永世死刑執行人」、もしくは「死神」と名誉の称号を戴いた鳩山法相に代わって福田改造内閣で新法相に就任した保岡興治が初閣議後の記者会見で「希望のない残酷な刑は日本の文化になじまない」として終身刑の創設に否定的な考えを示したと8月3日(08年)の「毎日jp」記事(≪終身刑:保岡法相、導入否定的 「希望がなく残酷」「日本の恥の文化になじまぬ」≫)が伝えている。
記事は終身刑がなぜ「「希望のない残酷な刑」なのかの保岡の説明は伝えていない。
こうは言っている。「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」と。その上で、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」
記事は終身刑について、<超党派の国会議員でつくる「量刑制度を考える超党派の会」が5月、死刑と無期懲役刑のギャップを埋める刑として導入を目指すことを確認している。>と解説、保岡自身に関しては<00年7~12月の第2次森内閣でも法相を務め、在任中の死刑執行は3人だった。>と補足説明している。
因みに「永世死刑執行人」、もしくは「死神」の名誉称号を戴いた鳩山邦夫前法務大臣は2007年8月27日の安倍改造内閣で法務大臣に就任、福田内閣で留任、8月1日の内閣改造で保岡と交代するまで約11ヶ月の在任中、4回に亘って1993年3月の死刑執行再開以降の法相では(Wikipedia)歴代1位の計13人の死刑執行にサインしている。
死刑や終身刑が「残酷」だとしても、罪を犯した者にのみ降りかかる代償作用としての「残酷」さであって、殺人被害者や生涯に亘ってその家族・近親者にまで殺人被害の代償作用として降りかかる「残酷」さとは別物である。
「潔く死をもって償う」とは、自ら進んでという自発性を責任行為に於ける基本姿勢としているということであろう。自発的でなければ、「潔く」とはならない。
日本人が自らが犯した重大犯罪を自ら進んで「死をもって償う」程に「潔」く、それが日本の「恥の文化」に関わる行動価値観だと言うなら、その「潔」さは日本人の行為全般に亘って発揮される自発的な責任意識でなければならない。
だとしたら、「潔」いとする日本人の自発的な責任意識に反する自発性のカケラもない政治家・官僚の責任感のなさ、責任意識の欠如はどう説明したらいいのだろうか。
自分が関わった事柄及び行為から生じた結果に対して責めを負うことも「責任」と言うが、自己に与えられた役割を全うすることも「責任」と言う。政治家の責任・官僚の責任とは基本的には後者の「責任」を言うはずである。
不作為や怠慢を原因として役割を全うする責任すら果たさず、そのことによって生じた社会的不公正や矛盾といった結果に対して責めを負う「責任」も果たさない。
自己に与えられた役割を全うする「責任」を果たしたとき、役割の結果に対する「責任」(=責め)とは距離を置くことができる。自己に与えられた役割を全うする「責任」を果たさなかったとき、その結果に対する「責任」(=責め)が生じる。
そのときどう責任を取るか(どう責めを負うか)によって、その人間の結果責任に対する態度が「潔」いかどうかが計られる。安倍前首相はいくら体調を崩したとはいえ、政権をいきなり投げ出しておきながら、何ら責任を取らず、今以て国会議員の職にしがみついていることなどは「潔」い責任態度の例に入れることは不可能だろう。
死刑は殺人以上の罪を犯した者を対象とした刑罰である。果して殺人行為は社会人としてそれ相応に担わされていた役割の内に数えることができるだろうか。親が子供を殺す。逆に子供が親を殺す。カネを奪う目的で殺人まで犯してしまう。どのように理由があろうと、社会の一員として、あるいは人間としてそれぞれに担っているそれぞれの役割とは無関係の、そのことに反する行為であろう。
人間に与えられた基本的な責任はあくまでも自らに与えられた役割を全うすることであり、そのような生き方を基本的な生存形式としなければならない。
殺人が社会人として、あるいは人間として与えられた役割を全うする責任を放棄した行為であり、そうである以上、その責めを負う責任は生じるが、社会人としての、あるいは人間としての役割を全うするという基本的な生存形式を自ら破っているのである、その結果としての死刑という責任を負うについて、「潔」いとか「潔」くないとかの価値観で計ることができるのだろうか。
そういった価値観で図ることができるとしたなら、2001年6月8日の児童8名を殺害し、児童13名・教諭2名に傷害を負わせた大阪教育大学附属池田小学校無差別殺人事件の加害者に対する一審判決は死刑、弁護団が控訴したが、被告本人が控訴を取り下げて死刑が確定、2004年9月14日に大阪拘置所で死刑が執行された宅間守などは保岡の主張からしたら、「日本は恥の文化」を物の見事に体現して「潔く死をもって償」ったと言える誉むべき代表的な日本人に挙げることができるだろう。
果してそうだと言えるだろうか。
どんなに苦しくても、どのように困難に遭遇していようとも、基本的な生存形式を曲りなりに守り通す生き方をこそ、「潔」いとか「潔」くないとかの価値観で計るべきではないだろうか。
大体が「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償う」が事実なら、一審の死刑判決に対して「刑が重すぎる」とする控訴・上告といった審理やり直しの訴訟手続きは存在しないはずである。すべて一審で片付く。
坂本弁護士一家殺人と同僚信徒殺害容疑で一審で死刑判決を受けたが、減刑対象となる自首を理由に高等裁判所に控訴するも、罪の意識からの自首ではなく、教団から身を守る保身からの自首とされて減刑を認めず控訴棄却、最高裁に上告、再度棄却されて2005年4月7日、元オウム信徒岡崎一明は死刑が確定している。
最高裁に上告中だった岡崎一明の心境を05年2月18日の朝日新聞朝刊が伝えている。
「どれくらい時間が残っているか分からないが、麻原の過ち、オウムの過ちを指摘し、まだいる教団の信徒を目覚めさせたい。それが私の償いだ」
「真理を探究する多くの者が、偽者とは気づかずに別の足跡を追って道を踏み外し、最悪の場合、人生を棒に振ることもある」
「大切なのは宗旨や教義ではない。トップやリーダーの人間性だ」
自らを「真理を探究する多くの者」の内の一人と価値づけることから抜け出せず、そのことが原因してのことなのだろう、麻原彰晃を絶対権威として崇め尊び、その指示を絶対正義と疑わずに無条件、且つ有り難く承って全行動を決定してきた愚かしいばかりの自らの権威主義的行動様式を責め、反省する責任意識からの言葉はなく、弁明とすべてを麻原一人に責任転嫁する麻原非難の言葉のみしか見受けることは不可能で、到底「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償う」とは言えない岡崎一明の態度であろう。
殆どの場合、一審で死刑判決を受けた者は「刑が重過ぎる」と最高裁まで争う。そのプロセスからはオウム信徒岡崎一明と同様、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償う」といった自発的受容を価値観とした行動性を窺うことはできない。裁判所の刑の確定に受動的に従う他律的受容を基準とした価値観のみしか見ることができない。
それをさも死刑囚のすべてが「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償う」ことを責任の方法としているかのように言い、そのような責任方法をさも「多くの国民が支持している」かのように美しく仕立てる。
ここには日本民族優越意識があるが、そのことをも含めて、人間の現実の姿を見る目を持たないからこそ言える奇麗事であろう。客観的判断能力が粗末にできているからこそ言える空言に過ぎない。
大体が「恥の文化」とは社会の一員として、あるいは人間として課せられた役割を果たす「責任」行為を遂行する上で社会の規範に合わせて「すべきこと・すべきではないこと」を基準に自らの行動を決定する自律的行動形態を言う文化ではなく、こうすると他人がどう見るか、世間は何と思うかといった他者の価値評価を基準に自己の行動を決定する非自律的行動性を言う文化であって、そこから日本人は「自立していない」とか「横並び行動」とか言われているのであって、決して誇っていい「恥の文化」というわけではない。
終身刑にしても中には死刑にならないことを計算して殺人行為に走る者も出てくることも考えられるし、いつ死刑が執行されるか怯えることもない生命の保証及び収入に対する不安を持たずに済む衣食住の保証を受けて人間が環境の生きものであることを発揮して生活上の不自由を凌ぐ有利な条件に変え、終身刑の生活に慣れる者も相当数出てくることも考えると、終身刑を「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑」だと一概に断定することはできないわけで、それをさも「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑」だと固定的に価値づけ、断定できるのはやはり客観的判断能力の欠如の賜物であろう。単細胞だから言える言葉だと言うわけである。
また「真っ暗なトンネル」は終身刑や死刑の世界だけに存在する生活状況ではなく、現実の社会、シャバにも存在する生活状況であって、法務大臣だから管轄外だと放置してもいい人権問題ではないはずである。
就職氷河期に社会に出て満足な就職にありつけずフリーター化して十分な収入の保証もないまま結婚もできず、そこから抜け出せないままに30代40代にもなってフリーター生活を引きずらざるを得ない者が07年で38万人(35歳~44歳)にも存在すると言う。
彼らや25歳~34歳で07年で92万人いるフリーター、あるいは15歳~24歳で89万人いるフリーターの中には「真っ暗なトンネルをただ歩いてい」といった生活を送っている者が一人として存在しないと断言できるだろうか。政治家である以上人間存在の全般に亘って目を向けるべきであり、目を向け得たとき人間の現実の姿を理解する眼を養うことができ、養うことによって客観的判断能力の欠如に距離をを置くことが可能となる。
人間の現実の姿を洞察する判断能力もない単細胞の政治家が法務大臣を努める。この滑稽で倒錯的なパラドックスは日本の政治家だから許されるのか、奇麗事を言う才能に長けた政治家こそが大臣として出世できる土壌が日本にはあるからなのか。
そうであるとしたら、首相の任命責任外の人事ということになる。