(岐阜県羽島市竹鼻町 県指定天然記念物)
竹ヶ鼻城跡に隣接して、浄土真宗の竹鼻別院が存在する。
竹鼻別院は、明治19年から呼ばれるようになった院名である。嘉禎元年(1235)親鸞が関東からの帰途、三河の柳堂で教化したとき、葉栗郡門間庄、河野通勝等九人の者が教えを受け、木瀬(岐南町三宅)に草庵を結び親鸞を迎えた。これを「河野九門徒」と言い、濃尾真宗門徒の始まりであり、この草庵が竹鼻別院の前身とされる。
文明二年(1470)蓮如巡化の際、洪水で流れた草庵を再興し「河野御坊」と名付けた。その後河野御坊は専福寺と改称されたが天災、兵火等で落ち着くことはなかった。慶長九年(1604)教如はその功に報い、寺を「御坊」とし新加納村からこの竹ヶ鼻村に移し、五十四ヶ寺を配下にした。竹鼻の下町にあった「御坊専福寺」は、再度の火災に遭い現在の地に落ち着いたのは、宝暦十年(1760)のことであった。
竹鼻別院の境内には、樹齢250年から300年とみられるノダフジがある。このフジは複数の株から広がる藤棚ではなく、一株から広がる凡そ140坪のフジである。
毎年、シーズンには「美濃竹鼻まつり・ふじまつり」が開催される。このときも、様々なイベントもあわせて催されていた。
この後は、竹鼻の町並みを漫ろ歩いた。
(関連記事:竹鼻街道 竹鼻大仏)
(河野門徒関連記事:下印食 三宅 黒田 円城寺)
竹ヶ鼻城跡に隣接して、浄土真宗の竹鼻別院が存在する。
竹鼻別院は、明治19年から呼ばれるようになった院名である。嘉禎元年(1235)親鸞が関東からの帰途、三河の柳堂で教化したとき、葉栗郡門間庄、河野通勝等九人の者が教えを受け、木瀬(岐南町三宅)に草庵を結び親鸞を迎えた。これを「河野九門徒」と言い、濃尾真宗門徒の始まりであり、この草庵が竹鼻別院の前身とされる。
文明二年(1470)蓮如巡化の際、洪水で流れた草庵を再興し「河野御坊」と名付けた。その後河野御坊は専福寺と改称されたが天災、兵火等で落ち着くことはなかった。慶長九年(1604)教如はその功に報い、寺を「御坊」とし新加納村からこの竹ヶ鼻村に移し、五十四ヶ寺を配下にした。竹鼻の下町にあった「御坊専福寺」は、再度の火災に遭い現在の地に落ち着いたのは、宝暦十年(1760)のことであった。
竹鼻別院の境内には、樹齢250年から300年とみられるノダフジがある。このフジは複数の株から広がる藤棚ではなく、一株から広がる凡そ140坪のフジである。
毎年、シーズンには「美濃竹鼻まつり・ふじまつり」が開催される。このときも、様々なイベントもあわせて催されていた。
この後は、竹鼻の町並みを漫ろ歩いた。
(関連記事:竹鼻街道 竹鼻大仏)
(河野門徒関連記事:下印食 三宅 黒田 円城寺)