(岐阜市水主町)
荒田川沿いの微高地に築かれた、土岐氏川手城の支城である。
明応四年(1495)城田寺城主土岐成頼は、四男元頼に家督を継がせるため船田城主石丸利光に元頼を擁立させ、船田合戦を起こした。
一族の石丸利定、秀道らが斎藤勢の西尾直教を破り加納城を攻めたが、反撃に遭い討死した。間もなく斎藤勢が味方の古田氏を攻めたため、一族の石丸正信、馬場氏、国枝氏ら援軍を送ったが敗れた。石丸利光は城を焼き捨て、元頼と共に南近江の六角氏のもとへ敗退、成頼は不本意ながら嫡男である政房に家督を継がせることになった。然し、石丸氏へ味方した利光の娘婿である織田寛定を攻めるため、尾張へ布陣していた斎藤勢の隙をついて、子の石丸利高が細川氏、六角氏、北畠氏らの後援を得て美濃へ進行した。元頼を総大将、利藤の子毘沙童を副将として二軍に分けて進軍したが、戦況が変化したため利高の進軍を止めさせようとするも、利高はこれを拒んだ。そのため、津島から竹鼻を通り、墨俣で出迎えていた斎藤勢を破り、成頼の住む城田寺城に向かった。然し、斎藤氏に味方した岩倉城主織田寛広と斎藤妙純の娘婿である朝倉貞景らに城田寺城を包囲され、援軍として駆けつけた六角氏も斎藤方の京極氏に破れ降伏した。その後、斎藤勢の奇襲に合い、利光、利元、そして元頼も自害した。城田寺の舎衛寺前には「船田合戦終焉之地」の碑が建てられている。
荒田川沿いの微高地に築かれた、土岐氏川手城の支城である。
明応四年(1495)城田寺城主土岐成頼は、四男元頼に家督を継がせるため船田城主石丸利光に元頼を擁立させ、船田合戦を起こした。
一族の石丸利定、秀道らが斎藤勢の西尾直教を破り加納城を攻めたが、反撃に遭い討死した。間もなく斎藤勢が味方の古田氏を攻めたため、一族の石丸正信、馬場氏、国枝氏ら援軍を送ったが敗れた。石丸利光は城を焼き捨て、元頼と共に南近江の六角氏のもとへ敗退、成頼は不本意ながら嫡男である政房に家督を継がせることになった。然し、石丸氏へ味方した利光の娘婿である織田寛定を攻めるため、尾張へ布陣していた斎藤勢の隙をついて、子の石丸利高が細川氏、六角氏、北畠氏らの後援を得て美濃へ進行した。元頼を総大将、利藤の子毘沙童を副将として二軍に分けて進軍したが、戦況が変化したため利高の進軍を止めさせようとするも、利高はこれを拒んだ。そのため、津島から竹鼻を通り、墨俣で出迎えていた斎藤勢を破り、成頼の住む城田寺城に向かった。然し、斎藤氏に味方した岩倉城主織田寛広と斎藤妙純の娘婿である朝倉貞景らに城田寺城を包囲され、援軍として駆けつけた六角氏も斎藤方の京極氏に破れ降伏した。その後、斎藤勢の奇襲に合い、利光、利元、そして元頼も自害した。城田寺の舎衛寺前には「船田合戦終焉之地」の碑が建てられている。