![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/78/4d0f35f7cff097da7616ffd9b5a6e94e.jpg)
残念なことに中・近世頃に破壊されている。天井石は勿論、側壁、奥壁の殆どの石が持ち去られている。腰石が大きすぎて持ち去ることが出来なかったのは不幸中の幸いであろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/aa/0983288a21f8b42373f09825c10dd405.jpg)
後室(玄室を指すものと思われるが)の左右、奥には其々文様が残されている。
今でこそ鱗紋と言う三角形と、同心円文様である。九州に存在する装飾古墳で見ることの出来る文様(幾何学文様)がすべてと言っていいほどここで見ることが出来る。
換言すれば 熊本県内、福岡県内、この両県に跨る地域で共通の文化が栄えていたと言うことになるだろう。6世紀、装飾古墳の空白地帯であったこの地域で他地域に似通った装飾が発見されたことに大きな意義があるものと思われる。