日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

ライトアップと街路灯-街路灯は街の間接照明-

2007-10-20 22:03:50 | アラカルト
以前から拙ブログで指摘しているのだが、街中のライトアップは「広告的に効果的」なのだろうか?
京都や奈良の寺院のライトアップは、確かに幻想的で幽玄な世界を作り出している。
それが、観光の目玉の一つとなっている。
先日奈良に遊びに行ったとき、ライトアップされた春日大社の大鳥居、興福寺の五重塔など確かにきれいだった。
だが、街中のライトアップは何があるのだろう?と考えてしまうのだ。
東京タワーのライトアップが映えるのも、周囲の暗さがあってのことだ。
どこもかしこもライトアップでは、その効果は半減されてしまうと思うのだ。
それだけではなく、そこに使うエネルギーは無駄ではないだろうか?
それよりも、もっと優先させるべき「灯り」が、あるのではないだろうか?

先日起きた寝屋川市の、女児殺害事件。
凄惨な事件で、一日も早い解決を望んでいる。
そして、ここ数年このような事件が多発している。
「力が弱い」というだけで、その犯罪のターゲットとされ、命をおとさなくてはならないというのは理不尽だし、あってはならないことだ。
このような犯罪現場に共通しているのは、街路灯などがとても少ないということだ。
言い換えれば、「犯人が隠れやすい場所が多い」ともいえるのではないだろうか?
華やかな街中のライトアップよりも「優先させる灯り」というのは、街路灯なのではないだろうか。

以前、「コンビニは、町の安全ステーション」ということを、言われたことがあった。
コンビニの明かりが、暗い住宅地を照らし、緊急時の避難場所となること言われた。
それだけ「街の灯り」は、大切で安心を人に与えるモノだと思うのだ。
その「街の灯り」が、肝心要な場所にないのだはないだろうか?
ライトアップのような華やかな灯りは、必要はない。
間接照明のような、人に優しく温かみのある安心感のある「灯り」が必要なのだ。

費用などの問題だけではなく、環境という点でも今は様々な「灯り」がある。
風力・太陽光発電の街路灯が、使われるようになってきた。
このような「灯り」こそ、静かな住宅地に必要なのではないだろうか?
地域の治安・安全というだけではなく、このような住宅地を商区にもつ大手スーパーなど、積極的に提供することを考えてみてはどうだろう。
その地域社会の一員としての責任を果たすだけではない、社会貢献があると思うのだが。


興味深い女子高校生の会話

2007-10-19 21:52:07 | アラカルト
時折、考え事をするためにファミリーレストランを利用している。
ランチタイムや週末などを除けば、比較的ゆったりとした席で静かに考え事ができる空間でもある。
実際、ノートPCを持ち込み仕事をしているサラリーマンの姿を、普通に見かける。
考え事を書き留めたりするのに夢中になり、夕方近くまで過ごしてしまうこともあるのだが、そんな時には大体部活帰りの高校生たちと一緒になったりする。

男子の場合、話題が部活のコトとか学校の出来事など、比較的プライベートに近い内容が多いようなのだが、女子の場合テレビ番組の批評から、雑誌に掲載されているメイクアップテクニック、彼氏のコトなどバラエティに富んでいる。
そればかりか、彼女たちの話はよく飛ぶ。
ついさっきまで、テレビドラマの話をしていたかと思っていると、いきなり福田総理の話になっていたりする。
そんな場面に、先日も出くわした。

「私たちが、こんだけの人数でココに座るとうるさくない(語尾上げ)」と、言いながら6、7人の女子高校生たちが、つい立を隔てて私の席の隣に座った。
「亀田ってさ~、周りの大人が悪いよね~」という話から始まり、
「それにさ~、マスコミが勝手に持ち上げておきながら、今じゃ批判って言うのもおかしくない(語尾上げ)」、
「でもさ~、私たちの知っていることって、そのマスコミ情報じゃん。自分たちの都合ばっかやってて、何を信じて良いのか分からなくさせているよね」
などと話している。
彼女たちなりに、(案外)シッカリとしたメディア・リテラシー力を持っているではないか?

感心しながら自分の考え事をまとめていたら、突然話が飛んで「テロ特措法ってさ~、説明聞いてもわかんないよね(語尾上げ)」ということを、話しているではないか!?
「エ、エ、エッ、そんなことにも女子高校生が、興味あるの????」とやや訝しく思いながら彼女たちの会話を聞いていると、新聞やニュース番組をシッカリ読んでいるようなのだ。

彼女たちは、市内の有名進学校の生徒たちではない。
ごくごく普通の高校生なのだ。
時折飛ぶ話には、ファッションのことやメイク法など「いかにも今時の女子高校生」という話だってしている。
ファミレスで、たわいもない話をしているのだがその話題性・社会性の豊かさには興味を覚えたし、疲れ果て、亀田親子とプロ野球(主にセリーグ)かゴルフの話題中心のオジサンよりも、メディア・リテラシーをシッカリもっていて、自分の考えをまとめ・話せる力があるのではないか?と、感じた。

もし時間があれば、平日夕方のファミレスでの女子高校生の会話に耳を傾けて欲しい。
意外な発見があると思う。




婦人科と産婦人科-医師不足を感じるこの頃-

2007-10-18 21:18:14 | 徒然
今日の毎日新聞に、毎日世論調査:全国の6割が「医師不足」認識という記事が掲載されている。
実は、しばらく前から体調が気になっている。
といっても、風邪を引いたとかというのではない。
いわゆる婦人科系の病気が、気になっているのだ。
今月は「乳がんを知る=ピンクリボン月間」と言うコトもあり、「一度婦人科で検査をしてもらおうかな?」という気になっている(乳がんの心配ではなく、他のコトでの心配)。

我が家の近所にある救急指定の病院は、内科・整形外科・外科など。
入院施設などがない、医院でも内科や整形外科などが多く、(産)婦人科となると激減してしまう。
仕方なく、婦人科を探そうと思い、ネットで調べると婦人科そのものが少ないように感じるのだ。

「受診科目が分からなければ、とりあえず内科を受診」といわれるようだが、婦人科系のコトを内科で伺うというのも気が引ける。
やはり婦人科に行くほうが、ベストな選択のように思うのだ。
そして「婦人科」とある医院のHPをみてみると、真っ先に飛び込んでくる文字は「妊娠・出産・不妊治療」というところが多い。
私のように、妊娠も出産もまして不妊治療などとは関係がないとなると、ますます減ってしまう。
医大などの大きな病院に行けばよいのかも知れないが、そうなると1日がかりとなってしまうのが想像できてしまい、それだけで行く気がなくなってしまうのだ。

妊婦さんがたらい回しされ、胎児や妊婦さんが亡くなったりする事件があったが、現実問題として、本当に医師が少ないのでは?と我が身のコトとなって改めて感じる。
まして私が受診したい婦人科の診療内容などは、最近になって「専門外来」ができるようになってきたというコトもあり、病院探しだけで、行く気が失せてしまうのだ。
「体調が気になる」といっても、寝込むようなコトではないし、明らかな症状が出ているわけでもない。
「そろそろ、年も年だから・・・」で、済まされてしまうような体調変化だからだ。

毎日新聞の記事内容とは、個人的印象は違うのだが「医師不足」といっても、激務を強いられる科目の医師が全国的に極端に不足していて、都市部の激務とは関係のない科目ではそれなりに足りているのではないか?と感じてもいる。

できれば、(あの、女医でタレントの西川女史のような方ではない)女性専門診療科の女医さんが、増えてくれると良いのに・・・と、真剣に思うのと同時に、予防医療に主眼を置いた「ホームドクター」と、治療が主体となる専門診療科が連携できるようなシステム作りがあれば、もっと良いと思うのですが・・・いかがでしょうか?舛添大臣。


無駄遣い内閣だった?安倍内閣

2007-10-16 21:45:36 | 徒然
毎日新聞のWEBサイトに、美しい国づくり:企画会議に4900万円…2回で解散という記事が掲載されている。
「安倍内閣が、無駄遣いをしていた」と言い切るには、乱暴かもしれない。
だが、わずか2回しか開かれていない会議に4900万円という額は、普通では考えられない。
1回当たり2450万円という計算になる。
しかも、人件費1600万、事務所費3100万、通信・交通費200万で、主な実績が1回行ったアンケートだけ。

一般企業の場合、新規プロジェクトのために新しい事務所を借りることはしないだろう。
文房具やコピー用紙などの消耗品購入、コピー機などのリース料を考えても、普通の額ではない。
そのための人材を、雇用することも無い。
有識者に対しては、それなりの「謝礼」を出すことはあるとは思うが、それにしても余りにも高額な経費だ。
1回行われたアンケートにしても、事務所スタッフが様々な方法で自らが行ったわけではないだろう。
D通とかH堂といった、広告代理店→リサーチ会社に丸投げアンケートだったのではないだろうか?
今では、インターネットや(自動)電話アンケートなど、比較的安上がりにできるアンケート方法もある。
だが、この経費の使い方を見る限り広告代理店→リサーチ会社丸投げの、高額なアンケートだったのではないか?と想像できるのだ。

安倍さんは、在任中しきりに「美しい国」という言葉を使っていた。
その実態は、生活・地域などの格差が広がり、「勝ち組・負け組」という乱暴な2極化社会を加速させただけだった。
安倍さんの言っていた「美しい国」は、先祖帰りしたような家族制度だったり、個人の価値観よりも社会(といっても政府)の価値観を押し付けるような印象しかなかった。
その為に4900万円も投入され、たいした実績もないまま解散というのは、単なる無駄遣いでしかない。

他にも、似たような政策企画会議や諮問委員会などが複数あったような記憶があるのだが、(一般生活者の金銭感覚からすれば)膨大な経費を使い、目立った実績を残すことなくウヤムヤのうちに解散しているのではないだろうか?
これが、私たちの税金だとすると・・・年金の原資確保のため消費税の値上げが必要といわれても、納得はいかない。
この程度では、年金や介護医療保険の補填にもならないと、開き直るような政治家さんもいるのかも知れないが・・・。
口に出さなくても、そう思っている政治家や官僚はいるような気がするのだ。


ルールがあるからスポーツ

2007-10-15 22:46:29 | スポーツ
先日来から、話題になっている「亀田VS内藤」というボクシングの試合。
実際の試合は、見ていないのでどのような試合だったのかは知らない。
そもそも、ボクシングのルールそのものを良く知らないので、世間的に「問題の多い試合だ」といわれれば、「そうなんだ・・・」と思う程度なのだ。
そんな私がテレビのニュースなどで見て、「それは反則だろう!!」と分かるような酷い試合だったようだ。

その試合の処分が、今日決まった。
亀田家に対する処分が、厳しいとは思わない。
なぜなら「反則を積極的に促すようなトレナーやセコンド」だったからだ。
この処分が下される前対戦相手の内藤選手が、日本ボクシング協会に要望書を提出している。
その時「ルールがあるから、ボクシングなんです」という、趣旨の発言をしていた。

このコトバは、「的を得ている」というだけではなく、スポーツの基本的なあり方をよく現しているように思う。
ルールが無ければ、単なる殴り合いだろう。
それは、何もボクシングだけではないように思うのだ。
最近の大相撲を見ていても、「それは反則なのでは?」と思うような、取り組みがあった。
今モンゴルに帰国している朝青龍の取り組みに、その傾向が多く見られるように感じたのだが、「勝てば官軍」のような雰囲気があったように感じていた。
確かに横綱なのだから、強くなくてはいけない。
だからといって、反則ギリギリのような取り組みをしても良いのだろうか?
そういう問いかけをしたいのだ。

考えてみれば、亀田家も朝青龍も「ヒール役」のような雰囲気をもって、そのスポーツを注目させてきた。
それにメディアが便乗し、身の丈以上の(強い)イメージを作ってきたのではないだろうか?
大相撲の場合、「若貴ブーム」が去り観客動員が減ったところに朝青龍が登場した。
その当時の朝青龍は、本当に強かったのだと思う。
だからこそ横綱になれたのだろう。
しかし、その後の朝青龍の取り組みは横綱としての取り組みではなく、「勝つために何でもアリ」の取り組みになってしまったのではないだろうか?
ボクシングも以前のような人気は無く、他の格闘技にファンを取られてしまった。
そこへ「大口たたきのヤンチャ」という「キャラ立ち」している、亀田(興毅)選手が登場した。
取材をしたら一家揃って「大口たたきのヤンチャキャラ」亀田家は、テレビメディアのキラーコンテンツを特に持っていなかったテレビ局にとっては、飛びつきたくなるほど魅力的だったのではないだろうか?

「スポーツの魅力とは?」と考えた時、「フェアであること」は重要なコトだろう。
昨今人気の「「(スポーツ)王子」たちは、礼儀正しく・フェアな印象がある。
彼らを引き立てるための「ヒール役」は、必要かも知れないが、それはあくまでも「スポーツの土俵・ルールがあってのコト」だろう。
メディアも含め「ルールがあって、スポーツ」だということを、もう一度考える必要があるように思うのだ。

「赤福」製造日偽装の新たな展開

2007-10-14 22:18:17 | アラカルト
「赤福」の製造日偽装は、新たな展開をし始めたようだ。
今日の中日新聞のWEBサイトに、食衛法上「問題なし」 消費者とズレ 「赤福」偽装で三重県と言う記事が、掲載されている。

記事を読むと、約10年ほど前、「赤福」から伊勢の保健所に「衛生上問題は無いか?」と言う確認をしたところ、「問題なし」という回答を受けていたと言うのだ。
食品衛生を管理・監督しているはずのトコロで、「大丈夫」というお墨付きをもらっていた、と言うのはこれまでの「不二家」や「白い恋人」などとは大きく違うところだろう。
まさか「赤福」だから「問題なし」と連絡してしまったわけではないとは思うのだが、どうも素人=生活者からすると解せない。

記事中にあるように、「管轄外だから」という理由で「問題なし」と連絡をしていたとすれば、一体何のために「消費期限」が設定されているのか?と言うことになってしまう。
保健所のシゴトというのは、「食中毒を出さないための、衛生管理指導だけなのか」と言うことになってしまう。
食品の衛生管理には、消費期限はとても重要なコトだと思うのだが、一体誰が「JAS法」を管理・監督しているのだろう?
実際の食品を扱わない監督官庁が、担当しているということなのだろうか?と、多くの生活者は疑問に感じるのではないだろうか?
少なくとも、私は「食品衛生・管理」の中に「消費期限」は含まれることだと考えているし、その監督・指導をするのは保健所だと考えるのだ。
実際には、農政局が「JAS法」の監督官庁で「消費期限」などの監督・指導をしているようなのだが、いくら「JAS法」は「安心の法」で、保健所は「安全」を管理・監督・指導しているというコトらしい。
とすれば、似たようなシゴトを二つの官庁で行っている、というコトになるのでは?

担当保健所のインタビューを読んでみても、理解も納得もできない生活者の方が多いのではないだろうか?
10年余り前には、余り気にされなかった「食品の安全・安心」のかも知れないが、余りにも自分たちのシゴトを杓子定規に、考えているようにしか思えないのだ。
このような発想は、「セクショナリズム・縦割り行政の弊害」と言うコトになるのだろうが、それにしても・・・生活者の今を余りにも見ていないような気がする。

企業はもちろんだが、地域行政と言うのは生活者にとって一番身近なトコロだと思うのだ。
そこで、「生活者の気持ち・考え」というモノを理解していないとすれば、一体どんなシゴトをしているのだろう?と、多くの生活者は疑問に感じるだろうし、行政に対しての不信感を募らせるばかりなのではないだろうか?

国~地方まで、行政に対して様々な不信感が、生活者の間に蔓延している。
そのことをもっと敏感に感じ取れる「感覚・感性」を、持つ必要があるのではないだろうか?






どうなる中部のグルメブランド-名古屋コーチンと赤福-

2007-10-13 22:22:29 | アラカルト
昨日、「赤福」の製造日偽装が発覚した。
「赤福」というのは、ご存知の通り伊勢神宮の門前で、餡子餅を製造販売している。
今では、「お伊勢参り」の定番土産だ。
それだけではなく、門前「おかげ横丁」
を、運営している。
単なる「伊勢のお土産」というだけではなく、地域活性化の中心企業でもあるのだ。
その「赤福」の製造日偽装と言うのは、「赤福」だけの問題ではなく「おかげ横丁」全体の今後にも影響していく程の、問題でもある。

「赤福」の製造日偽装の前に、名古屋を震撼させたのが「名古屋コーチン偽装」だ。
「3大地鶏」の一つ「名古屋コーチン」だが、最近のグルメブームでそのブランド力が一気に高まったような気がする。
実際、名古屋の居酒屋さんに行けば「名古屋コーチン」を使ったメニューにお目にかかれる。
それは、鶏肉としてだけではなく、名古屋コーチンの鶏卵を使ったデザートまでに及ぶ。
グルメではない私は、「名古屋コーチン・プリン」といわれても、普通のプリンとの差が分からないのだが、おそらく分かる人には分かるのだろう。
ただ、近所のスーパーマーケットなどではお目にかかれるような商品ではなく、デパ地下の鶏肉専門店や老舗精肉店などでしか買えない。
それらのお店には、「名古屋コーチン普及協会」の認定書が掲げられており、その品質が保証されていたと思うのだが、実は「名古屋コーチン」表示のある商品の内約2割が、偽装品だったというのだ。

「名古屋コーチン偽装」の発覚直後には、お米のブランド調査が行われた。
昨今のグルメブームで、生活者は「本物志向」が強まっている。
それを逆手にとるように、ブランドに名を借りた偽装が横行している。
ファッションブランドとは違い、素人目には本物かどうか判らないと言うことが分からない。
だからこそ、ブランド名は「信頼の証」となっているのだ。

「赤福」の偽装と「名古屋コーチン」の偽装は、同じコトではない。
しかし、生活者の信頼を裏切っているコトには変わりはない。
これから先、この二つのブランドの復活は中部地区の食の安全の象徴として、今後注目されていくだろう。
だからこそ、二つのブランドに関わる人たちは今よりも、生活者のコトを考えなくてはいけないのだ。

マーケターと言うシゴト

2007-10-12 11:27:40 | アラカルト
現在発売されているGQに「完売も、在庫も、この人次第。日本一のマーケッターは誰だ!?」と言う特集記事が掲載されている。
見出し(=記事のボディーコピー)には、「会社内でのスーパースター」のようなコトが書いてある。
しかし、企業において「スーパースター」などいないと考えている。
まして、マーケターと言うシゴトは決してカッコよいモノではない。

就職活動中の学生さんなどがこの記事を読むと、マーケティングと言うシゴトに憧れを持つのかも知れない。
現役マーケターとしては、「辞めておきなさい」と言いたい。
なぜなら、イメージするほどカッコよいシゴトではないし、責任はとても重い。
どちらかと言えば、「縁の下の力持ち」的なシゴトだからだ。
それも「自分の時間とお金と労力」を、相当注ぎ込む必要がある。
あらゆる面での、自己投資が必要なのだ。

マーケターとして必要なモノ・コトとして挙げられるのは「世代を超えた、コミュニケーション力」や「生活者のワクワク・ドキドキを見つけられる観察力」の他「発想力」、「思考力」といったことが最低限必要だろう。
企業の収益は、マーケティングの4Pと言われる「製品・価格・売場・宣伝」などが市場と合致し、市場から理解されてはじめて生まれるのだ。
マーケター一人の力で、ヒット商品が生まれるわけではない。

会社員時代、当時の上司から「自分の企画で、目標以上の数字が挙げられたとしても、それは企画が良かったからではなく、周囲の協力があってできたことだと思え」と、幾度も言われたことがあった。
目標に満たないときには、「営業の力不足ではなく、自分の企画力のなさだ」と言われたコトもあった。
幸いなことに、「これを経験に、もっと良いモノを考えろ」と言われたが。
マーケターのシゴトは「社内のスーパースター」どころか、「(責任と評価の関係から考えれば)割の合わないシゴト」かも知れない。

他にも、自分の企業の持っている「企業文化」や「社会的使命」、「経営理念」などを十分理解する必要がある。
なぜなら、それらが「企業」の総ての源泉となっているからだ。
それらを理解しなければ、「企業ブランドの構築」などはできないし、企業が社会の一員としての役目を果たすこともできない。
その謙虚さも重要なコトなのだ。

おそらくマーケターのシゴトというのは、サッカーで言うならゴールに結びつく2、3前のパス出しをするボランチかもしれない。
野球で言うなら、キャッチャーだろうか?
試合全体を見渡し、要所要所でキッチリ押さえ、企業全体の収益と言う名の成果をあげる影の役割なのだ。
決してフォワードやピッチャーのような、華やかな存在ではない。
そのための冷静さや客観性も、大切な要素だろう。

企業内に、スター選手は必要ない。
ましてマーケターと言う存在は、目立ってはいけない。
常に、お客様である生活者の今ある姿を見つめ、将来像を描ける創造性と優しさ、あたたかさをもって、幸せを提供するために考え貫く役割でなくてはいけないのだ(と、私は考えている)。




社会的責任の不買運動?-ミャンマー産宝石不買-

2007-10-11 22:02:30 | ビジネス
毎日新聞のWEBサイトをチェックしていて、気になる記事があった。
それが、カルティエ:ミャンマー産宝石は不買だ。

日本では余り知られていないかもしれないが、インドやスリランカ、ミャンマーなどはルビーやサファイアなどの宝石の産地である。
それも比較的良質な宝石が、産出される地域だと言われてる。
ダイアモンドは、デビアス社がその販売価格などを仕切り、市場価格を半ば統制しているのに対し、ルビーやサファイアなどはそのような企業が存在しない。
実際、日本で活躍するインド人の宝石卸商は少なくない。
カルティエなどヨーロッパの有名宝石店も、そのような宝石卸商を通じて原石を購入しているはずだ。

そして、ミャンマーで起きた民主運動は、このような政治とはまったく無関係のように思われる企業や団体にも、影響を及ぼし始めているということに、興味をもってしまう。
おそらくミャンマーの軍事政権にとってこのような動きは、経済的な打撃を受けるに違いないだろう。
と言うのも、宝石の採掘権は石油の採掘権ほどではないにしても、それなりの大きな利益を国に与えているはずだらからだ。
主だった産業が無いミャンマーにとって、このような地下資源による利益は大きいのではないだろうか?
今回のカルティエやティファニーの行動は、世界の宝飾業界にも影響を与えるだろうし、カルティエの狙いだろう。
それが、カルティエというブランドの力だとも言えるし、そのブランド力を理解しているからこそ、カルティエらしい軍事政権に対する批判という「社会的責任」なのではないだろうか?

「企業の社会的責任」ということが言われ始めて大分立つが、日本企業の場合「環境問題」などに対するコト・モノが圧倒的に多いように思われる。
しかし、その企業の持っているブランド力や社会的影響力を考えれば、「環境問題」だけではないと言う気がする。
確かに「環境問題に取り組んでいる」というのは、生活者に対してアピールする力は強い。
だが、今回のようなカルティエのような、「社会的責任」もあるような気がする。
ミャンマーに人たちにとって、何が幸せなコトなのか?
それを考えた「社会的責任」のあり方として、今回の不買運動はアリだと思うのだ。




政治家と庶民の感覚

2007-10-10 22:13:41 | 徒然
今日、夕方のテレビニュースで国会の様子が取り上げられていた。
連日のように、国会のニュースが取り上げられるようになったのは、いわゆる「ねじれ国会」だからだろう。
その中で福田さんと岡田さんのやり取りの中で、気になることがあった。

民主党の岡田さんは、環境問題について追及していた時だった。
その答弁で、福田さんは「大量生産・大量消費という生活を改めていかなくてはいけない」と言ったり、「(地球温暖化ガス半減は)後40年後のことですよ」と言い放ったりしていた。
この答弁を聞いて「福田さん、チョッとズレていない?」と、感じた方はいないだろうか?

確かに現在「MOTTAINAI」という考えや、リサイクル、レジ袋の有料化などが起きるというのは「大量生産・大量消費」というコトにもなるのかも知れないが、生活者の多くは「大量生産・大量消費」という感覚でモノを購入していないのではないだろうか?
もし「大量生産・大量消費」が現実としてあるのなら、小売の前年比割れと言うことは無いだろう。
むしろ「大量消費化」されているのは、人なのではないだろうか?
リストラと言う企業の都合で、職場を追われる人。
非正社員の増加やインターネット難民と言う言葉に象徴されるような、企業にとっての都合の良い雇用形態の一般化などだ。
そんな社会状況で「商品の大量消費」と言うコト自体、難しいのではないだろうか?

また、先日新聞各紙に「環境税導入についての意識調査」が掲載されていた。
この調査では、約4割の人が「環境税導入」に好意的だ。
もちろん「環境税といっても、何に使われるのか分からない」という意見もあるのだが、それでも、90%以上の人たちは「環境問題に対しての関心度」は高い。
この意識調査を実施し、発表したのは内閣府である。

「福田さんの」と言うべきなのか、「政治家の」と言うべきなのか分からないのだが、様々な面で「感覚のズレ」というモノを感じる答弁だった。
反面、政治資金作りにはとても熱心だ。
領収書の書き換えなどは、当たり前。
同一領収書の使いまわしや、問題のある会社からの高額寄付を受けていたりする。
この人たちが「国民のみなさま」と、いくら国会や選挙と言う場所で言われても、それは「耳障りの良い、その場しのぎ」だと思っている生活者が多いのではないだろうか?

政治家のズレ感、なんとかならないモノだろうか?