flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

乃木希典墓所

2019-09-15 00:00:00 | いにしえの人びと
(東京都港区青山)
 青山霊園に大日本帝国陸軍大将であった乃木希典(のぎまれすけ)の墓がある。明治天皇が崩御し、大喪の礼が執り行われた日の夜、夫人と共に自刃した。








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美江寺観音

2019-09-14 00:00:00 | ほとけのいおり

(天台宗大日山観昌院 岐阜市美江寺町 2006年12月6日)

 寺伝によると、養老三年(719)元正天皇の勅願により、本巣郡十六条(瑞穂市美江寺)に創建したのが始まりという。永正三年(1506)土岐成頼によって伽藍が造営され、その後、天文十八年(1546)稲葉山城の裏鬼門に位置する現在地に、齋藤道三によって移転されたという。
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白笹稲荷神社と生田地蔵尊

2019-09-13 00:00:00 | かみのやしろ
(東京都江東区白河)
 住宅地の狭間に鎮座する白笹稲荷は、神奈川県秦野市の白笹稲荷神社から勧請されたものという。また、隣接して建つ小堂は、明治12年(1879)当地の生田岩次郎氏が溝の中から石地蔵を発見し、祀ったのが始まりである。




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旧岐阜大学医学部附属病院

2019-09-12 00:00:00 | STRUCTURE-構造物残影-

(岐阜市司町 2006年12月6日)

 旧県庁に隣接する旧岐阜大学医学部附属病院は、明治8年(1875)に岐阜県公立病院として開設され、翌年この地に移転したことに始まる。平成16年(2004)閉鎖時点で残された建物は、 昭和29年(1954)南病棟、昭和31年(1956)北病棟 、昭和36年(1961)中病棟、昭和40年(1965)看護婦宿舎がそれぞれ築造され、昭和42年(1967)には、当時岐阜県立医科大学附属病院であった施設を国立移管し、岐阜大学医学部附属病院となった。そして昭和45年(1970)放射線治療棟、外来診療棟、昭和47年(1972)病棟(東側・第1期工事)、 昭和48年(1973)病棟(西側・第2期工事) 、昭和51年(1976)中央診療棟、昭和61年(1986)リハビリ棟、平成3年(1991)MRI-CT装置棟がそれぞれ築造されたが、その後は手狭となったことと、相次ぐ増築により敷地面積30,900㎡に対し延床面積69,700㎡と空間が著しく減少したこと、更に外壁落下等の老朽化が進み、耐震割合が21%で、残りの建物79%が耐震不合格危険構造物となってしまったこと等により、移転することを決定。平成16年(2004)に岐阜大学分散校舎統合と共に岐阜市西部郊外柳戸に移転した。平成19年度(2007)には解体を開始し、土壌調査後に再開発されることになっている。事実上制約を受けやすい病院施設跡地利用を、市文化施設として整備する方針が進められているという。栄枯盛衰を如実に現したようなこの地を、感慨深くみる人は多いことだろう。

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小名木川 西深川橋

2019-09-11 00:00:00 | 水のほとり
(東京都江東区白河・高橋・森下)
 昭和5年(1930)築造のトラス橋、西深川橋(長さ56m,幅14m)からの光景。










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ロボット水門

2019-09-10 00:00:00 | 水のほとり

(岐阜市御手洗 2006年12月6日)

 昭和7年(1932)に築造された、忠節用水の長良川分水樋門である。平成4年(1992)制御室上部に耳状の突起物が取り付けられ、よりロボット感が増している。

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近代の輸出陶磁器製造所跡

2019-09-09 12:00:00 | いにしえの人びと
(東京都江東区森下・高橋)
 森下文化センターのある場所は、近代陶磁器の製造所があった場所である。その一つ瓢池園陶磁器工場は、明治6年(1873)浅草芝崎町の磁器製造所御用係であった河原徳立が、同所の廃止を機に、この地に陶磁器絵付工場を開いた。然し、明治29年(1896)に深川東元町(江東区高橋)へ移転した後、愛知郡鷹場村(名古屋市西区則武)に製造拠点を移し、明治37年(1904)日本陶器合名会社(ノリタケ)に合併した。もう一つ、旭焼陶磁器窯は、ドイツ人ワグネルが確立した絵付法などによる新しい陶磁器窯であり、明治16年(1883)東京帝国大学理学部において釉薬の下に様々な色彩の絵柄を施す研究を開始し、明治23年(1890)渋沢栄一や浅野総一郎らの出資をうけて深川東元町に旭焼の製造所を開いたが、明治30年(1897)瓢池園と同じく愛知に移転した。
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旧木曽川町議会堂

2019-09-08 00:00:00 | 木のたてもの

(愛知県一宮市木曽川町黒田字宝光寺東 国登録有形文化財 2006年12月6日)
 大正13年(1924)に築造された、木造2階建の議会堂である。平成17年(2005)葉栗郡木曽川町が一宮市に合併されたのを機に、山内一豊、浅野長政、兼松正吉、奥村永福等の一宮市ゆかりの戦国武将を紹介する木曽川資料館として利用された。

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霊巌寺と江戸六地蔵

2019-09-07 00:00:00 | 大きな仏さま

(浄土宗道本山東海院 東京都江東区白河)

 寛永元年(1624)雄誉霊巌によって霊岸島(中央区新川)に創建したのが始まりである。然し、明暦の大火により焼失し、現在地に移転した。境内には享保二年(1717)に建立された、江戸六地蔵の一躰である銅製地蔵菩薩像(都有形・像高2.73m)がある。地名の白河は、同寺に墓がある松平定信が白河藩主であったためである。








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品川仙台坂

2019-09-06 00:00:00 | 街道・宿場町
(東京都品川区南品川・東大井)
 この地に仙台藩伊達家下屋敷があったことから、その前の坂を仙台坂と呼ぶようになった。現在のトンネルは、昭和63年(1988)に築造されたものである。







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今治港平成十八年

2019-09-05 00:00:54 | 海道・みなと

(愛媛県今治市 2006年11月30日)
 

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鮫洲

2019-09-04 00:00:49 | 漂い紀行
(東京都品川区東大井・南品川)
 関東では運転免許試験場で知られる鮫洲。地名の由来は、鎌倉時代に品川沖で大鮫が死んで浮いているのを漁夫が見つけ、鮫の腹を割くと聖観音の木像が出現した。この聖観音は鮫洲観音と呼ばれ、観音像を祀るため北条時頼により補陀落山海晏寺が創建されている。




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玉澄廟

2019-09-03 00:00:39 | 孝霊天皇流族関係記事

(愛媛県今治市別名 2006年11月30日)
 河野氏祖越智玉澄は伊予国越智郡大領(郡司長)で、別名(べつみょう)の地に館を構えていた。玉澄は大三島大山祇神社の社殿造営や、和銅五年(712)には別宮大山祇神社(今治市別宮町)を勧請。養老元年(717)には宇摩郡に三島神社を勧請(旧伊予三島市、現四国中央市)、天平元年(729)には温泉郡(松山市)の石手寺を再建している。玉澄の二男安元は大山祇神社の大祝(おおほうり)職となり、三島氏の祖となった。天平十九年(747)玉澄が没し、この別名の地に墳墓を造った。その墳墓の上に植えられたのがこの大楠といわれ、今でも「玉澄さんの楠」として親しまれている。

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坂戸石橋供養塔

2019-09-02 00:00:46 | 水のほとり
(川崎市高津区坂戸)
 二ヶ領用水からやや離れた路傍には寛政五年(1793)に建てられた石橋供養塔がある。昭和16年(1941)までこの位置に二ヶ領用水があり、そこに架かる石橋の安泰と通行人の安全を願って建てられた。用水流路が蛇行していたため、現在の直線流路に付け替えられ、跡地は遊歩道として今に至っている。








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路傍の石仏

2019-09-01 00:00:37 | 石のまもり

(愛媛県今治市小泉 2006年11月30日)
 かつての遍路道の傍らに、忘れられた弘法像が佇む。

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