先週から、小中学生の自殺がニュースで取り上げられている。
いじめられっ子経験のある、私としては「いじめもいじめられない子>いじめる子>いじめられる子」という数的関係があり、学校の先生だけではなく親御さんの多くは「いじめもいじめられない子」か、「いじめる子」の経験しかない、と思っている。
だから「いじめられっ子」の気持ちなど分からないと思っているし、「いじめは悪いことだから、自分の周囲では、いじめはあってはいけない」という建前が、「いじめ」を隠蔽していると考えている。
「いじめ」が、良いことか悪いことかと言われれば、「悪いこと」に決まっている。
「みんなと仲良く」できることが一番だ。
でも、「みんなと仲良く」と言う時には「みんなと一緒」というコトも、含まれている場合が多い。
言い換えれば、「一つの枠組みから外れるということを嫌う」と、いうことでもあるのだ。
それは、思考だけではなくファッションや持ち物、見ているテレビ番組なども「同じ」でなくては、「仲間ではない」というコトなのだ。
反面、「個性」だとか「グローバル化」等、自分と違う価値観や思考を理解し、認め合うことが大切だといわれている。
相反する二つのことを、社会経験もない子供たちに同時に求めているようなモノなのだ。
それを指導していくのが、先生や親である身近な大人なのだが・・・。
自分にとって「都合の良い解釈」で、「個性」や「グローバル化」を使っていないだろうか?
九州の中学校であった男子生徒の自殺の背景には、担任の先生の暴言があったといわれている。
今日になって、他の生徒にも数々の暴言を授業中に吐いていたコトが、分かった。
何でも「国語の先生」らしいのだが、「国語の先生」だから「言葉のセンスが良い」とは限らない。
むしろ「国語の先生」だから「言葉のセンスを疑え」と、私はいいたい。
あくまでも、過去の経験から言っているだけのコトなのだが。
何故なら「言葉」は、「人の気持ちや思い」を伝える道具。
そのための、センスを常に磨き敏感になっていなければ、「上手に使いこなすこと」等できないのだ。
それは「テストで採点できる」ようなモノではない。
同じコトが「個性」や「グローバル化」等、違う価値観を理解し、認め合う為の基礎力なのではないだろうか?
そろそろ上っ面だけの「個性」や「グローバル化」等、声高に言うのは止めて、人の機微を察し、表現できる力を身につけさせる為には、何が必要なのか?ということを考える時期にきているのではないだろうか?
それと・・・この先生、生徒の成績を地元の特産品「苺」の品種で、ランク付けをしていたようなのだが、「苺」の品種はその食用目的によって違っている。
ジャム用の苺と生食用、製菓用では「味も形も違って当然」。
それを一まとめにしてしまう思考は、やはり「センスも想像性も知識もない」というコトをあらわしているように感じる。
いじめられっ子経験のある、私としては「いじめもいじめられない子>いじめる子>いじめられる子」という数的関係があり、学校の先生だけではなく親御さんの多くは「いじめもいじめられない子」か、「いじめる子」の経験しかない、と思っている。
だから「いじめられっ子」の気持ちなど分からないと思っているし、「いじめは悪いことだから、自分の周囲では、いじめはあってはいけない」という建前が、「いじめ」を隠蔽していると考えている。
「いじめ」が、良いことか悪いことかと言われれば、「悪いこと」に決まっている。
「みんなと仲良く」できることが一番だ。
でも、「みんなと仲良く」と言う時には「みんなと一緒」というコトも、含まれている場合が多い。
言い換えれば、「一つの枠組みから外れるということを嫌う」と、いうことでもあるのだ。
それは、思考だけではなくファッションや持ち物、見ているテレビ番組なども「同じ」でなくては、「仲間ではない」というコトなのだ。
反面、「個性」だとか「グローバル化」等、自分と違う価値観や思考を理解し、認め合うことが大切だといわれている。
相反する二つのことを、社会経験もない子供たちに同時に求めているようなモノなのだ。
それを指導していくのが、先生や親である身近な大人なのだが・・・。
自分にとって「都合の良い解釈」で、「個性」や「グローバル化」を使っていないだろうか?
九州の中学校であった男子生徒の自殺の背景には、担任の先生の暴言があったといわれている。
今日になって、他の生徒にも数々の暴言を授業中に吐いていたコトが、分かった。
何でも「国語の先生」らしいのだが、「国語の先生」だから「言葉のセンスが良い」とは限らない。
むしろ「国語の先生」だから「言葉のセンスを疑え」と、私はいいたい。
あくまでも、過去の経験から言っているだけのコトなのだが。
何故なら「言葉」は、「人の気持ちや思い」を伝える道具。
そのための、センスを常に磨き敏感になっていなければ、「上手に使いこなすこと」等できないのだ。
それは「テストで採点できる」ようなモノではない。
同じコトが「個性」や「グローバル化」等、違う価値観を理解し、認め合う為の基礎力なのではないだろうか?
そろそろ上っ面だけの「個性」や「グローバル化」等、声高に言うのは止めて、人の機微を察し、表現できる力を身につけさせる為には、何が必要なのか?ということを考える時期にきているのではないだろうか?
それと・・・この先生、生徒の成績を地元の特産品「苺」の品種で、ランク付けをしていたようなのだが、「苺」の品種はその食用目的によって違っている。
ジャム用の苺と生食用、製菓用では「味も形も違って当然」。
それを一まとめにしてしまう思考は、やはり「センスも想像性も知識もない」というコトをあらわしているように感じる。