現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

突然に加害者になる悲劇

2012-02-18 19:26:54 | 社会問題
元小牧市長、中2女子はね重体に…逮捕(読売新聞) - goo ニュース

「女子中学生が車に跳ねられ、意識不明の重体。
運転していたのは、元小牧市長で会社役員の
佐橋薫容疑者(86歳)。現行犯逮捕」の記事。

86歳で車を運転の主は、かつて愛知県会議員を
5期も勤め、小牧市長も4期 勤めた名士。
交通事故で、まさに“晩節を汚し”、築きあげた
財産も 地位も 名誉も 全部失うことに。


17歳男女のバイク転倒、後続車にはねられ死亡(読売新聞) - goo ニュース

「国道を走行していたトレラーの運転手。突然、
目の前を走っていたバイクが転倒して、よけきれず、
バイクの男女二人を即死させ、現行犯逮捕」

これなどは、不可抗力だろうに。“不運”としか言い
ようがない。人は誰でも、加害者か被害者になる
危険性を帯びている。

インターネット占いで「幸福は 98%使い果たし、
不幸はまだ 15%しか受けていない」と診断された私。
これからの老後は「寝たきり」か「刑務所行き」か。

毎朝 神仏に祈り、「健康に良い」と言われることは
すべてやり、「目配り、気配り、行動は慎重に」を
心がけては いる。

あ、某(それがし)は「死をも恐れぬ、いつ死んでも
いい覚悟」はできているつもりだ。死ねば、一切の
悩みも消えるが、生きて「加害者、被害者」になった
時の「心の準備、経済的支え」は できていない。
どうするべい。生きることの方が不安だ。

誰も知らなかった「秋入学」

2012-02-16 21:41:49 | 社会問題
東大総長が「5年後に“秋入学”に移行する」と発表して、
それに向けて、各大学も企業も対応を検討し始めた矢先、
中日新聞に「東大の松原隆一郎教授」が「そんなこと
聞いてなかった」と爆弾発言。

東大総長が「秋入学移行」を発表したのは、昨年の7月。
松原教授は「その時点で、新聞を見て知った」という。
7月の話が、なんで今頃 新聞でぶちまけるのか、その
真意がわからぬ。

松原教授が言うには、「留学経験者から“春入学”では
不都合という話は聞いたことはない。そのような調査は
行っていない。発表から半年、学内では「秋移行」に
反対する意見も多くあるのに、1月末、総長がマスコミとの
懇談会で「学内では反対という意見はない」と、東大の
総意であるがごとき発表を行った。それも、学内での
発表以前にマスコミに流れた。

清武英利が 記者会見を行って 渡邉恒雄を告発したのと
同じか。内部告発は、端目にはみっともない。
ところで、「東大総長」って、今 誰?「濱田 純一」?
知らなかった。

ひと昔前なら、「東大総長」といえば「南原 繁、矢内原
忠雄、茅 誠司、加藤 一郎、林 健太郎」と、広く世間に
名を知られていたものだ。

「知らなかった」で最高裁無罪?

2012-02-16 12:53:48 | 社会問題
これも「麻薬とは知らなかった」で、一審「裁判員裁判」で無罪。
二審で有罪となったが、最高裁は「裁判員裁判」の判定を支持する
として「無罪」が確定。 

覚醒剤約1キロをチョコレート缶に隠して成田空港に持ち込み
逮捕された男。渡航費用まで出してもらい、30万円もらって
「土産物を届けるよう頼まれただけ。中身が覚せい剤とは
知らなかった」というだけでの「無罪」。またもや「知って
いれば“悪”。知らなかったのだから“善意”」の法解釈。

放射能に汚染された野菜、砂を販売した業者は「汚染の事実を
知らなかった」のだから、罪には問われない。だが「放射能
を測定検査する義務」が法律化されたら、その法律を知らなく
ても有罪であろうに。その法律を「知らなかった」で無罪か?。

ムムムムム。そう「何も知らない」のが一番。知っていても
「知らぬ 存ぜぬ」で押し通せば「無罪」ということが、
国民に知られてしまった。これって「法治国家」?、
「放置国家」「無報知(知っていても知らせない)国家」に
なるぞ。「知らん ほっとけ!」「知らぬが仏」





人を殺さなくても逮捕、殺しても無罪

2012-02-16 12:19:49 | 社会問題
オリンパス前社長ら7人を逮捕 決算粉飾の疑い(朝日新聞) - goo ニュース

オリンパスの前社長ら7人が、損失を隠して資産を
水増しし、決算を粉飾していたとして「金融商品
取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)」などの
容疑で逮捕されたとか。

逮捕されるほどの事なのか、在宅起訴でいいでは
ないか。私には理解不能。

まさに「知っていると悪意」「知らないと善意」の
法解釈だ。「知っていて粉飾した」のだから逮捕。

東日本大震災や原発事故は、オリンパスどころじゃない。
何万人もの人に 何兆円規模の損失被害を与えながらも、
誰も罰せられない。「津波がくること」原子力発電所が
やられるであろう」ことを「知らなかった」のだから
無罪?。

では、逆に「過去の津波の歴史」を知っていて、また
「全電源喪失」の危険性に気づいていた関係者たちは、
罰せられることになる。「法」とはわからんものだ。

本日(2/16)中日新聞に「高橋哲哉・東大大学院教授」が
「原発を推進してきた中央の政治家、官僚、東電幹部、
学者たちの責任が追及されていない。原発を誘致した
福島の各自治体、町の住人にも責任がある。もはや、
『自分は知らなかった』ではすまされない。責任を
とらず、さらに復興の利益を享受するのは許されない」と。

「ウンだ んだ」。私も「原発に反対」してこなかった
のだから有罪か? 「貞観の地震も知っていたし、原発の
危険性も十分承知していたし・・・・。

おしりフリフリ

2012-02-16 11:10:27 | 虚無僧日記
高校生の女子が、軽快な音楽に乗って、おしりフリフリ
箒(ほうき)のような筆を動かす「書道パフォーマンス」。
書道の概念を打ち破る。これも時代の流れか。

「詩吟界」も変わってきた。「アメニモ マケズ」や
「上を向いて歩こう」など、誰でも知っている歌詞を
「詩吟調」にして吟じるのだ。

また「詩吟入り歌謡」というのもある。『祝い船』や
『津軽海峡冬景色』『白雲の城』・・・といった歌謡曲に、
それに みあった漢詩を作り、歌の間に詩吟を吟ずる。

詩吟は、ノーリズムで、その人の感性で、好き勝手に
伸ばして良しとされてきたが、わが師堀井小二朗は、
半世紀も前に、「詩吟にもリズムを」と主張してきた。

堀井師は大きな詩吟の会では、高箏、低箏、十七絃に
尺八2管の五重奏で、それに鳴り物まで入れた楽譜を作り、
6~7人の編成で伴奏を引き受けていた。作曲料と
演奏者へのギャラで 5、60万から80万円請求
していた。今、詩吟界も低迷で、そのような仕事は無い。

だが 今度、久々に頼まれている「○○会」では、シンセや
ピアノ、ベースギター、ドラムスが入る。ジャズバンド
のメンバーらしい。尺八も「ジャズが吹ける人」と
いうことで私に 仕事が廻ってきた。会主のお名前も
「ナンシー」さんだ。

腰をふりふり、リズム感のある伴奏が求められている。
半世紀も前に堀井小二朗師が行っていた世界が、
ようやく訪れた。



書道パフォーマンス

2012-02-15 12:30:20 | 虚無僧日記
以前、「書道家」と自認される方から「書道パフォー
マンス」のバックで尺八を吹いて欲しい」との依頼が
あった。そして、その方の「作品集」が送られてきた。

その方の書は「字」というより、墨を縦横無尽に
塗りたくって「空間」や「間」が無い。電話で話しを
聞いてみると、「ロックやレゲェなどの激しい曲を
ガンガン流して、勢いをつけて書きまくるのだ」と
いわれる。私にも「そういう前衛的な尺八を吹いて
もらいたい」と。

私は、「書」というと、心落ち着けて 墨をすり、
一筆一筆、全神経を集中させて、心こめて書くもの。
紙の白い部分にも“美”があると思っている。
それには、古典本曲のような“間”のある曲が
ふさわしいと思っていた。

あまり気が進まなかったが、一応 お引き受けした。
しかし、予定の日が迫っても、何の連絡も無し。
立ち消えになってしまったようだ。「字は体を表す」。
「書」からも「そういう人か」とわかった気がする。

さて、あれから何年か経って、テレビドラマの影響か、
「高校生の書道パフォーマンス」が盛んになってきた。
You-Tubeで見たが、まさに、今流行りの若者の音楽を
ガンガンかけてのスポーツまがいの演技だ。愕然。

でも、ある書道家のパフォーマンスについて、こんな
批評もあった。

「筆がかわいそう。墨もかわいそう。消費される物も
 かわい­そう。なによりあなたに教わる生徒がかわいそう」

「こういう目を背けたくなる醜悪さを産んだのが近代主義
 なの­かもしれん。“奇観”かもしれんが、銭は払えん」。

「これ­だけ奇抜だと誰も振り向いてくれませんよ。
 もっと正道を行かれる­ことをお勧めします」

「書家を目指すのであれば、まず­基本の習字、そして
 古典をしっかり学んでから創作へと発展­させた方が、
 実力を備えた立派な書道家になれますよ」

この方、テレビでも 「書道の手ほどき」で出演していた。


新しいものも古く、古いものも新しく

2012-02-15 10:15:57 | 村野藤吾
JR西日本のポスターに、「唐長(からちょう)」の娘、
千田愛子さんが起用されている。「唐長」は江戸時代から続く
京唐紙(版画で染めた襖紙)の老舗。千田愛子さんはモデル
ではないが、凜とした美しさで、人目を引く。

「唐長」は江戸時代から伝わる襖の柄(がら)の版木を
600枚も保有している。さて そこで また「村野藤吾」の
逸話。

千代田生命の和室の襖紙を選ぶために、村野氏は自ら
「唐長」に足を運んだ。そして一枚一枚丹念にサンプルを
見、すべて却下。そして、傷が入って、使われていない
版木を見つけて「これを」と注文。刷り上ったものには、
当然「傷」がはいる。それをあえて新築の千代田生命の
和室に使っているのだ。

そして、私が「大正の間」と呼んでいる狭い和室の照明が
また いわくつき。「山際電気」で さんざん物色して
気にいらず、先生は、宝塚の自邸から わざわざ電灯の
笠を持ってこられ、取り付けさせた。新築の和室に
中古の照明。大正時代の庶民の家にあったような電灯の
笠だが、これまたシンプルで風情のあるものだ。

古い伝統に基づく和室を “斬新”に見せる一方、
こうして、「新しいもの」を「古く」もみせる。
まさに「美の魔術師」だ。




村野藤吾の和室「きれいさび」

2012-02-14 23:36:40 | 村野藤吾
井上靖が「千代田生命」を評して「きれい寂び」と
表現している。

「きれい寂び」は 千利休によって磨かれた美だ。
千代田生命の外観は、まさに「利休鼠(ねずみ)」色。
晴れの日は陽光に照らされて輝き、雨に煙るグレイも
また美しい。

そして地下に築かれた和室。
「そこには、華やかさもあれば翳りもある。喜びも
あれば悲しみも、時には絶望感さえある」と。

さすが井上靖の表現は見事。
「ヒューマニズムの建築家」と言われながらも、村野の
建築は、人を寄せ付けない凛々しさがある。特に和室は
外から見るだけで、中に入るのを躊躇(ためら)わせる。

千代田生命在籍中、この和室に自由に出入りしたのは
私ぐらいだ。ここでは食事もできない緊張感があった。

「竹の間」の床柱。完成後、村の先生はその太さが、
気に召さなかった。「も少し細いのと取り替えるように」と。
これまた「云うは易く、行うは難し」。床柱を取り替える
だけでは済まない。天上も床の間の松の一枚板も、
網代も壁土も全部造り直しなのだ。

まさに、村野先生の建築に携わる者たちは、終始
「絶望感」との戦いだったのではないだろうか。




仕事の神様「村野藤吾」

2012-02-14 21:55:59 | 村野藤吾
「村野藤吾」の美意識、仕事への執念、生き様に、私は
深く感銘受け、「村野信奉者」の一人となった。

村野藤吾は、93歳で まだ「新高輪ホテル」の茶室、
「宝ヶ池プリンスホテル」「横浜プリンスホテル」
「都ホテル大阪」他数件の建設に携わっていた。
それだけでも驚異だ。

亡くなる前日、村野藤吾は宝塚の自邸におり、「新高輪
プリンスホテル」内の「茶寮 惠庵」について、送られて
きた図面を見て、「違うじゃないか」と激怒。すぐ、
飛行機の手配をさせ、東京に向かおうとした。その時、
興奮していて靴下も履けなかった。そこで頭に血が上った
のか、そのまま帰らぬ人となってしまったという。

1本の線も、1cmも妥協を許さない。新高輪の巨大な
岩などは、自ら鞍馬の山に登って、気にいった岩を
指差し「あれを」と。 “云うは易い”が、部下に
とっては、地権者との交渉、買付から切り出しまで、
大変な作業だ。

「興銀ビル」の赤い花崗岩などは、アメリカまで行って、
飛行機の窓からロッキー山脈を見下ろして、「あの岩を
そっくり東京へ運びなさい」と部下に指示したという。
千代田生命のエントランスホールの真っ白い大理石は
ユーゴスラビア産だ。まだ共産圏で国交も無い時代の
ことだ。あのような「真っ白」の大理石はもう入手でき
ないという。

村野にとって「不可能」は無いのだ。しぶる部下に
「君は、何のために金をもらっているのかね」と皮肉を
言ったそうな。

こんな人が上司だったら恐ろしい。今の人なら ストレスで
ノイローゼ、鬱病 続出だろう。だが「村野先生だから」
「神様だから」みな素直に従った。そんな“神様”の
ように崇められる建築家が 今の世にいるだろうか。
まさに“不世出”の「建築の神様」だった。

村野藤吾「日生と千代田」

2012-02-14 21:02:30 | 村野藤吾
「日生劇場」ビルは、日本生命が創業70周年を記念して
1959年(昭和34年)に着工、1963年(昭和38年) に竣工した。

このビルは、地下5階、地上8階建で、日本生命東京本店
としての「事務用」部分と、「劇場」部分という 全く
機能を異にするものが、一つの建物に二分して存在する。
構造的にも建築的な芸術の点からいっても、統一と調和を
与えることは、そう簡単な問題ではない。

劇場に来られる客と、仕事に向かう社員とでは、服装も
心づもりも異なる。そこで、1階部分を開放するという
ことにした。当時の日本では、商業的な採算性重視で、
一階を公共の場として開放するということは、前例に
乏しかった。「それを実現してくれたのは、ひとえに
社長(弘世氏)の理解と「生保会社」の特別な使命の賜物で
あった」。と村野氏は述べている。

このように、2つの相反する命題を、見事に解決する
ことが、村野藤吾の真骨頂だった。

「劇場」に窓は必要としないので、ガラスの窓は極力
少なくし、外壁を花崗岩で覆って、建物に重厚な風格を
与えた。

「日生劇場」は「演劇」用のホールなので、 音の拡散を
考えて、天井も壁も曲面の多いものにし、30分の1の模型を
作って、音の響きをテストし、何度も造りかえられた。

かくして、深海か宇宙を思わせる うねりの多い曲面に、
「アコヤ貝」が無数に嵌められ、来場者の目を見張らせる
劇場となったのである。

「日生劇場」は、「劇団四季」とタイアップして、小学生の
子供たちを多く招待してきた。多くの人が、子供の頃に、
この劇場で演劇を観、「日生」という名を心に刻んだ。
そのPR効果は果てしない。

「螺旋階段」は村野の真髄を現すものだが、細く繊細な
デザインは子供達が多く来場する際、危険ということで、
後日、ゴツイものに造りかえられてしまった。


千代田生命が「新本社ビル」を村野藤吾に依頼したのは
昭和35年だから、まさに「日生ビル」の建設のさ中で
あった。村野藤吾は、同時進行で千代田生命の建設にも
意欲を燃やしたのである。

日生ビルが、有楽町という商業地域の中の狭い空間に
建てられたのに対し、千代田は東京郊外の 3,000坪の
敷地に自由に設計できるのだ。

そして 千代田生命ビルは 日生から2年遅れて、昭和
40年に竣工した。こちらは、日生とは対照的に、直線的で
ガラスをふんだんに使ったオフィスビルとなった。

実は 村野藤吾は 千代田生命ビルにも日生と同じように
「劇場」を造ることを考えていた。それは、正面玄関前の
築山の下であった。地下部分だ。しかし余りにも予算を
オーバーするということで断念させられた。

だが、その試みは「新高輪プリンスホテル」で完成されて
いる。