森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

今年の桜を・・・・

2020-03-27 02:19:45 | 梢は歌う(日記)
 
「Sky presents 藤原竜也のラジオ」10

※ 朝起きたら、喉の奥が痛くて、なんだか一日中ぐずぐずしていました。ようやく夕方近くになってからやっと元気が出てきて、「やるべきこと」の一つをやりにようやくお出掛けしてきました。......
 

 

上の囲みは昨年の3月26日に投稿したものなんです。

この内容の中に

>「今年の桜は見る事が出来ても来年の桜は見る事は出来ない。」

私、何気なくても、こう言う事を言われるとドキドキするのよね。

この言葉って、私の父が最後の花見で言った・・・・・。まあいいや。

ただ、今年の桜と来年の桜は違う。同じ桜を見る事は出来ないと言う事を言ったのね、きっと。

 

と言うくだりがあるのですが、毎年桜の花を見るたびに、父の最後の春になってしまった町会での花見の席で言った

「今年の桜は見る事が出来ても来年の桜は見る事は出来ない。」と言うその言葉を思い出してしまうのです。

 

「大丈夫。また一緒に見られるよ~!!」と言う励ましのヤジが飛んで来たとか。だけど、父の言葉通り、彼は翌年の桜を見る事が出来ませんでした。

花は毎年同じように咲くけれど、見ている私たちは同じようでいながら同じではないのですよね。

この話は違う記事にも書いた事があるのですが、何回でも語りたい、私の中の父の大切な想い出です。

 

またその回の竜也さんは

>「演じる事は日々を生きると言う事。日々新しい鮮度と感覚を求めて。なぞりはしない。毎日同じ事をやっているわけではないんだよね。」

と言うようなことを言っていて、思わず彼の演劇に対する思いまでも感じてしまったのでした。

だけど毎日同じような事をしているように見える私たちの暮らしでも、実はそうではないでしょう。

私たちにとって、明日は常にまだ始まっていない新しい舞台のようなものですね。

 

ところでつい先日、私は父の夢を見ました。

まだ初老の若い父はお布団で寝そべっていました。初老の人を若いというのも変ですが。そしてその横にはやはり初老の今よりはずっと若い母が横たわっていました。二人はそこで体を休めて他愛のないお話をしていたのです。だから私もその横に寝そべって、二人に寄り添いました。

父と母と子供が寝そべってお喋りをする。こういうシーンは、どこのうちにもある場面だと思うのですがどうでしょうか。

いや、どこのうちでもすると言うわけではないかも知れません。夫殿が、あの姑と舅の横に寝そべってお喋りをしていた姿など想い描く事など出来ませんから。

私のうちはと言うよりも、私はそういう事をよくやる子供でした。

だから夢の中でも、

「最近さあ・・」と何かを語っていました。

「まったくさあ」とか・・・。

なんお話をしていたのかしら。

コロナの話とか、自治会の話とか、見た映画の話とかしていたのかも知れません。

父も笑いながら何か言い、母も「本当よねぇ」と相槌を打ちました。

とっても幸せな気持ちになって、私は父の手を取りその手に顔をうずめ言いました。

「なんで死んじゃったかなぁ。ずっと生きていれば良かったのに。」と。

すると母も体を少し起こし、父の肩に顔を乗せ、私を見ながら

「本当にねぇ」とまた言ったのでした。母は溌剌とした顔をして綺麗でした。

 

楽しくて私はとっても幸せな気持ちで朝を迎えました。

 

手に取った父の手も暖かかったような気がしたリアルな夢でした。

ああ、楽しかったナぁと、私はまた思いました。

 

父は生きていて私とお喋りをし、母はまだ若くて私のお喋りを聞いていてくれる・・・・・・。

死ぬも老いるも生まれてきた時からのお約束。逃れられない運命で、時を止める手段を人は持たないのです。

 

幸せな朝でした。

だけど目が覚めて、私はシクシクとその夢を思って泣いたのでした。

 

 

 

 


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