(愛知県岡崎市大平町西上野 1983年)
寺社奉行大岡忠相(ただすけ)が、寛延元年(1748)奏者番(城中礼式管理)に就任した際、四千石の加増を受け、西大平藩一万石の大名となった。但し、忠相の本貫地は相模大曲(神奈川県寒川町)であり、また、忠相は定府大名でるため、この西大平に居住することはなく、代官を置いた。忠相、忠宜(ただよし)、忠恒、忠與(ただとも)、忠移(ただより)、忠愛(ただよし)、忠敬(ただたか)で廃藩を迎えている。
(東京都杉並区荻窪)
都心へのアクセス至便な荻窪を訪れた。古来、窪地に生えた荻(ススキの一種)を用いて草堂を建てたのが荻窪の由来という。近代に入ると、西の鎌倉、東の荻窪と称されるほど、別荘地として脚光を浴びるようになった。地域内には、青梅街道、五日市街道が通っている。
(よみたんそん 沖縄県中頭郡読谷村)
東シナ海に面する読谷村は、現在日本で二番目に人口の多い、約四万人が居住する村である。元々は読谷山(ゆんたんざ)と呼ばれ、多くの伝え話の残る地でもある。
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文字通り仙台と山形を結ぶ幹線である。仙台―奥羽線羽前千歳(58km)が全通したのは昭和12年(1937)であり、日本で初めて交流電化された路線でもある。全線の内、仙台―愛子(あやし)が仙台近郊区間であり、その他は県境を越える地域間輸送鉄道といった感である。
(愛知県岡崎市康生町)
現在国道1号線となっている岡崎城備前丸東側のこの地に、本多忠勝の屋敷が存在したという。本多忠勝は天文十年(1548)額田郡西蔵前城主本多忠高の子として生まれた。永禄三年(1560)桶狭間の初陣以降、家康に仕え、天正十八年(1590)の家康の関東移封まで、この地で忠勝は過ごした。
(ひろさきなかちょう 青森県弘前市小人町・馬喰町・若党町 国選定重要伝統的建造物群保存地区)
弘前城の北西にある武家屋敷の跡である。当初、弘前城の追手門は後の北門(亀甲門)であったため、それを防護するために形成された町割りという。
(愛知県瀬戸市窯神町 1983年7月26日)
瀬戸焼の「磁祖」である加藤民吉が文政七年(1824)菅原長親筆の秋葉権現・菅原道真・金比羅権現の掛軸を祀ったのが始まりという。間もなくして民吉が亡くなり、民吉も「丸窯神」として祀られた。大正14年(1925)陶祖加藤景正を祀る陶彦神社から移築された社殿は関係者の放火により焼失し、暫く何も無い状態であったが、昭和39年(1964)RC造りの拝殿と祠の上に丸窯を模した覆殿が建てられた。
(福島県須賀川市)
奥州街道の延長街道、仙台道十番目の宿場町であった須賀川。「すか」は一般的に砂州や土砂の堆積を表し、阿武隈川と釈迦堂川の合流するこの地付近の地質が須賀川の地名の由来とされる。往古、石背国造(いわせのくにのみやつこ)が統治した地といい、その後、陸奥国に併合されたという。建久元年(1190)波多野筑後守が創建したとされる鎌足神社の辺りは磐瀬(いわせ)の森と呼び、「陸奥や 岩瀬の森の 茂る日に 一声暗き 初ほととぎす」紀貫之 「陸奥の 安積の事を 人問はば いかが岩瀬の 森は答へむ」読み人知らず 「陸奥の 岩瀬の渡し 水越へて みつまき山に 雲ぞかかれる」読み人知らず 等、この地をさしているのであろう、俳人が句を認めている。中世は北畠氏、二階堂氏がこの地を支配した。
(沖縄県那覇市旭町・泉崎)
ゆいレール旭橋駅前には那覇バスターミナルがあり、沖縄本島各地に向かうバス路線の拠点となっている。付近には従来からの商業店の他、再開発によって建設された複合施設カフーナ旭橋があり、官公庁、商業施設が入っている。旭橋の由来は、海水流入の久茂地川に架かる旭橋からであり、ウォーターフロントとしても人々に憩いを与えている。 仲島の大石
訪れたとき、宿泊地周辺で硫化水素騒ぎがあり、緊急車両に囲まれた。
(りっしゃくじ 天台宗宝珠山阿所川院立石寺 山形市山寺 国指定史跡・名勝 重要文化財 蔵王国定公園)
立谷川を渡り、山寺街道から凡そ千段の石段を上がる。このときは何か引き寄せられるように、息切れ一つせず上がることができた。立石寺は貞観二年(860)円仁によって開創されたという。その後兵火に遭い焼失、禅宗に改められている。そして南北朝時代、斯波(しば)兼頼が再興し、天台宗に戻された。然し、永正十七年(1420)斯波氏一族の天童頼長が伊達稙宗(たねむね)と戦い、その際に立石寺が伊達氏側についたため、頼長は寺を焼き討ちにしている。その後、同じく斯波氏一族である最上(もがみ)義守の母、春還芳公尼によって再興され、以後同氏による庇護を受けた。
重文 根本中堂 正平十二年
鎮守 日枝神社
磨崖仏 平安時代初期
円仁休所石
阿弥洞
重文 三重小塔 永正十六年と納経堂 開山堂 嘉永四年
(帝釈天堂 天保四年)
五大堂 正徳四年
四寸道
(四寺廻廊:毛越寺 中尊寺 瑞巌寺)
(青森県弘前市紺屋町)
弘前城西堀(樋ノ口川)に架かる亀紺橋の袂に火の見櫓のある木造の建物がある。昭和8年(1933)に築造された、床面積91㎡,高さ14.3mの櫓を持つ弘前警察署紺屋町巡査派出所併設の施設である。昭和57年に派出所機能が中央交番に統合され、平成16年に屯所機能が弘前地区防災ステーションに移転。以降、地区集会所として使われていたが、平成20年に弘前市の所有となり、平成23年に復元工事が成された。
(愛知県渥美郡田原町田原字稗田 県指定史跡 1983年再踏査)
渡辺崋山墓所のある城宝寺境内には、横穴式石室が開口する直径20mの円墳がある。奥行き8.8mの片袖式石室(玄室と羨道の段が片方に寄っている)であり、6世紀後半の築造と推定される。江戸時代には墳丘上に弁天堂があり、削平痕がある。また、石室内には石造地蔵像が安置されている。