(滋賀県近江八幡市 2003年6月22日)
天正十三年(1585)羽柴秀次が八幡山城を築いた際に水運を兼ねて掘られたのがこの八幡堀である。その八幡堀による物品の流通により、近江商人の一つ八幡商人が繁栄した。
(東京都大田区西馬込)
都営浅草線の終点西馬込。接続駅はなく、昭和43年(1968)地下鉄開業と同時に開設された馬込車両検修場のために馬込より延伸設置されたと言っても過言ではない。ただ、以前は神奈川方向に路線延伸する構想は存在した。
(東京都葛飾区四つ木)
昭和39年(1964)まで四ツ木と書かれたこの地は、荒川左岸、堀切の南に位置し、かつては渋江と呼ばれた。地区にある西光寺は、嘉禄元年(1225)領主葛西清重の館に親鸞が宿泊した際、帰依した清重が浄土真宗(現在は天台宗)雨降山西光寺を創建したという。地区の玄関口として京成線四つ木駅があり、付近には作者の出身地であるためキャプテン翼の像が各所に見られる。また駅周辺では、防災目的で密集する家屋の区画整理が行われているようであったが、進行速度は遅いようであった。
(東京都葛飾区堀切)
堀切では少なくとも江戸時代には菖蒲が栽培され、昭和初期まで多くの菖蒲園が存在したという。堀切菖蒲園は昭和34年(1959)それまでの「堀切園」を東京都が購入し、都立公園としたのが始まりである。
(東京都葛飾区堀切)
荒川左岸のこの地は、荒川放水路が完成するまでは旧荒川(隅田川)に旧綾瀬川が注ぐ河口の集落であった。鎌倉時代に御城(みじょう)正房がこの地に城を築き、廃城後に城の周囲を巡らした遺構である堀切を地名としたと伝わる。地区内の真言宗医王山薬王院極楽寺には「いぼとり地蔵」があり、塩で擦られ小さくなった石地蔵が目にとまる。
第二次世界大戦による空襲で山門を失ったため、斬新というべき山門が目を引く。同寺は文治元年(1185)法然が結んだ「荒陵の新別所」後の「源空庵」を始まりとする。その後、本誉存牟が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、庵を一心寺として再興したという。また、大坂冬の陣夏の陣の際には、同寺に徳川家康の陣が敷かれている。
(東京都足立区・葛飾区)
千住の東を流れる荒川は、昭和5年(1930)に竣工した放水路であり、旧来の荒川は北千住と南千住の間を流れる旧荒川(隅田川)である。この荒川放水路によって、下流部で著しく川幅が狭く氾濫に見舞われていた隅田川周辺が治水され、昭和40年(1965)からは放水路が荒川本流に指定された。左岸堀切付近では綾瀬川が並流し、首都高中央環状線や向島線が並走している。
(東京都足立区千住)
千住宿は日本橋起点の日光街道及び奥州街道最初の宿場である。また、水戸街道及び佐倉街道、越谷を結ぶ赤山街道が分岐し、荒川沿いであるためかつては水運も盛んであった。荒川区南千住までの千住の中で、最も繁栄しているのがこの北千住であり、足立区の中でも新陳代謝の良い地区とされる。
(愛知県瀬戸市定光寺町 2002年11月23日)
中央西線定光寺駅を降り、土岐川、そして支流の定光寺川を遡ると、臨済宗應夢山定光寺がある。建武三年(1336)に創建され、江戸時代には尾張藩徳川家の菩提寺となっている。
定光寺川
(岐阜県多治見市・愛知県瀬戸市・春日井市 2002年10月12日)
庄内川は岐阜県恵那郡山岡町、標高720mの夕立山を源とし、名古屋市港区で伊勢湾に注ぐ全長96kmの一級河川である。岐阜県内は土岐川と呼び、岐阜愛知県境付近は玉野川と呼ばれ、周囲の山も迫って渓谷を成している。また、玉野川に注ぐ支流の市之倉川は古虎渓(ここけい)と呼ばれる景勝地になっている。
古虎渓
2002年11月23日
(関連記事:愛岐廃線・トンネル群)