉内閣のもと、総務大臣と外務大臣を歴任、安倍改造内閣で党幹事長を勤めて自民党政治の空気を肺の底までどっぷりと吸ってきた事実は誰にも棚上げできまい。その事実を無視して、もしも雇用矛盾に縁のないアキバ系、マンガおたくたちだけがワーキングプアの氷山に閉じ込められた若者を他処に再度「YES! 麻生」のプラカードを手に「麻生! 麻生! 麻生!」の疲れを知らないエールの連呼を打ち上げ、麻生との連帯を演出したとしたら、異常な上、馬鹿げた光景となるに違いない。
例え若者にどのように人気があろうと、それを「国民的人気」だとマスコミがどのように持ち上げようとも、合理的客観性・合理的認識性の欠如は如何ともし難い麻生の思想上の欠陥のようである。そのことは過去の言動が証明している。
いや、自民党本部前に集まって「麻生! 麻生!」と連呼する300人の若者を前にして単純に感激したこと自体が麻生の合理的客観性・合理的認識性の欠如を十二分に物語っている。もしそういった能力を備えていたなら、彼らのエールに手を上げてにこやかに応えながらも単純に感激などせず、この人気は次の総裁選まで続くだろうか。維持するにはどうしたらいいのだろうか。総裁選の投票権を持たない彼らの人気を総裁選の一票につなげるにはどうしたらいいだろうかと考えを巡らせたに違いない。
過去の言動から麻生太郎の合理的客観性・合理的認識性の欠如を見てみると、2006年1月28日に名古屋で行われた公明党議員の会合で、「英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのであり、首相万歳と言ったのはゼロだ。天皇陛下が参拝なさるのが一番だ」が最たる証明となる。
戦前の天皇は国民に対しては神聖にして侵すべからず存在として大日本帝国に君臨した絶対統治者であり、陸海軍を統帥する絶対権力者であって、首相の権力などその比ではなかった。唯一その絶対権力ゆえに国民は戦争に於いては「天皇陛下バンザイ」の教育を受け、その具体化が生きて虜囚の辱めを受けずの死を賭した玉砕行為であったのであり、コロコロ代わる首相バンザイなどあり得るはずもなく、あり得るはずもなかった「首相万歳」を持ち出して「天皇万歳」と比較すること自体が麻生に於いては合理的客観性・合理的認識性の欠如発揮の最たる場面であろう。
もしかしたら日本は首相がコロコロ代わるから、日本民族優越性の証明以外に万世一系という長期性を政治制度上の背景として現在も必要としているのかもしれない。
麻生の「英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのだから、天皇陛下が参拝するのが一番だ」は「天皇陛下万歳」の肯定であり、戦前の肯定を意味する。このことによって麻生太郎は安倍晋三国家主義者と同類であり、国家主義的兄弟だと看做すことができる。
こういったことを理解できないアキバ系、マンガおたくの若者だけが単細胞にも「麻生! 麻生!」と熱狂できる。
総務大臣在任中の2005年10月15日に九州国立博物館の開館記念式典での来賓祝辞の中で「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」(Wikipedia)と日本の国を誇ることができたのも合理的客観性・合理的認識性の欠如が幸いした発言と言える。
弥生時代から飛鳥時代の中頃にかけて中国や朝鮮半島から大量の移民があっただけではなく、文字のなかった日本人は中国から文字を貰い、コメは日本の文化だと言いつつ、水耕による稲作は大陸からの移入技術であって、その他の鉄製技術や銅製技術、製陶技術も中国・朝鮮から受け継ぎ、国を成り立たせる制度も中国の制度の引き写しで、大陸人と同じ皮膚の色、同じ髪の色、同じ顔かたちと元々近親性があったから目立たないものの、国の成り立ちの出発点に於いては混血文化、混血文明、混血民族、混血言語によって日本は歴史を刻んできた。
そして明治維新になって民族と言語を除いて大幅な変革を伴う文化、文明、国づくりの制度・技術をかつての大陸から欧米に変えて引き写し、近代化を進めてきたのである。
一見「一文化、一文明、一民族、一言語の国」らしくは見えるが、日本の歴史を仔細に眺めると、日本が「一文化、一文明、一民族、一言語の国」だという言葉はどこを探しても出てこないはずだが、優越民族意識の熱病に罹っているからこその誇りではあったとしても、そのような熱病に罹ること自体が合理的客観性・合理的認識性の欠如を素地としていることの証明としかなり得ない。
例えらしくは見える麻生の「一文化、一文明、一民族、一言語」だったとしても、そのことが自らが仕掛けた中国侵略にしても太平洋戦争にしても役に立ったとでも言うのだろうか。戦後の国づくりに於いて、特に現在の持てる者と持たざる物の二極化を加速させている社会の矛盾に抗して公平・公正な社会の構築に役に立っているとでも言うのだろうか。
真に価値あることは「一文化、一文明、一民族、一言語」といったことではなく、人種・国籍に関係ない責任感であろう。それぞれの立場にある者が立場に応じて担うこととなった責任を果たそうとする責任感の有無が多くを決定する。
「一文化、一文明、一民族、一言語」であるかどうかが責任感をつくり出してくれるわけではない。そのことは公平・公正な社会の構築に反した今の日本の偽装と欺瞞に満ちた社会を見れば一目瞭然ではないか。産地偽装、原料偽装、官民談合、教師採用試験の採点偽装、カルテルを手段とした価格偽装、医療機関の診療報酬を偽装した不正請求、介護施設の介護報酬を偽装した不正請求、政治家・官僚の族益・省益に立った責任感を忘れた欺瞞行為等々、例を挙げたらキリがない。
かつて野中広務が被差別出身者であることを理由に「野中のような出身者を日本の総理にできない」と発言したということだが、「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」とする優越民族意識が可能とした差別発言であろう。「一民族」と言いつつ、同じ民族の中に人間差別を設ける。自民族を優越的に上に置く人間は自己をも優越的人間として上に置く。自分の民族が優れているという思い込みは自分という人間が優れているという思い込みを伴って初めて成立するからだ。
その思い込みたるや、合理的客観性・合理的認識性の欠如の産物なのは断るまでもない。当然のこととして優越的存在を優越的存在たらしめるためにその対極に劣後的存在を置くことになる。日本民族優越性の対極に黒人等に対する有色人蔑視を成り立たせているように。同じ日本人の中でも天皇や政治家、官僚、大学教授等の著名人、由緒ある企業人を上に置き、下に単純労働者やワーキングプア、ホームレスを置く差別を行う。
こういった程度の低い軽薄短小な人間が再び自民党幹事長の重職を担い、総理・総裁を再度狙う。日本が人権後進国、民主主義後進国だからデザイン可能な場面展開であるに違いない。
例え次回の総選挙で与党が勝利したとしても、前回の小泉郵政選挙程の大勝利は予想困難で伯仲に近い状態での勝利であったなら、参議院与野党逆転の状況を引きずっていることに変化はなく、例え衆議院の議席が直近の民意だと言い立てたとしても、参議院の結果が直近の民意だとする民主党以下の野党の言葉を無視した手前もあって、その言葉に力を持たせることはできないだろうから、福田政権が続くとしてもジリ貧状態に変化はなく、逆に選挙に敗れて麻生に総裁交代と言うことなら、安倍が遺して福田政権が受け継いだ貧乏クジは総理大臣になれないまま麻生の手に渡り、捨てる術もなく後生大事に守ることになるだろう。
貧乏クジ拝領のスタート地点となるかどうかの麻生幹事長就任である。