現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

千代田生命ビルのコンセプト

2012-02-11 21:13:56 | 村野藤吾
千代田生命中目黒本社ビルは、昭和35年、千代田生命
創業50周年を記念しての一大事業として企画された。
時の社長「門野雄吉」は、千代田生命の創業者「門野
幾之進」の息子。お坊ちゃん育ちのボンボンだった。

海外の保険会社を視察して、郊外の広々とした所に建つ
美しいビルを見て、わが社も、都心から郊外に本社を
移そうと提案した。

その建築を、当時、日本生命の「日生劇場」を建てて
注目を集めていた「村野藤吾」に依頼することとなった。

そのことで、日本生命に照会したところ、日生の担当者は
「大変なことになりますよ」と忠告してくれたが、当時、
千代田の担当者は その意味が判らなかったという。

この時、村野藤吾は すでに70歳を越えていた。
土地は、目黒区の「アメリカンスクール」が立川に
移転するため売却を望んでいるとの情報を得て、
大成建設の子会社有楽土地がその周旋に当たった。

村野藤吾は、アメリカンスクールを視察し、高低差の
ある敷地をどう生かして建てるか、構想を描いた。

①千代田としては、業界に誇れる高層ビルが欲しい。

(当時、住友生命が、新宿をはじめ各地に高層ビルを
建てていた)

②「日生劇場」は劇場だから窓の無い暗室だった。
千代田ビルはオフィスだから、できるだけ陽光を
とりいれる外壁にしたい。

③だが、住宅地である。周囲の住民にとって「鉄と
ガラス、コンクリートの壁」を造ってはいけない。
光を跳ね返す建物ではなく、光を吸収する建物に
したい。

(当時、丹下健三が、毎日新聞社ビルや旧都庁ビルなど
鉄とガラスの外壁で、これぞ「モダン建築」と絶賛
されていた。それに村野は異議を唱えたのだ)

そして、何より、保険会社は「人々のライフ(生活)」を
守る会社である。平和がシンボル。周囲の住民の
憩いの場になるような、平和で温かいぬくもりを
感じる空間にしなければならない。

さて、それから1年半の間、設計は遅々と進まず、
千代田の担当者はやきもきしていた。その頃、
村野藤吾は、秘かに、粘土で50分の一の模型を
作らせていた。一片が2mもある巨大な粘土細工が
現出していたのだ。



村野藤吾の「遊び心」

2012-02-11 20:27:05 | 村野藤吾
「車のハンドルにもアクセルにも“遊び”があるように、
“無駄”と思えるものも、人生には大切でしょ」と。

高度成長期、合理主義、機能主義全盛の時代に、村野藤吾は、
あえて“必要の無い空間”を随所に作った。

広い庭、築山、池、噴水、茶室、テラス、エントランス、
建物の中のプール。すべて贅沢すぎるほどの空間。当時の
千代田生命の担当者は「こんなもの必要なかった」と
嘆いたそうだが、その“無駄”な部分こそ大切なものだった。

その最たるものは、全フロアーの外に設けられたバルコニー。
でもこれが、ビルの改修工事の時には、真価を発揮した。
普通のビルなら、全館を覆う櫓(やぐら)を組むところだが、
当ビルは、通常勤務を妨げることなく、バルコニーを足場
にして配線などの工事ができたのだ。

エントランスの外側の装飾も、普段は見えない所なので
必要無いものなのだが、ある位置から、それが覗き見えた
時の感動は一入(ひとしお)なのだ。

築山の一画には、コンクリートの打ちっ放しがあり、
鉄筋が突き出たままになっている。他がすべて完璧に
美しく処理されているのに、ここだけ、手抜きしたかの
ような部分だ。ところが、数年、10年経って、鉄の錆びが
雨水で流れ、縦じわのシミができた。これが遠目には
「滝」のように見えるのだ。千代田を訪れたことのある人が、
よく「築山には“滝”も流れてましたね」と云われるが、
実はコンクリートの壁なのだ、数年後、10年後、50年後を
見通しての村野藤吾の計算された“遊び心”に驚かされる。


“遊び心”といえば、新高輪プリンスホテルの大宴会場の
照明器具。なんと、女性のカラフルなショーツ(パンテイ)で
飾られていた。村野藤吾 93歳の“色気”だ。“オカマ”の
御用達の有名店に、いい年をした社員が、女性のショーツを
買いに行かされたのだ。さすが、今は取り外されている。




村野藤吾のこだわり「北の部屋」

2012-02-11 17:31:16 | 村野藤吾
特別のお客を迎える「貴賓室」は 北側に造られた。
普通常識では、南に面した日当たりの良い、明るい
部屋を「応接室」にする。庭園も見渡せるような
所だ。

それが「北側」とは。村野藤吾は、「陽の当たる
部屋は、太陽の動きに左右される。陽が廻れば
まぶしくてカーテンを閉めたり開けたり。

北側なら、一日中、晴れの日も雨の日も、天気や
時間に左右されずに、一定の重厚さを醸し出せる。

そして、村野は、床の絨毯に仕掛けをほどこした。
窓辺は明るく、部屋の奥ほどグレイを濃く、グラディ
エーションにしてあるのだ。


こうすることで、北側なのに、陽が差しているかの
ような情景になる。このように、各部屋の絨毯の
模様まで、すべて村野藤吾自身がデザインし、
特注なのだ。

庭に面していない北側の部屋ということは、特に
VIPを迎えた時など、外から覗かれないという
効果もあった。


村野藤吾「トイレのこだわり」

2012-02-11 17:15:41 | 村野藤吾
「千代田生命本社ビル」のご案内をしよう。
まずは「トイレ」の話から。

トイレに入ると、各個室の扉が 45度に整然と
開いていることに注目。各扉が半開きで止まる
ように蝶番(ちょうつがい)に仕掛けがなされて
いるのだ。

こうすることで、「使用中」か否か歴然。
いちいちノックする必要はない。戸の外側に
ノブ(取手)も要らない。

そして「おまる」の位置が前後逆になっている。
普通「和式」は、入ってそのまま奥の方を向いて
しゃがむ。すると万が一、戸が開いたりすると、
突き出したお尻が丸見えになってしまう。

一般の常識を破って、村野は、「おまる」の
前後を逆にし、戸の方に振り向いてしゃがむ
ようにした。洋式と同じだ。これだと、戸が
開いても「きん隠し」もあって 恥ずかしい所を
見られる心配は無い。

村野の「ヒューマニズム」は、トイレを利用する
際の心理にまで、細かく配慮されていたのだ。

村野藤吾は語っている。「一人前の大工になるには
まず“便所”。そして“階段”をやれ。便所は
一番の安らぎの場だから」と。

不可能を可能にする魔術師「村野藤吾」

2012-02-11 09:35:49 | 村野藤吾
「村野藤吾」は 建築界の魔術師。

千代田生命ビルについて云えば、目黒の住宅街の中に
オフィスビルを建てるのだ。住宅地だから、高さ制限が
あって高層ビルは建てられない。

住民から見れば、目の前に壁が立ちふさがるような
ビルは甚だ迷惑。施主の千代田生命側からは、各社が
高層ビルを競い合う中、高くて立派な建物が欲しい。

こんな二律相反する要求に、普通の建築家はサジを
投げることだろう。

それを村野藤吾は見事にクリアさせたのだ。村野は、
建築基準法に違反せずに、住宅地に本館9階、別館
11階の中高層ビルを建てたのだ。「建築法上は千代田
生命ビルは地上4階建」と 説明すると、皆驚く。
目の前にあるのは9階と11階の建物なのだから。

謎解きは、敷地の高低差。村野は、西側の高い部分を
一階正面入り口とした。そこから下のフロアーは
「地階」なのだ。

では7階から上は?。驚くなかれ、上3フロアーは
「搭屋」。「搭屋」も同じデザインの外壁とすることで、
9階建てのビルに見せている。別館については、上
5フロアーが「搭屋」となる。玄関入口付近では
4階建ての低層ビルに見え、別館の下から見上げれば
11階建ての中高層ビル。

見る位置によって 大きくも見せ、小さくも見せる。
そんな仕掛けが随所に隠されているのだ。そんな
謎解きを一冊の本にしたいと思っているが、これも
期限無し。

千代田ビルもロケ地に

2012-02-10 22:37:47 | 村野藤吾
名古屋市役所や県庁、旧裁判所などの建物が
テレビドラマのロケ地として活用されているそうな。

中日新聞の「コント」に「名古屋市役者です」とあって
笑えた。

私が千代田生命在勤時、雑誌のグラビア写真、広告、
CM、ドラマの撮影に、千代田ビルを無料で提供した。
これもパブリシティ(広告)の一環と考えたからである。

有名なのは、「レナウン,レナウン,レナウン,
レナウン娘が,おしゃれでシックなレナウン娘が ,
ワンサカ,. ワンサカ,ワンサカ,ワンサカ,イエイ,
イエイ,イエイエイ,テニスコートに 秋が来りゃ・・・・」の
CMだ。レナウンのCMは広告史に残るものとして
たまに新聞、雑誌で取り上げられる。そのバック(背景)が
千代田生命ビルだった。

東宝のカレンダーにも毎年使われた。毎年有名女優が
撮影に来社された。その中で心に残るのは、カメラマンの
立木義浩氏と女優の高橋恵子さん。撮影前に お揃いで
菓子折を持って広報室まで挨拶にみえたのだ。普通は
スタッフが挨拶に来るだけ、女優やカメラマンが挨拶に
来ることはまず無い。以後 私は 高橋恵子のファンに
なった。

ひどかったのは、「円○プロダクション」。
貸す時間は午後5時までという約束なのに、夜8時を
過ぎても終わらない。再三忠告しても、全く無視。
とうとう深夜0時を過ぎた。警備員も戸締りができない。
とうとう「警察を呼ぶぞ」と警告して、ようやく
お引取りを願った。このことがあって、以後何年か
撮影の貸し出しは不可となってしまった。

映画界やテレビ業界が、わがもの顔に のさばっていた
時代だった。


「ジパング舎」起動開始

2012-02-10 21:54:40 | 虚無僧日記
「ジパング」で検索すると、イの一番に出るのが「ジパング舎」。
なんと片桐朋子さんが立ち上げた団体。イベントやパーティに
和楽器の生演奏をお届けするという事業。

その「ジパング舎」が、三重県の「ビジネスプラン・コンテスト」で
グランプリを受賞した。

今日、三重県津市で、その表彰式があり、「和楽器出張生演奏を
はじめとした伝統芸能アトラクション企画」というタイトルで、
片桐さんが プレゼンを行った。私のマネージャー鈴花もスタッフ
として同席した。中日、朝日新聞の取材も受け、明日の朝刊にも
載る予定。

片桐さんとは10年来のお付き合いだが、すごい才能を秘めた女性だ。
邦楽の楽譜出版最大手である「大日本家庭音楽会」に ポピュラー
のアレンジ譜を売り込み、坂本社長に認められて、自身のアレンジ
曲の楽譜やCDを出版。

坂本氏の近著『琴の近代歴史本「三代記」』にも「片桐朋子」の
活動ぶりについて書かれている。坂本社長から「太鼓判」をいた
だいたようなもの。ここまで来るのに10年、長く地道な努力が
ようやく実りつつある。

私も「ジパング舎」の登録アーティストの一人に加えて
もらった。さっそくに2、3仕事が来ているようだ。
片桐さんの尻馬に乗せていただいて、ありがたいことだ。
感謝。




今年は「閏(うるう)年」知ってた?

2012-02-10 18:47:55 | 虚無僧日記
「今年は“うるう年”。知ってた?」という質問コーナーがあり、
アンケートの結果は、

○もちろん知ってます! 75.4%

○えっ!?そうだっけ? 9.1%

○言われてみれば・・・   8.1%

○思わず携帯のカレンダー確認した 2.1%

○今知ったけど、得した気分 2.9%

恥ずかしながら、私は「言われてみれば そうだった」。
「知ってていた」が 75.4%とは 少ない気がする。
社会全体が、毎日忙しくて、先に思いを馳せない
風潮になってきたのではないだろうか。「今日一日」を
刹那的に生きているのは 私だけだろうか。

保険会社に勤務していた時、カレンダーでミスが
あった。広報部で制作するカレンダーではなく、
業者が 営業職員に斡旋したもの。できあいの
モノに社名や職員の所属・氏名を印刷する類。
そのひとつに、「閏年」なのに「2月29日」が
漏れていたのだ。

まさかである。それがお客様に渡り、2月29日が
欠落していたことで、「予定を取り違えた」と
「賠償金まで請求される羽目になった。ミスを
取り上げてのタカリだ。以来、こうしたことに
敏感になっていた私だが、今年は、もう どうでも
よくなってきたか。

Facebook 停止処分

2012-02-10 18:22:34 | 虚無僧日記
「Facebook」が開かなくなった。「あなたは、
『知らない人に友達リクエストを送っている』と
告発があった。利用規約に反しているため、
利用を停止する」というメッセージ。

「Facebook」は「友達の友達は友達」という感覚で、
何人か友達ができると、「あなたの知り合いでは?」と
共通の友達をリストアップしてくれる。

尺八を50年も吹いていると、結構知り合いは多い。
だが、最近 若い人がどんどん増えてきた。私の知って
いる人の 娘さんだったりする。私は知っていても、
相手は私のことを知らない。

それで「知らない人からのリクエストが届いた」と
迷惑メッセージが本部に送信されたようだ。
「Facebook」でも、若い人たちから無視され、
取り残されていく自分を 寂しく見つめるだけと
なったか。

と、一日落ち込んでいたら、夕刻には回復して、
見れるようになっている。いったい何だったの???

建築史に残る「千代田生命ビル」

2012-02-10 09:22:16 | 社会問題
現「目黒区役所ビル」は、昭和41年、千代田生命が
建築家「村野藤吾」に依頼して、総工費70億円を
かけて建築したものだ。

村野藤吾は、知る人ぞ知る建築界の巨匠。代表的建築は、
箱根、新高輪、宝ヶ池の各プリンスホテル。京都、東京、
名古屋の都ホテル。日生劇場、興銀本店、千代田生命本社、
大阪、東京のそごうデパート 他、300以上。

90歳を過ぎても 宝塚市庁舎、新高輪プリンスホテル、
谷村美術館、宇部興産ビルなど10以上の設計に携わって
いることにまず驚嘆する。

私は、千代田生命の広報部在席時、多くの建築家や一般の
方が見学にこられ、その案内を務めていた。ご案内した
数は1000人近くなる。海外からも来られた。それほど
有名な建物なのである。

村野氏について語れば、一晩中でも話すだけの材料を
私は持っている。

千代田生命ビルの特長は、とても書き尽くせないが、
ひとつ、外壁を全部アルキャスト(アルミの鋳物)で
覆った建築の世界初のものなのである。

それまで、ビルの外壁はコンクリートやタイル、煉瓦、
石造りだった。村野は、繊細な外観を築くために
アルミの鋳物でパーツを造り、組み立ててはどうかと
考えた。当時、アルミメーカーをはじめ、誰もが
「無理、無理、コストもかかる」と反対したという。

その反対を押し切って、みごとに完成させた。もし
あの外壁の柱をコンクリートでやっていたら、今頃は
ヒビがはいり、雨で汚れ、無残な姿となっていたこと
だろう。昭和41年(1966)の建築が、50年、半世紀を
経て、未だに「目黒区役所」として使われているのだ。

村野藤吾と対照的なライバル丹下健三の旧都庁ビル
(有楽町駅前)や赤坂プリンスホテルが取り壊された
ことを思うと、感慨一入(ひとしお)である。

村野の建築は残ったが、「プリンス」も「そごう」も
「千代田」も「都ホテル」も「興銀」も、企業の方が
次々に倒産してしまった。感無量である。