自民党の麻生太郎幹事長が4日の日江田五月参院議長に就任の挨拶に訪れた際、「民主党が政権を取るつもりなら、ちゃんと対応してもらわないといけない。ナチスドイツも国民がいっぺんやらせてみようということでああなった」(「毎日jp」記事)と忠告(警告?)したと言う。
親切心からの忠告でないことだけは確かである。
この言葉を忠実に読み解くとすると、民主党がちゃんと対応しないままでいたなら、「国民がいっぺんやらせてみようということで」政権を取らせた場合、日本はナチスドイツの二の舞となりかねない、ということであろう。
麻生の釈明。
「民主党とナチスを一緒にしたわけじゃない。審議することが大事だという話をしただけだ」(「西日本新聞」インターネット記事)
要するに「ちゃんと対応してもらわないといけない」とは、「ちゃんと審議に応ずること」を求めた意味となる。
ではなぜちゃんと審議に応じない民主党を国民がいっぺんやらせて見ようと言うことで政権を取らせたなら、日本はナチスドイツの二の舞となると言えるのだろうか。
そこの説明がない。ないから釈明不足のままで終わっている。と言うよりも、きちんと釈明できないのだろう。
なぜかと言うと、麻生太郎は審議に応じないことを以ってナチスドイツ化の唯一の根拠と看做し、審議に応じない政党が政権を取った場合、ナチスドイツの二の舞となると言っているのだから。
ちょっとどころか、かなり乱暴な根拠付けであり、乱暴な解釈となっていないだろうか。
この手の理解は2003年に東京大学学園祭での講演で「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と言ったのと同じく論理的な脈絡を一切欠いた短絡思考からの結論付けと同質のものだろ負う。
「Wikipedia」の「麻生太郎」の項目に「創氏改名は朝鮮人が望んだ」は「満州や日本国内で経済活動をする上で朝鮮名が不利な場合があったという文脈での発言」だと解説がしてあったが、「創氏改名」そのものは植民地支配の皇民化を目的とした法令化であり、改名しない者には公的機関に採用しない、食糧の配給対象から除外するといった、いわば改名に応じない場合は飢えることを覚悟しなければならない兵糧攻めで強制したことが始まりであって、満州や日本国内で朝鮮名が不利で自ら日本名を名乗ったのは差別や蔑視を受けた反応であって、決して「望んだ」のではなく、「望まされた」が実態であろう。
いわば少しでも差別や蔑視から逃れたい、朝鮮人であることを隠したい思いが選択させた日本名(麻生の言う「創氏改名」)であろう。
麻生の「創氏改名」発言は戦前の日本を正義の立場に置こうとする意味合いの発言であり、民主党政権になった場合の日本のナチスドイツ化発言は自民党政権を正義の立場に置こうとする意図を持った発言と看做すことができる。
ヒトラーはその弁舌でユダヤ人を劣る民族とすることでドイツ人の敵と位置づけ、翻ってドイツ人自身を優秀な民族と思わせ、そのアイデンティティーの統一に成功、大衆動員を思いのままにした。
この構図は善か悪か、肯定か否定かは政策で闘わせるべきを、そのこととは無関係に民主党が政権を取った場合の日本のナチスドイツ化を思わせることで国民を民主党否定に向かわせ、翻って自民党を間違いない政党だと思わせて国民をそこに導こうとする単純形式な善悪二元論と本質的には同じ姿を取っていると言える。
大体が単純・単細胞な結論付けが大好きな我が麻生太郎なのである。
論理的な判断能力には疎く、単純な思考しかできないにも関わらず、そのような論理性を巧妙に隠すに余りある弁舌の巧みさを持ち、尚且つ権力欲に長けた人間は危険である。ひとたび権力を握ると、ヒトラーのように論理的な判断能力を欠いたまま、単純な思考で仕立てた政策を巧みな弁舌で国民に押し付けることになるからだ。
若者主体の漫画文化やサブカルチャーのよき理解者を装った上に福田首相との総裁選の最中秋葉原で街頭演説、「秋葉原じゃあ、結構評判がいいみたいですが、キャラが立ちすぎるらしくて永田町の古い古い自民党にゃあ、あんまりウケが良くない麻生太郎です」と「古い自民党」の嫌われ者を演じることで逆に秋葉原の若者の受けを狙う自己紹介を行って拍手喝采、麻生コールを誘い出し、おたくと言われる若者の教祖と祭り上げられる弁舌の巧みさはヒトラーの大衆動員に劣らない弁舌の巧みさであろう。
民主党政権下の日本をナチスドイツになぞらえるよりも、自己の巧みな弁舌をヒトラー張りの演説に譬えるべき麻生太郎であろう。
もしかしたら若者を巧みに惹きつけることができる自分の弁舌をヒトラー張りの名演説と自ら酔い痴れていて、その意識があったから、つい民主党をナチスドイツになぞらえてしまったと疑えないこともない。
麻生は殊更に柄の悪い言葉遣いをするが、思考そのもの、解釈そのものが品がない。それらの品の悪さがそのまま言葉の柄の悪さとなって現れている。人間そのものが品がなく仕上がっているからなのではないか。