(神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎)
相模線北茅ヶ崎駅を降りると、隣接して工場がある。然し、その間には稲荷神社があって赤鳥居が建つ。付近は茅ヶ崎市の中心地の一角ではあるが、ターミナルからはやや離れているため、住宅地の要素が濃い。
(岐阜市鏡岩 国登録有形文化財 2005年12月17日)
長良川左岸、金華山麓にある昭和5年(1930)に築造された、SRC・RC造平屋建、面積各187m2の二棟の浄水施設である。外壁は長良川の玉石が張られ、傾斜のある屋根は、山と川の間に立地した環境に合った意匠である。地下井戸から汲み上げられた水は、瑞龍寺山の配水池に圧送し、昭和45年(1970)まで岐阜市南部地区に配水されていた。平成14年、エンジン室が水の資料館に、平成17年、ポンプ室が水の体験学習館として開館した。
(三重県松阪市中町 2005年12月10日)
寺伝によると、天平十五年(743)聖武天皇の勅願により行基が創建したという。その後、天平勝宝二年(750)傍を流れる阪内川の氾濫により堂宇が流失するが、伊勢湾の海中より本尊を拾い上げた二見の漁師三津五郎右衛門正信が弁財天のお告げを受け、出家して継松と名乗り、寺を再建したことから継松寺と改名したという。延暦二十一年(802)空海がこの寺に逗留し、不動明王、毘沙門天王を刻み本尊の脇侍として祀ったという。慶長十七年(1612)松阪藩主古田重治により、市内石津町から現在地に移されている。
(千葉県成田市成田)
日本の仏閣参詣者数日本一の成田山。天慶三年(940)平将門の乱平定の祈願として京高雄山護摩堂空海作の不動明王を奉り、公津ヶ原(現成田ニュータウン付近)で護摩が焚かれ、将門が戦死し平定したことで朱雀天皇より寺号を賜ったのが始まりとされる。その後は源頼義、源頼朝、千葉常胤、徳川家によって崇敬され、戦勝祈願や伽藍造営が行われている。戦国時代に衰退するも、江戸時代に入ると再興され、次第に成田参詣が流行して隆盛していった。
国重文 釈迦堂(旧本堂) 安政五年
国重文 光明堂(旧本堂) 元禄十四年
国重文 額堂 文久元年
国重文 三重塔 正徳二年
国重文 仁王門 天保元年
(三重県松阪市魚町 2005年12月10日)
松阪の豪商である両家。慶長年間三井高俊のとき、部門を捨てかつての受領名(官名)越後屋を用い商売を始めた。以後、江戸、京へと進出し、明治時代以降財閥へと成長していった。長谷川家は寛永十二年(1675)長谷川治郎兵衛政幸が丹波屋の屋号で木綿商を創業したのが始まりである。
(千葉県成田市久住・飯岡)
かつては埴生郡飯岡であったこの地は、明治22年(1889)大合併の際にいわゆる好字を用い久住と名付けられた。成田空港開港後は特定空港周辺航空機騒音対策特別措置法に関わる土地区画整理事業が行われ、近年は自由が丘の名で分譲が行われている。また、江戸時代後期には歌人神山魚貫(なつら)がこの地で生まれている。
(三重県松阪市殿町 国指定特別史跡 2005年12月10日)
国学者本居宣長(もとおりのりなが)は享保十五年(1730)松阪で生を受けた。生家は木綿仲買商であったが、一時紙商の今井田家に養子に出ている。その後生家の家督を継ぐが、宣長は医師を志し、それまでの家業を辞めて医師を開業した。また、賀茂真淵(かもしんえん)との関わりにより国学を研究するに至り、古事記伝や源氏物語年紀考、地名字音転用例等、多くの著作物を残し、多くの門人を抱えた。享和元年(1801)七十二歳没。旧宅は元禄四年(1691)松坂職人町に建てられ、後に魚町に移築された。明治42年(1909)松坂城二の丸跡に移築されている。
旧宅跡
(東京都品川区二葉)
交番に並んで佇む、天台宗東光寺の鬼門除けとして建てられた地蔵堂。寛政四年(1792)下蛇窪村(1932-下神明)の男女講が寄進したものという。かつては傍らを品川用水が流れていた。
(三重県松阪市外五曲町 2005年12月10日)
大正12年(1923)に開業した鐘淵紡績(カネボウ)綿糸松阪工場が平成5年に撤退し、平成8年松阪市が取得、文化財センターとして煉瓦造の旧綿糸倉庫を利用し開館した。その後、平成12年、市内の国史跡宝塚1号墳から全国で初めての立ち飾り付船形埴輪や、水辺の祭祀を表現するとされる囲形埴輪等発見されたのを機に、文化財センター内に「はにわ館」が開設された。
(愛知県豊橋市 2005年12月9日)
豊橋市南東部梅田川以南に広がる丘陵地天伯原は、酸性土壌のため農作物が育たず、また砂礫地層で水資源が乏しく長らく荒地が広がっていた。明治時代からは陸軍第十五師団天伯原演習場として利用されてきたが、戦後間もなく土地改良が開始され、高度成長期には豊川用水が通水したことにより、有数の農業地域となった。また、天伯の地名は地域に存在する天白社の天白羽神(あめのしらはのかみ:長白羽神の別名)に由来する。
(山梨県富士吉田市上吉田)
昭和4年(1929)富士山麓電気鉄道の駅として開業し、平成23年までは「富士吉田」であった富士山駅。下吉田駅同様、既存の躯体をそのままに水戸岡デザインに改修された。終点感満載だが、実は河口湖までスイッチバックで結ばれている。駅ビルは昭和50年(1975)に富士急百貨店のとして開業したRC造6階地下1階、延床面積19,000m2のテナントビルであり、当初はイトーヨーカドーが核テナントであったが、平成17年に撤退し、その後は「キュースタ」として営業している。
(愛知県新城市西入船 2005年12月8日)
明治20年(1887)新城城の跡地に開校した新城尋常高等小学校である。現存する木造校舎は大正4年(1915)に築造されたもので、昭和55年(1980)新校舎築造まで使用された。