人との出会いは「縁」と言うもので結びついた摩訶不思議なものであると感じる時がある。
それは本との出会いにも同じことが言えるのではないだろうか。そしてそれは漫画においても同じである。
漫画と私の出会いと歴史を順番に語っていきたいのだが、今日は8月6日なのでやはりこの本の話をさせていただきたいと思う。
ある惑星の悲劇 (1983年) (ほるぷ平和漫画シリーズ) | |
草河 達夫,旭丘 光志 | |
ほるぷ出版 |
私は小学校のある時まで、おかっぱと言うヘアスタイルをしていた。言うなればサザエさんちのわかめちゃんカットのようなものだ。本音を言えばダサいなと思っていたと思う。もちろん、その頃は「ダサい」なんて言葉は誕生していなかったわけだけれど、しかしどんなに綺麗におかっぱに仕上げて貰っても、くせ毛が目立たぬくらいにある私の後頭部は、いつも髪の毛がくるくるとうねっていて、おかっぱ頭と言うよりいつも雀の巣と言う印象の子供だった。ゆえに自分の髪型に対してのこだわりがあまりなく、ある時まで親に床屋に行きなさいと言われたら行くと言う幼稚なお子様だっと言うわけだ。
そして私はその床屋に行くと言うことも、実は好きな子供だった。なぜなら床屋は顔剃りもしてくれてさっぱりするし、何よりも待っている間は少年漫画雑誌が読めるからだった。
そこで手にした雑誌・・・・どうも「少年マガジン」だったみたいだが、そこに特別寄稿のように載っていた「ある惑星の悲劇」と言う漫画に興味を惹かれたのだった。そのタイトルから、当時はSFと言う言葉も知らなかったが、そのような空想科学物語だと思ったのだった。
だけれどその「惑星」と言うのは、私たちが住んでいる地球の事だった。1945年、8月6日にその地球に人類初の原子爆弾が落された。その記録・・・・。
この漫画の作者、旭丘光志がある時薄暗い古本屋の片隅に埋もれるようにあった、自費出版の本の、やはりタイトルが気になって手に取った所から始まるこの物語は、読み手である私たちをあっという間に作者の目線に引っ張っていった傑作だと思う。
そしてその内容に、私は物凄いショックを受けたのだった。
思わず顔をあげて、あとどれぐらいで自分の番が回って来てしまうかをチェックする私。
自分の番が終わった後も、また待合いのソファに戻って漫画を読む人なんかいないからだ。
その頃の私が、原爆の事を知っていたのか知らなかったのかと言う記憶は定かではない。小学校では歴史は6年生で習うので学校でと言うことはなかったと思うが、母は戦争映画はしっかりと私たちに見せようとする人だったので、先の戦争でアメリカが使った新型爆弾の事は知っていたかもしれない。
だけど私は、その時まで明らかに知らないで、その漫画で知った事実があった。
つまり、人の皮膚は焼けただれ肉から離れるとすべて手の指の方に垂れていき、人々はまるで幽霊のように手を前にと突き出して歩く。原爆の最初の難を逃れた作者(草河達夫)が、その後見たモノは、そのように手を前に突き出し水を求めて川に向かう死の行進だったと言うー。
なんと言う恐ろしい爆弾だったのか。
子供だった私には、本当に恐ろしく感じ鳥肌が立ちブルブルと震えた。
そして家に帰った私は真っ先に母に
「お母さん、あのね・・・・。」とこの話をせずにはいられなかったのだった。
だけど本当は残り数ページを残して、私はおじさんに呼ばれてしまったのだ。でも私は、その時異例の事をしてしまったように思う。「ように思う。」と書いたのは、何しろあまりにも昔の事なので、記憶がすっきりとしていないからだ。その異例の事とは、自分の髪のお手入れが終わった後も、そこのおじさんに頼んで、その漫画だけ最後まで読まさせてもらったように思うのだ。
最後まで読まさせてもらったけれど、その内容の記憶が残っていないのも、やはりあまりにも昔の出来事だからなのだと思う。
しかし私の中にはその漫画と出会ったと言う記憶がしっかり残った。
人の思考の構築には、その人が出会ったものをいかに血とし肉にするかによると思う。
この作品は、私の中の反戦を思う心を作ったひとかけらの肉である。