1453年の春、トルコ軍は数十万の勢力でコンスタンティノープルの城壁を取り囲む。圧倒的に兵力で劣る東ローマ帝国側は、それに対して籠城で応戦。しかし、それ以外の方法はないとはいえ、どこからか援軍がくるなら、まだ耐えることはできるだろうが、援軍の可能性はない。
とすれば、トルコ内の足並みの乱れを期待するしかないんじゃない? スルタンが戦で都を長期に留守にしていれば、謀反の噂も出てくるだろうし…。
ただ、このマホメッド2世に関しては、その可能性は低い。なぜなら、この人は自分の父親が急死し、突然スルタンの皇位を継承した時、兄弟を皆殺しにしているから。(可哀そうな金正男さんを思い出す)
それ以前も、自分のライバルになりそうな兄弟を殺すスルタンはいた。でも、このマホメット2世以降、それが当たり前になり法制化された。すごい法律だよね。長男が世襲するという儒教的な慣例が無いトルコでは、父王が亡くなると、早い者勝ちで周囲の兄弟を殺しまくって、自分が次期スルタンだと宣言した。恐ろしい。
こういう場合、実母の出自って、あまり関係なかったみたい。西欧では母親の身分が低いと、下方婚と言って正式な結婚とは認められなかった。でもオスマントルコの場合、母親が元キリスト教徒の人質であっても女奴隷であっても、さほど問題にならなかった。父スルタンの血統であればOK。(そういう所は江戸幕府のやり方に似てる。「腹は借り物」といって、かえって身分が高い母親は敬遠された。将軍の母親の身分が高いと、その実家の権勢が大きくなるからだろう。平安時代みたいに)
だから、トルコの後宮は宦官を重用して、他の血が入らないようにしたんだろう。
宦官って、どうしてトルコや中国の後宮にたくさんいたのに、日本にいなかったんだろうか? トルコと中国、どちらが先に宦官を採用したんだろうか? 日本は中国からいろんな文化や技術を輸入したけど、どうして宦官を輸入しなかったんだろうか? 輸入したけど定着しなかったんだろうか?
いろんなところで考えが道草くって、本書を読み進められない。
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