(三重県三重郡菰野町 鈴鹿国定公園 1998年8月15日)
「札幌より2℃涼しい」のCMで知られる御在所岳を訪れた。東名阪道を利用している者であれば、御在所サービスエリアでその名を知るところであろう。その背後に聳える、鈴鹿山脈の一峰である。訪れたこの日、山上は霧に包まれ、盆でありながら涼しい空気が広がっていた。 朝陽台の紫陽花
大日如来
覚順行者遺跡
(愛知県新城市竹広字山形 1984年)
信玄塚の程近く、武田四将の一人、山県昌景最期の地がある。天正三年(1575)織田徳川連合軍と武田軍との戦いである設楽原の戦いの際、この場所で戦うべきえはないと武田勝頼に進言した昌景であったが、勝頼はそれを聞き入れず、昌景はこの地で最期を迎え、武田軍も敗北を喫した。
(東京都港区虎ノ門)
ホテルオークラの敷地内には同ホテル所有の美術館がある。現在の建物は、昭和2年(1927)建築家伊藤忠太によって設計された二代目であり、大正6年(1917)大倉喜八郎邸の敷地内に設立された集古館の初代建物は、関東大震災によって損壊している。同館には大倉氏が収集した3500点の美術品及び資料が保存、展示されている。
(愛媛県今治市通町 県指定史跡 日本100名城79番)
戦前の父の子どもの頃も含め、私の子どもの頃も石垣しか構造物がなかった吹揚の城も、着々と往時が再現されていった。
(関連記事:今治城昭和五十七年)
(三重県伊勢市宇治浦田 1990年7月5日)
伊勢神宮に参拝の後、 猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀る猿田彦神社を訪れた。高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を案内した猿田彦命は、妻となった天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と共に本拠地である五十鈴の川上の地に戻り、付近の開拓を行った。 その後、猿田彦命は阿邪訶(あざか:一志郡阿坂か)の海で漁をしていたとき、海底で比良夫貝(ひらふがい:シャコ貝の一種か)に手を挟まれ、命を落としたという。 その猿田彦命の裔である大田命(おおたのみこと)が、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る場所を探していた倭姫命(やまとひめのみこと)に対して、猿田彦命が開拓した五十鈴の川上にある宇遅(宇治)の地を献上し、そこに皇大神宮(内宮)が造営されたのだという。
(愛知県豊川市八幡町本郷 国指定重要文化財 1984年5月撮影)
八幡宮は白鳳時代に宇佐八幡宮から勧請したのが始まりという。奈良時代には隣接する三河国分寺の鎮守となっている。現存する本殿は、文明九年(1477)に建造されたものである。
(愛媛県今治市)
墓参のため伊予入りをする。訪れたときは記録的な暑さで、新居浜市では38.1度を記録した。墓地の水道も終始浸かるのに心地よい温度の水が出続けた。まちは些か活気を取り戻したかに感じたが、未だ多くのシャッター店舗が残り、大丸の建物も解体が終了、更地となっていた。昭和33年(1958)築造、今治本籍の丹下健三設計による公会堂も、一時は解体が検討されたが、保存を望む声が多かったため修繕が成され、完了間近であった。 歩道が拡幅された公会堂付近
旧住居地域の拝志地区 美保神社 真光寺
今治市公会堂 10億円の修繕費用だが、屋上部の修繕はお粗末
宿から港・大島を望む
新町通り
常盤(銀座アーケード)
変わらぬ行商
(国後・目梨の戦い)
寛政元年(1789)クナシリのアイヌとの交易を請け負っている飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリのアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、メナシのアイヌと共に商人や商船を襲い和人71人を殺害した。この騒動を松前藩が鎮圧したが、アイヌの首長も説得に当たって蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。松前藩は飛騨屋の場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を阿部屋に請け負わせた。その後幕府は、クナシリ場所やソウヤ場所で御救交易(おすくいこうえき:幕府のアイヌとの融和的交易)を行い、千島、樺太を含む蝦夷地を天領とした。
(大阪市港区築港)
天保時代、船舶の入港を目的とした淀川の浚渫によって積み上げられた高さ十間の土砂に由来する。その後、土砂の流出や地盤沈下により、往時の四分の一の高さになった。同じく港に天保山の地名のある四国今治と、双方に暮らした我が父の言葉からもよく出てきた地名である。