(岐阜市司町 2006年12月6日)
旧県庁に隣接する旧岐阜大学医学部附属病院は、明治8年(1875)に岐阜県公立病院として開設され、翌年この地に移転したことに始まる。平成16年(2004)閉鎖時点で残された建物は、 昭和29年(1954)南病棟、昭和31年(1956)北病棟 、昭和36年(1961)中病棟、昭和40年(1965)看護婦宿舎がそれぞれ築造され、昭和42年(1967)には、当時岐阜県立医科大学附属病院であった施設を国立移管し、岐阜大学医学部附属病院となった。そして昭和45年(1970)放射線治療棟、外来診療棟、昭和47年(1972)病棟(東側・第1期工事)、 昭和48年(1973)病棟(西側・第2期工事) 、昭和51年(1976)中央診療棟、昭和61年(1986)リハビリ棟、平成3年(1991)MRI-CT装置棟がそれぞれ築造されたが、その後は手狭となったことと、相次ぐ増築により敷地面積30,900㎡に対し延床面積69,700㎡と空間が著しく減少したこと、更に外壁落下等の老朽化が進み、耐震割合が21%で、残りの建物79%が耐震不合格危険構造物となってしまったこと等により、移転することを決定。平成16年(2004)に岐阜大学分散校舎統合と共に岐阜市西部郊外柳戸に移転した。平成19年度(2007)には解体を開始し、土壌調査後に再開発されることになっている。事実上制約を受けやすい病院施設跡地利用を、市文化施設として整備する方針が進められているという。栄枯盛衰を如実に現したようなこの地を、感慨深くみる人は多いことだろう。