心愛さん虐待死は父親を直接的な加害者とし、大人としての責任不履行の母親や児相・市教育委・学校教師による共同殺人そのもの

2019-02-05 13:46:35 | 事件
 

 安倍晋三:2019年1月28日通常国会施政方針演説

 「五年連続で今世紀最高水準の賃上げが行われました」

 「今世紀最高水準賃上げ」結果のアベノミクス成果とは経済界の尻を叩いて賃上げさせ、実感なき景気を実現させたことを言う。
 統計不正で実質賃金下げとなったら、その可能性大だが、見た目は堂々のハリボテ景気そのもの。


 2019年1月24日、千葉県野田市立小4年生10歳の栗原心愛(みあ)さんが自宅浴室で父親に殺害された。傷害容疑で逮捕された父親は「当日の午前10時から生活態度のしつけをした。抵抗されたので、浴室で冷水のシャワーをかけたら様子が急変した」と警察に対して供述したと言う。その後の取調べで継続的な虐待が判明した。

 安倍晋三が2019年1月28日の通常国会施政方針演説で、虐待から「子どもたちの命を守るのは、私たち大人全員の責任です」と宣(のたまわ)った。では、安倍晋三自身が一国の首相としてその責任をどれ程に心に留どめていたかと言うと、演説で例に上げた虐待死が約1年前の2018年3月2日の父親の継続的な暴行を受け、搬送先の病院で5歳の幼さで死亡した少女の例であって、4日前の事件ではなかった。

 いわば4日前に継続的に繰り返されている悲劇が既に起きているにも関わらず、約1年前の例を取り上げて、「あのような悲劇を二度と繰り返してはなりません」などと、跡を絶たない継続性を無視できる神経から見た責任感は薄っぺらさしか見えてこない。

 いずれにしても「子どもたちの命を守るのは、私たち大人全員の責任」であるなら、再び虐待死が起き以上、周囲の大人たちが自らに与えられている責任を与えられたとおりに果たさなかったことになる。大人の立場からの責任の履行という観点から、今回の虐待死をマスコミ報道に頼って見ることにする。

 父親は約10年前、沖縄出身の母親と結婚、沖縄に在住。心愛さんが生まれた数年後に一度離婚、2017年頃に再婚。その頃から母親は父親から家庭内暴力(DV)を受けているとの情報が行政に寄せられていた。

 2017年7月、母親の親族から在住地の沖縄県糸満市に「妻が夫から暴力を受けている。子ども(心愛さん)も恫喝)されている」と相談があった。内容は母親が殴られたり、叩かれたりの暴行や、「お前は無能だ。何もできないバカだ」といった暴言を受けているというものや親族や友人との連絡を禁じられているというものだった。

 電話やお金の使い方も細かく管理されていた。糸満市は母親への聞き取りを試みたが、次女(1)が低体重で生まれた後の入院で、DVの有無を確認できなかった。その後、一家は糸満市から千葉県野田市に引っ越す。

 父親は約10年程度の離婚期間後の再婚の頃から母親への家庭内暴力が始まった。離婚期間内の妻の男関係を疑っての家庭内暴力の可能性が高い。その間、妻は離婚した夫に対して何の義理立てもなく、夫は手が届かなくなった存在の行動を縛るどのような権利も持たない。児童相談所には児童、保護者等に対して心理療法、カウンセリング等の指導を行う心理療法担当の職員を置いているそうだが、市が女性から家庭内暴力の相談を受けた場合、その夫に対してカウンセリングを行ない得る心理療法士を適宜手配できる体制を整えて置くべきだろう。

 勿論、全てに役立つ保証はないが、力だけは尽くすべきだろう。

 いずれにしても糸満市は相談に訪れた母親の親族の情報源は妻からと考えるべきで、確認のために親族に情報源を問うか、そう考えなかったとしても、情報源を尋ねることを手続き上の義務としなければれならなかった。

 ところが、糸満市は母親への聞き取りを試みたが、次女(1)が低体重で生まれた後の入院で、DVの有無を確認できなかった――としても、聞き取り可能な別の機会を設けて、DVなのか、DVでないのか、明確に確認すべきだった。

 勿論、母親の親族が母親に直接的に頼まれたわけではなく、察して市に相談したということもある。どちらの事例であっても、市の母親への聞き取りの結果、市が父親と接触することになった場合に母親への聞き取りが知られることを恐れて、母親がDVを隠すということもある。

 当然、一度でDVが確認できなかったからと言って、それだけで片付けてしまうのではなく、市が市民を守る義務を負っている以上、様々な事例を考えて、警察が行う自宅周辺への聞き込み等まで行なって、DVの有無いずれかを明確にするところにまで踏み込まなければならなかった。

 ところが、DVが行なわれているとも確認できず、行なわれていないとも確認できない不明確な結果に終わることになった聞き取りを試みたでけで、幕引きを行っている。

 糸満市の職員は大人としての責任を誰一人満足に果たさなかった。このことが父親の10歳の自分の娘に対する虐待とその結果のその子の虐待死の一つの遠因となっている可能性は決して否定できない。

 2017年に10歳の女の子は小学校の担任に「父からいじめを受けている」と自ら相談した。小学校の聞き取りに対して「お父さんから背中や首を叩かれたり、顔をグーで叩かれたことがある。『てめえ早く宿題をやれよ』と言われたこともある」と訴えたという。

 小学校は野田市に相談したのか、市の担当部署が柏児童相談所に虐待の疑いがあると連絡、一昨年―2017年11月から12月にかけて心愛さんを一時保護した。その際、心愛さんの右頬にあざがあり「夜、お母さんがいない時にたたかれることがある。優しい時もあるが怒るとこわい」と話していた。

 柏児童相談所は一時保護の期間中、両親と8回に亘って面談。父親は「咳き込んだときに抱きかかえるなどしたことはあるが虐待は思い当たらない」と話した。

 児童相談所は10歳の女の子の全身を右頬のあざ以外に虐待の痕跡があるかどうか調べたのだろうか。例え一時保護の際には右頬のあざ以外に虐待の痕跡が確認できなかったとしても、右頬のあざと父親の「虐待は思い当たらない」との釈明との食い違いをどう解釈したのだろうか。10歳の女の子の言い分を事実と見たのか、父親の釈明を事実でないと見たのか、あるいは逆に娘の言い分を事実でないと見て、父親の釈明を事実と見たのか。

 この際、母親も父親からDVを受けていたから、下手なことは口にできない制約下にあって、当たり障りのないことしか話さなかった可能性がある。児相はこういった母親の状況や心理をも観察して、虐待の有無の判断材料にしなければならない。

 児童相談所が記者会見で「虐待は思い当たらない」とした父親の釈明を紹介したことと、2017年11月に保護して状況が改善されたとの理由で1ヶ月後の12月に保護を解除したところを見ると、父親の釈明により正当性を置いていたことを窺うことができる。

 心愛さんは保護解除後、一旦親族の家で暮らし、去年3月から両親の元に戻された。但し児童相談所は通っている学校に虐待の兆候がないか様子を観察するよう求めたものの、自宅訪問は一度もせず、両親との面談も行っていなかった。もし10歳の女の子の言い分により正当性を置く解釈を施していたなら、保護解除後の自宅訪問なし、面談なしで済ますことができただろうか。

 もしできたとしたら、児童相談所の職員を廃業した方がいい。

 また、児童相談所であるなら、子どもに対する虐待にしても、妻に対する虐待にしても、両者に対して自身を支配者とすることができる快適さ――自身を偉大な人間とすることができる快適さが習慣性を与え、一時的な改善が当てにならない、再発しやすいということに留意しなければならない。

 このことに留意していたなら、一時保護解除後の対応も自ずと違ってくるが、留意したと窺うことができる対応を見ることはできない。

 柏児童相談所の二瓶一嗣所長が記者会見で次のように述べている。

 「一時保護を解除したことはその時点では妥当な判断だと思っているが、子どもの命を守ることを使命としているので、お亡くなりになったことは断腸の思いだ。変化に気付くための対応が不足していた」(NHK NEWS WEB

 すべきことをせずに、「変化に気付くための対応が不足していた」とは物は言いようである。一時保護解除を妥当な判断とした。そしてそのような判断を導き出すことになる前段階での様々な場面での様々な解釈如何によって、その後の対応が不足したり、十分であったりする。

 つまり妥当な判断としたことにその後の対応を全て寄りかからせてはならないということである。寄りかからせることができるなら、この世に万が一という事態は存在しないことになる。

 妥当な判断を導き出すことになる前段階での様々な解釈にしても、常に正しいという保証はない。そのような不確かさに基づいてその後の対応を決めなければならなかったのだが、そうしなかった。再発の可能性への留意もなかった。

 児童相談所にしても、役目として負っている大人としての責任を満足に果たしていなかった。
 2019年1月に入って、父親は学校に対し「娘は妻の実家がある沖縄に行っていて、1月一杯は休ませる」と連絡、心愛さんはそのとおりに学校を欠席することになった。学校は父親の虐待歴を考えずに、また、虐待というものの習慣性も考えずに素直に父親の申し出を受入れ、沖縄の親戚に確認することもしなかった。

 このとき確認していたなら、救えた命となっていた可能性は出てくる。危機管理は常に最悪の事態の想定をスタートとしなければならない。

 心愛さんが学校を休んでいる間、隣のアパートに住む40代の女性が「ほぼ毎日のように女の子の泣き声と、男性の『うるさいんだよお前は』といった声が聞こえていましたが、ここ2週間ほどはその回数が増えて、声も大きくなった気がしました。怖さもあって、何もすることができず心苦しいです」(NHK NEWS WEB)と証言しているという。

 ある児童に対する虐待の疑いが出てきたとき、その習慣性を考慮して、児童相談所の対応だけではなく、警察は隣近所の住人をより確かな情報源として確保、聞き込み等の接触を図った場合は虐待加害者に見咎められ、一悶着を起こされかねない危険性から、電話連絡で秘密裏に情報収集を図る必要があるのではないだろうか。
 少なくとも今回の場合はそのような措置を取っていなかった。
 心愛さん死亡確認の1月24日の2日後の1月26日に小学校では保護者会が開かれ、その後、校長が記者会見に応じている。
 「心愛さんは非常に頑張り屋で学級委員長を務めていました。誰とでも仲よく付き合って、とても笑顔が優しい印象を持っています。毎朝、登校してきた時に元気にあいさつをしてくれました。大切な子どもの命が奪われ悲しい気持ちでいっぱいです」(NHK NEWS WEB

 学校自体が学校社会に生きる大人としての責任を果たしてもいないのに「大切な子どもの命が奪われ悲しい気持ちでいっぱいです」と言うことができる。

 小学校では2017年11月にいじめに関するアンケートが行なわれた。アンケート上部欄外には「このアンケートは、みなさんが、いじめのないたのしいがっこうせいかつができるようにするためのものです。ひみつをまもりますので、しょうじきにこたえてください」と記されているという。

 それから約3ヶ月後の一時保護解除後の昨年―2018年1月、父親が小学校を訪れ「娘に暴力は振るっていない」とか「人の子どもを一時保護といって勝手に連れて行くのはおかしい」などと抗議した。

 と言うことは、学校が父親にアンケートのことを知らせたか、学校が児相に連絡、児相が父親に知らせたか、いずれかでなければ、アンケートのことを知りようがない。
 
 父親は抗議のあと、アンケートの回答を見せるよう強く要求した。学校は「個人情報なので本人の同意もない中、父親でも見せることはできない」と拒否。

 3日後に父親が心愛さんの同意を取ったとする書類を持って市の教育委員会を訪れた。教育委員会がアンケートのコピーを渡したのは同意書があるということではなかった。児童相談所にも渡すことについて相談もしていなかった。

 2019年1月31日の記者会見で次のように述べている。NHK NEWS WEBの動画から。

 担当者1「誠に申し訳ございませんでした。アンケート結果を見せろ、閲覧させろ、コピーを写せというような要求がありました。学校の先生、教育委員会の職員とも、父の威圧的で執拗な態度に恐怖を感じた」

 担当者2「正しいのかという部分も迷いながら、最終的に要求に屈してしまった。危機感というところまでは至ってなかっと記憶しています。心に引っかかりながら、仕方なく渡してしまったと記憶しております」

 担当者1は「恐怖を感じた」中に自分たちだけではなく、学校の先生まで入れている。市教委は大抵市役所や区役所内にあって、学校とは場所を別にしている。学校の先生まで加えることで、自分達の罪を薄める薄汚い心理が働いた可能性を疑うことができる。

 担当者2が言っている「危機感というところまでは至ってなかっと記憶しています」は、虐待死に至るところまでの危機感は考えなかったということだろう。だが、父親が市教委を訪れたのは2018年1月である。それから父親に殺されるまでの約1年間、何の手も打っていなかった。この大人としての責任の欠如は底なしで、如何ともし難く、大人であることの資格を失う。

 いくら娘の同意書を持っていても、アンケートの写しを見せろと要求すること自体、それが紳士的な態度を以ってして行なわれたとしても異常であるのに、相手に恐怖心を抱かせる程の恫喝的な態度を取った。

 つまり父親はアンケートに自分に都合のいいことは書いてないことを察していた。その内心の怒りが恫喝的な態度となって現われ、写しを見せた場合の父親の娘に向かう怒りとなり、暴力となることを考えなかったとしたら、その感性や想像力は大人の資格を失うだけではなく、教育行政を担う資格を失う。

 昨日―1月4日、父親の虐待を止めなかったとして母親が傷害の疑いで県警に逮捕されたという。

 つまり母親も大人としての責任を自ら考えず、自ら果たすこともしなかった。

 警察が傍観の罪として逮捕するなら、虐待防止法に強姦罪ならぬ傍観罪を設けるべきであろう。近親者だけではなく、学校教師や児童相談所職員も、深刻に捉えず、満足な対応を取らずに子どもを死なせてしまった場合、傍観罪に問われる可能性も出てくる。

 千葉県野田市小4女子児童虐待死は父親を直接的な加害者とし、大人としての責任は果たさなかった母親や児相・市教育委・学校教師による共同殺人そのものである。

 心愛さんは自己主張のしっかりした生まれつきを持っているようだ。自己主張が強いということではない。強いだけと言うと、義務は満足に果たしていないことになる。自己主張がしっかりとしているから、学校のアンケートが無記名であっても、自分の名前を書き、学校に虐待を訴えることができた。

 自己主張が娘よりも劣るゆえに、勤め先では何も自己主張できないのだろう、娘の生まれつきの自己主張に嫉妬し、嫌い、虐待となって現われたのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍晋三の児童虐待死の「悲劇を二度と繰り返してはなりません」と言うことができる児童の命に対する感性・想像力の薄っぺらさ

2019-02-04 11:48:40 | 政治
 

 安倍晋三:2019年1月28日通常国会施政方針演説
 「五年連続で今世紀最高水準の賃上げが行われました」
 「今世紀最高水準賃上げ」結果のアベノミクス成果とは経済界の尻を叩いて賃上げさせ、実感なき景気を実現させたことを言う。
 統計不正で実質賃金下げとなったら、その可能性大だが、見た目は堂々のハリボテ景気そのもの。


 【お断り】一昨日―2019年2月2日のブログ、《天皇絶対主義制下の遺物元号制度は日本国憲に反しているか、少なくとも憲法に抵触、その精神に違反 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で少々言葉足らずであったために以下の趣旨で加筆しておきました。

 〈戦前の大日本国憲法は「第1章天皇 第1条」で、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としていて、天皇を主権者と位置づけていた。だから、天皇の御代(=天皇の治世)を表す元号は許されるが、日本国憲法下で国民主権となりながら、戦後も天皇の時代を表すことになっている元号制度を存続させているのは戦前の遺物であって、憲法違反か、憲法に抵触することになる。〉

 2019年1月24日、千葉県野田市立小4年10歳の栗原心愛(みあ)さんが自宅浴室で父親に殺害された。父親は「当日の午前10時から生活態度のしつけをした。抵抗されたので、浴室で冷水のシャワーをかけたら様子が急変した」と警察に対して供述したと言う。その後の取調べで継続的な虐待が判明した。

 この残酷な事件は父親が自分の娘に手を下した虐待殺人であるが、児童相談所や学校、市教育委員会による間接的共同殺人の様相を見せている。児童相談所も学校も市教育委員会も過去の父親や母親の暴力を受けた子供の虐待死を何一つ学習していなかった。父親の残忍さと児童相談所や学校、市教育委員会の無能のみが浮かんでくる。

 栗原心愛さん虐待死4日後の2019年1月28日に衆参本会議で第198回通常国会に於ける「安倍晋三施政方針演説」(首相官邸)が行なわれた、この虐待死を取り上げている。

 安倍晋三「子どもたちこそ、この国の未来そのものであります。

 多くの幼い命が、今も、虐待によって奪われている現実があります。僅か五歳の女の子が、死の間際に綴(つづ)ったノートには、日本全体が大きなショックを受けました。

 子どもたちの命を守るのは、私たち大人全員の責任です。

 あのような悲劇を二度と繰り返してはなりません。何よりも子どもたちの命を守ることを最優先に、児童相談所の体制を抜本的に拡充し、自治体の取組みを警察が全面的にバックアップすることで、児童虐待の根絶に向けて総力を挙げてまいります」

 安倍晋三が「あのような悲劇」として、ここで親から暴力を受けて殺された例として取り上げたのは33歳の父親の継続的な暴行後に衰弱していたにも関わらず必要な医療措置を受けさせず、施政方針演説から遡ること約11ヶ月近く前の2018年3月2日に搬送先の病院で5歳という幼さで我が娘を死亡させた残忍な虐待死事件である。

 母親も子どもに満足な食事を与えていなかったという。

 ノートには次のように書いてあったと2018年6月6日付「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。

「もうパパとママにいわれなくても

 しっかりとじぶんから

 きょうよりはもっともっと

 あしたはできるようにするから

 もうおねがいゆるしてください おねがいします

 ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして

 きのうぜんぜんできてなかったこと

 これまでまいにちしてきたこと なおします

 あそぶってあほみたいだから

 ぜったいぜったいやらないから やくそくします」

 起居動作なのか、幼稚園の学習なのか、満足にできないからと言って、叩いたりする。遊ぶこともさせてもらえなかった。母親は満足な食事を与えなかった。5歳の少女にとって刑務所以上の地獄を日々味わわされていたに違いない。

 そして施政方針演説4日前の1月24日に野田市立小4年10歳の栗原心愛さんが父親から継続的に暴行を受け、浴室での冷水シャワーが10歳の女の子のいたいけない命に残酷なトドメを刺した。10歳の少女にとっては大人に対する拷問以上の辛さがあったに違いない。

 いわば親の自分の子供に対する虐待死が2018年3月2日の事件で終止符を打ったわけではなく、繰り返されている状況を目の前にしながら、3月2日の事件を指して「あのような悲劇を二度と繰り返してはなりません」と言うことができる、あるいは今回の事件でも児童相談所や学校、市教育委員会が大人としての責任を果たしていなかったにも関わらず、「子どもたちの命を守るのは、私たち大人全員の責任です」と言うことができる。

 この感性・想像力は白々しく、薄っぺらで、恐ろしいばかりである。

 しかも残酷な児童虐待とその結果としての残酷な死が二度や三度どころか、何十回も繰り返されている状況を考えると、安倍晋三の言葉は何を以ってそのように発言しているのか、正体不明となるばかりか、空恐ろしいまでの軽さを見せることになる。

 「Think Kids(シンクキッズ)こどもの虐待・性犯罪をなくす会」のサイト、《これまでの主な虐待死の事例はこちら》のページに31例の虐待死が載せられている。

 但し2014年5月31日までの事例止まりで、それ以降の虐待死は記載されていないし、世間に現われないまま、闇に葬り去れれた虐待死も存在する可能性も否定できない。いわば、"跡を絶たない状況"にあり、「二度と繰り返してはなりません」と言えるような状況にはない。「何度も繰り返されています。私達政治も大人も今以って止めることはできません」と正直に言うべきだったろう。

 推測するに多分、安倍晋三の施政方針演説の原稿は栗原心愛さんが虐待死を受ける1月24日以前にスピーチライターの手で仕上げられていて、目を通すのも1月24日以前だったのだろう。以後であったなら、スピーチライターが4日前の事件を抜かして、約11ヶ月近くも前の事件のみを取り上げるということは考えにくいし、安倍晋三が仕上がった原稿に目を通す際に気づかなかったということも考えにくい。

 気づいたものの、こういった事情で仕上がった原稿をそのまま読み上げてしまった。だとすると、別の問題が浮上する。

 事件のあった1月24日から施政方針演説の1月28日までの間の3日間で5、6行程度の文章を書き直すことができないということは有りない。だが、書き直さなかった。だとすると、たった4日前の栗原心愛さんの酷い虐待死を無視できたことになって、このことは2018年3月2日の事件に引き続いてのことだから、「あのような悲劇を二度と繰り返してはなりません」と発言できたこと自体が無視できたことの証明となるが、その無神経・無感覚は国民の生命・財産を預かる一国のリーダーとしての資格に真っ向から反する感性・想像力の持ち主ということになり、この点のみを取り上げただけでも、リーダーに相応しくない人格ということになるからである。

 もしスピーチライターも安倍晋三自身も、1月24日の事件に気づかずに仕上がった原稿をそのままに読み上げてしまったとしたら、どうなるのだろう。

 たった一人の幼い死であっても、異常なまでに特異な死、あるいは親が虐待を通して自分の子供を殺すことになった異常な殺人であり、それゆえにマスコミが騒ぎ、ネットで騒がれているにも関わらず気づかなかったとしたら、スピーチライターも安倍晋三も、10歳にしかならない幼い命の死に目を向けるだけの興味も関心を持たなかったことになる。

 この無興味・無関心は国民の生命・財産を預かる一国のリーダーとしての資格云々以前の重大事で、人間としての欠格性が問われることになる。

 気づいていた、気づいていないのどちらに転んだとしても、国民一人ひとりの命に向ける感性・想像力が白々しく、薄っぺらであることに変化なしとなる。

 この程度の感性・想像力で、「国民の生命・財産を守る」と言う。あるいは安全保障上の観点から、「国民の生命と安全を確保していく」と保障する。言葉と安倍晋三自身の国民の命に関わる感性・想像力の食い違いに気づかなければならない。

 安倍晋三が国民の生命に対してこのような感性と想像力の持ち主であることを念頭に2019年1月30日衆院本会議での自民党幹事長二階俊博の児童虐待に関わる代表質問と安倍晋三の答弁を見てみる。

 二階俊博「平成29年度の児童虐待の相談対応件数は、過去最多の13万件を超え、痛ましい事件が跡を絶たない、大変深刻な状況にあります。虐待を受けながらも、死の間際にまで両親の思いに応えようとする幼い心を思うと、胸が締め付けられます。虐待によって幼い命が奪われるようなことを、もう2度と繰り返してはなりません。このことは、国民みんなで誓おうではありませんか!政府は、児童相談所や、自治体の体制強化を迅速に図る必要があります。児童虐待防止に向けた、安倍総理のご決意をお伺いします」

 安倍晋三「児童虐待の防止対策についてお尋ねがありました。多くの幼い命が今も虐待によって奪われている現実があります。子どもたちの命を守るのは私達大人全員の責任です。

 児童虐待防止対策に政府一体となって取り組むため、昨年7月の関係閣僚会議に於いて緊急総合対策を決定し、自治体の取り組みに対する警察の全面的バックアップや子どもの安全確認など、全て子どもを守るためのルールの決定を図りました。
 
 さらに昨年12月には児童相談所強化プランを前倒しして、見直し、新たなプランのもとで児童福祉司を2000人程度増員するなど、児童相談所の体制の抜本的拡充や、全市町村への身近な相談拠点の設置などを進めてまいります。

 何よりも子どもの命を守ることを最優先にあらゆる手段を尽くし、やれることは全てやるという強い決意で、児童虐待の根絶に向けて、総力を上げてまいります」

 国民の生命に対して白々しく、薄っぺらの感性と想像力しか持ち合わせていない安倍晋三が言うことである。例え組織や体制は出来上がっても、安倍晋三自身は魂を塗り込めることはできない組織や体制となるのは目に見えている。

 親玉がそうだから、下、上を見倣うで、下も魂を入れることができず、だから、堂々巡りになるが、児童福祉に関わる大勢の大人たちが満足に責任を果たすことができていない現状を他処に置いて「子どもたちの命を守るのは、私たち大人全員の責任です」と言うことができ、二度どころか、何十回となく繰り返され、終止符を打つことできす、跡を絶たないが状況を眼の前にしていながら、「あのような悲劇を二度と繰り返してはなりません」と、それがさも可能であるかのようにいとも簡単そうに言うことができる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇絶対主義体制下の遺物元号制度は日本国憲法に反しているか、少なくとも憲法に抵触、その精神に違反

2019-02-02 12:02:45 | 政治

 平成の今生天皇が2019年4月30日に退位、皇太子が翌5月1日に即位、平成からどのような元号になるか、世間は興味を湧かせている。ここで忘れてならないのは戦前に於ける元号は天皇の御代(=天皇の治世)を表していたということである。

 敗戦後以降は天皇は日本国憲法によって治世者(=統治者)ではなく、国家・国民統合の象徴となったが、元号が戦前のように天皇の御代(=天皇の治世)を表してはいなくても、それぞれの天皇の時代を表現していることに変わりはない。今の天皇が死去すれば、平成天皇と称号され、平成はまさに平成天皇の時代であったことの姿を顕にすることになる。平成を平成天皇の時代とすることは現憲法に於ける日本国の象徴及び日本国民統合の象徴であることに反しないだろうか。

 なぜなら、日本国憲法が日本国民を主権者(国家の主権を有する者)と規定している以上、常に国民の時代でなければならないからである。些かも天皇の御代であってはならないし、天皇の時代であってもならない。いわば元号制度は天皇絶対主義体制時代の遺物としての様相を未だ引きずっている。

 明治元年、明治政府は天皇の意志を伝える詔書――「一世一元の詔」を発布して、元号を「明治」とすると共に一世一元(天皇一人につき、一つの元号)の制度とすることを定めた。その詔書と大正天皇の「改元ノ詔書」が如何に天皇の御代(=天皇の治世)を表現しているかを見てみる。
明治十五年 七月三十日 官報

 「一世一元の詔」は次のように宣誓している。

 〈太乙を体して位に登り、景命を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。

 朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す。

 乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す。

 其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す。

 今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ。〉(「Wikipedia」)――

 意味を各種ネット辞書で調べてみた。

 ⚫「太乙を体して位に登り、景命を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。」(たいいつをたいしてくらいにのぼり、けいめいをうけて、もってげんをあらたむ。まことにせいだいのてんけいにして、ばんせいのひょうじゅんなり)

 「天地・万物の出現・成立の根元となる気を身に纏って天皇の位に登り、景命(天上界の人の命)即ち皇祖皇宗(天皇の始祖と当代に至るまでの歴代の天皇)の命を受けて、元号を改める。誠に聖天子(徳の高い天子)が治める世の模範・代表例であって、限りなく長く続く世の基準とする」

 ⚫「朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す」(ちん、ひとくといえども、さいわいにそそうのれいにたより、つつしみて、こうしょをうけ、み、ばんきのまつりごとをみずからす)

 「私は徳が足りないが、歴代の天皇の霊魂に頼って、謹んで天皇が国を治める事業(鴻緒)を引き継ぎ、私は政治上の多くの重要な事柄「万機」を自ら行ないます」

 ⚫「乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す」(すなわちげんをあらためて、かいだいのおくちょうとともに、こうしいっしんせむとほっす)

 「即ち元号を改めて、天下の万民と共に古いものを改めて、新しく始めることを欲する」

 ⚫「其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す」(それけいおうよねんをあらためて、めいじがんねんとなす)

 「元号を慶応から明治に改めて、慶応四年を明治元年とする」

 ⚫「今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ」(いまよりいご、きゅうせいをかくえきし、いっせいいちげん、もってえいしきとなす。しゅしゃせこうせよ)

 「今後、旧制を改めて、一世一元とし、将来に亘る方式・制度とする。主となって事を引き受ける責任者(=政治を引き受ける者)は実行せよ」

 明治以前は天皇が変わらなくても、疫病が大流行したり、大自然災害が発生して甚大な被害を受けると、縁起から元号を変えることがあったそうだが、明治以降、何が起ころうともも天皇一代一元号とした。

 このことだけを取っても、天皇という存在の絶対性を強めている。

 〈洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。〉との表現で、「誠に聖天子(徳の高い天子)が治める世の模範・代表例であって、限りなく長く続く世の基準とする」としている点、「祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す」との表現で「謹んで天皇が国を治める事業(鴻緒)を引き継ぎ、私は政治上の多くの重要な事柄『万機』を自ら行ないます」としている点は、天皇の御代(=天皇の治世)そのものの表現であり、その絶対性を宣言していることになる。

 明治元年の「一世一元の詔」に既に現われていた天皇という存在の絶対性が1889年(明治22年)2月11日公布、1890年(明治23年)11月29日施行の大日本帝国憲法に於ける「神聖にして侵すべからず」といった天皇の絶対性の明文化に繋がっていたはずだ。

 明治15年7月30日の官報によって発布された大正天皇の「改元ノ詔書」を見てみる。

 〈朕菲徳ヲ以テ、大統ヲ受ケ、祖宗ノ靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ。

 茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ、明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ、大正元年ト為ス。

 主者施行セヨ。〉

 「私は徳が足りないが、大いなる皇統(「大統」たいとう)を受けて、先祖代々の天皇(「祖宗」そうそう)の霊に告げて、多くの重要な政(まつりごと・万機)を行う。

 ここに明治天皇が定めた制度に従い(あるいは遵守し)、大正と改元する。主となって事を引き受ける責任者(=政治を引き受ける者)は実行せよ」

 昭和天皇の「改元の詔」を見てみる。

 〈朕皇祖皇宗ノ威靈ニ頼リ、大統ヲ承ケ萬機ヲ總ス。

 茲ニ定制ニ遵ヒ元號ヲ建テ、大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ、昭和元年ト為ス。〉

 「萬機ヲ總ス」の「總ス」(ふす)は「統べる」(すべる=統率・支配すると同意味)

 「私は始祖から始まる当代までの歴代の天皇(皇祖皇宗)の威光を頼みとして大いなる皇統(大統)を受け継ぎ、政治上の多くの重要な事柄(万機)を統率・支配する」

 明治天皇の「一世一元の詔」から比べると、大正天皇と昭和天皇の詔書からは天皇の絶対性は影を潜めていて、文章も短くなっている。だが、既に「神聖に侵すべからず」の絶対的存在性、現人神として絶対的存在性を(昭和天皇は終戦まで)確立させていて、そのような存在性を背景としていることを考慮すると、大正天皇の「大統ヲ受ケ、祖宗ノ靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ」にしても、昭和天皇の「皇祖皇宗ノ威靈ニ頼リ、大統ヲ承ケ萬機ヲ總ス」にしても、明治天皇の絶対性に劣らずにそれぞれの詔書は天皇の御代(=天皇の治世)を表現している。

 そして昭和天皇は戦後、象徴天皇に姿を変えたが、天皇の御代(=天皇の治世)を表す元号のままに在位した。戦後の日本の政治家と日本国民はこの矛盾を放置した。
 
 昭和天皇が死去する1989年(昭和64年)1月7日よりも10年前の1979年(昭和54年)に「元号法」が成立した。
 
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

附 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

 「政令」とは、「憲法および法律の規定を実施するために内閣が制定する命令」のことだとネットで紹介している。この元号法は「一世一元」との言葉を用いていないが、「元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める」との規定は「一世一元」意味していて、「元号法」に於いても、元号は天皇の時代を象徴することになる。

 民主化された日本にあって、天皇の時代であることは、天皇主義者安倍晋三はそうはしたくないだろうが、影一つ残すことなく払拭しなければならないはずである。改めて言うが、常に主権者である国民の時代でなければならない。

 日本が天皇絶対制から戦後に民主化された以上、戦前の大日本帝国憲法は「第1章天皇 第1条」で、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としていて、天皇を主権者と位置づけているゆえに天皇の御代(=天皇の治世)を表す元号は許されるが、日本国憲法下で国民主権への移行を迎えている状況下で戦後も天皇の時代を表すことになっている戦前の遺物である元号制度を存続させている。(青文字加筆――2019年2月3日15:35)

 元号を前時代の遺物として残してはならないということである。だが、現在も残している。主権者でもない天皇の時代を表す元号を残すことは日本国憲法に反しているか、少なくとも憲法に抵触、その精神に違反していると言える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍晋三のIWC脱退決定:一国の首相である自らが国際社会と日本国民に説明責任を果たさないことの卑怯な振る舞い

2019-02-01 12:10:46 | 政治

 2018年12月25日、国際捕鯨取締条約及び1946年12月2日にワシントンで署名された国際捕鯨取締条約の議定書からの脱退について閣議決定した。勿論、閣議議長は首相の安倍晋三である。

 「時事ドットコム」の「首相動静(12月25日)」によると、閣議は「午前10時1分から同14分まで」となっていて、13分間行なわれた。

 この13分間について首相官邸サイトの「平成30年12月25日(火)定例閣議案件」を見ると、内閣府本府提案の〈平成30年の地方からの提案等に関する対応方針について〉、法務省提案の〈特定技能の在留資格に係る制度の運用に関する基本方針について〉、法務省・警察庁・外務・厚生労働・農林水産・経済産業・国土交通省提案の〈特定技能の在留資格に係る制度の運用に関する方針について〉、外務省提案の、〈オーストラリア国駐箚特命全権大使高橋礼一郎に交付すべき信任状及び前任特命全権大使草賀純男の解任状につき認証を仰ぐことについて〉の4提案それぞれを閣議決定している。

 1提案約3分。官邸から指示を受けたか、官邸に諮ったかして、両者間で既に決定した案件を所管省庁の大臣なりが提案名と提案趣旨を少し述べるだけで、所管外の大臣が疑問を挟むことなく無条件に、あるいは従属的に承認していくだけの状況しか見えてこない。

 つまり提案事項に関係しない省庁の大臣は口出ししない状況にあるということなのだろう。

 いずれにしても2018年12月25日の閣議で国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退を決定した。ところが、その日にその決定を発表せずに、翌日の12月25日の発表となった。その理由を2018年12月26日付「時事ドットコム」記事が「安倍・二階氏の意向大きく=IWC脱退、外交に冷や水」と題して伝えている。

 〈政府は25日に脱退を閣議決定したが公表せず、発表を26日にずらして、その間に関係国に説明、衝撃を緩和しようとした。〉

 しかしこれは安倍晋三自身が各国首脳に電話して、直接説明したわけではなく、内閣府本府の主たる役人が関係国の所管組織に電話するなりして、説明したということであろう。

 記事は誰の意向が強く働いた決定なのかを解説している。

 〈政府が国際捕鯨委員会(IWC)脱退を決定した。決断に至る過程では、古くから捕鯨が盛んだった地域が地元の安倍晋三首相と二階俊博自民党幹事長の意向が大きく働いたとみられる。一方、脱退は、オーストラリアなど反捕鯨国との国際協調に冷や水を浴びせる恐れがある。

 和歌山県太地町の三軒一高町長は26日、自民党本部に二階氏を訪ね、脱退決定に謝意を伝えた。二階氏は「(捕鯨を)徹底的にやれ」と激励。この後、三軒氏は記者団に「幹事長が地方の声を官邸に届けてくれた。神様みたいだ」と語った。〉

 安倍晋三が自身の意向が強く働いた脱退決定であることを否定したとしても、閣議の主宰者・議長は安倍晋三その人である。いわば脱退決定の第一の承認者であり、第一の責任者となる。と同時に、断るまでもなく、日本国家の現在の第一の責任者の立場にある。

 であるなら、条約締約国が89カ国にも上る国際条約からの脱退なのだから、何らかの機会に自らが自らの言葉で国際社会に向かって脱退の説明責任を果たし、翻って日本国民の理解を得る説明責任を果たさなければならなかったはずである。

 だが、2019年1月4日の「年頭記者会見」でも、2019年1月23日午前の世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)での演説でも、20191月28日の「通常国会施政方針演説」でも、IWC脱退理解要請の言葉は国際社会に対しても、日本国民に対しても、一言も発していない。国際社会から脱退に対する批判が出ているにも関わらず、説明責任を果たそうとする姿勢をサラサラ見せないでいる。

 2018年12月26日付「時事ドットコム」記事が反捕鯨国のオーストラリアとニュージーランドの批判を載せている。

 オーストラリアのペイン外相とプライス環境相連名の声明「豪州はあらゆる形態の商業捕鯨やいわゆる『調査』捕鯨に断固として反対だ」
 
 そしてIWC復帰を求めたと書いている。

 にも関わらず、安倍晋三前面に出て、自らの言葉で理解を求めるどのような説明責任も果たそうとしていない。いわば説明責任の前面に出てこない。背面に隠れている。

 ニュージランドのピーターズ副首相兼外相の声明(IWCでの日本の立場を河野太郎外相と協議したと説明し)「捕鯨は時代遅れで不必要な行為だ。日本が自身の立場を考え直して、海洋生態系保護の前進に向けて全ての捕鯨をやめると引き続き期待している」

 外国の主要閣僚がこのように脱退を批判し、脱退に反対の声明を出していることに対して自らの言葉で理解を求めるどのような説明責任も果たそうとしていない。説明責任の前面に出ずに、背面に隠れ放しとなっている。

 ニュージランドのピーターズ副首相兼外相が河野太郎とIWCでの日本の立場を協議したと言っているが、脱退に対する対応に関しては安倍晋三自身は背面に隠れて、河野太郎一人に任せている。

 一国の首相として卑怯な振る舞いとしか見えない。

 韓国の最高裁判所は太平洋戦争中の徴用工強制労働の損害賠償を日本企業に求めた韓国人4人の訴えに対して2018年10月30日、「個人請求権は消滅していない」として、賠償を命じる判決を言い渡した。
 
 日本側は1965年「日韓請求権協定」によって両国家間、及び両国民間の財産、権利等の請求権は完全かつ最終的に解決されているとして猛反発、韓国政府に問題解決を求めた。対して韓国政府は三権分立に於ける司法(裁判所)の独立を言い、司法尊重、いわば行政府不関与の立場からノータッチを貫いているばかりか、判決を批判する日本側に遺憾の意を表明した。

 このノータッチと逆批判に日本側は腹に据えかねたのだろう、対韓批判のトーンを上げることになった。2018年11月7日午前の官房長官菅義偉記者会見。「産経ニュース」(2018.11.7 12:22 )

 菅義偉「今回の判決は日韓請求権協定に明らかに違反し、遺憾だ。(協定が)司法府も含め当事国全体を拘束するものだ。

 最高裁判決の確定時点で韓国の国際法違反の状態が生じている。韓国政府に国際法違反の状態の是正を含め適切な措置を求めている」

 「日韓請求権協定」が日本と韓国の二国間協定でありながら、「国際法違反」そのものではなく、「国際法違反の状態」だとするのは、如何なる国家間のどのような内容の取り決めに関わる二国間協定であっても、それが守られなければ、国際的な秩序を損なうことになるゆえに守ることを国際的な約束事としなければならないにも関わらず、その約束事を破って守らないのは国際的な秩序を損なうという点で「国際法違反の状態」だということなのだろう。

 しかしあくまでも「状態」であって、「国際法違反」そのものでなければ、韓国側に痛くも痒くもない犬の遠吠えになりかねない。

 ただ、IWC脱退に関しての一国の首相の対国際社会と対日本国民への説明責任の不履行状態のまま、韓国最高裁徴用工判決を「国際法違反の状態」だとばかりは言っていられないということである。

 なぜなら、日本という大国のIWC脱退は、脱退する場合の規定を条約内に設けている以上、「国際法違反」とは言えなくても、IWC条約に加盟している多くの反捕鯨国からしたら、国際的な約束事を破り、国際法を損ねる行為として映ることになるはずだ。いわば"国際法毀損"に映る。

 安倍政権は2019年7月から商業捕鯨を再開すると発表している。捕鯨開始と同時にIWC条約加盟反捕鯨国には日本が国際法を日々毀損する国に映ることになるだろう。

 "国際法毀損"に映らないためにも、安倍晋三は国際社会と日本国民に対してIWC脱退・商業捕鯨再開の説明責任はしっかりと果たさなければならない。だが、説明責任の前面に立つことはしない。卑怯な振る舞いとだけで片付けることはできないかもしれない。

 安倍晋三の2019年1月28日通常国会施政方針演説に対しての自民党幹事長「二階俊博代表質問」(自民党/2019年1月30日)で、安倍晋三を次のようにヨイショしている。

 二階俊博「第二次安倍内閣発足以来、総理は78か国を訪問され、約700回もの首脳会談を重ねておられる中で、各国首脳との確固たる信頼関係を築いてこられました。国際会議で、国同士が鋭く意見対立する中にあって、安倍総理の存在感が増していることは、大いに国益に資するとともに、私たち国民にとって、誇るべきことであります。平成の時代を振り返ってみても、これほどの信頼関係を各国首脳との間に築きあげた総理大臣はおられないのではないかと考えます」

 「これほどの信頼関係を各国首脳との間に築きあげた総理大臣はおられない」

 どのような厚い首脳同士の信頼関係であろうと、各国それぞれの国益に打ち克つことができないことは日ロの北方四島帰属交渉が象徴的な証明となっている。

 安倍晋三がIWC脱退・商業捕鯨再開の説明責任の前面に立たないのは、立った場合の自身が打ち立てたと信じている各国首脳との信頼関係が少しでも傷つくことを恐れているからではないだろうか。

 このことが勘繰りに過ぎなくても、国際条約を脱退する以上、対国際社会と対日本国民に向けたその説明責任の前面に立たないのは一国の首相である手前、卑怯な振る舞いであることに変わりはない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする