(北海道上川郡美瑛町花園)
標高1,708mの十勝岳連峰ツリガネ山より発し、石狩川水系忠別川に注ぐ延長68kmの一級河川である。美瑛の名は、アイヌ語で、ピイエ(濁った)ペッ(川)を由来とし、山から硫黄が流れ出し、川を濁すことを意味する。
(岩手県北上市立花 2011年11月5日)
キ100形228号ラッセル車は、昭和23年(1948)から昭和51年(1976)まで国鉄北上線で、後方に機関車が連結される方式で除雪に使用された。C58形蒸気機関車342号機は、昭和18年(1943)大阪の汽車製造で製造され、岩手県宮古機関区、宮城県仙台機関区、青森県八戸機関区で活躍し、昭和49年(1974)に引退。盛岡鉄道管理局長と北上市長との間で無償貸与が締結され、キ228と共に展勝地公園内に静態保存された。

(岩手県遠野市附馬牛町 2011年11月4日)
平成19年(2007)に閉校した大出小中学校は、昭和23年(1948)附馬牛村立東禅寺小学校小出分校冬季分室として始まり、昭和25年(1950)現存する校舎が築造され、正式な小学校となった。昭和30年(1955)に中学校が併設され、昭和33年(1958)には隣接して講堂が築造されたが、次第に周辺が過疎化し児童数が減少、閉校時には3人となった。平成22年(2010)跡地を遠野早池峰(はやちね)ふるさと学校という社会教育施設として利用が開始されている。
(岩手県遠野市土淵 2011年11月4日)
民俗学者柳田國男に遠野物語を著すきっかけを与えた、文学者で民話研究家の佐々木喜善(きぜん)は、明治19年(1886)上閉伊郡土淵村で生まれた。東北地方の家の神として信仰されているオシラサマや、座敷童子の研究をし、遠野地方の昔話の収集も行っている。
(ゆこまんべつ 北海道上川郡東川町勇駒別)



















アイヌ語で湯に向かっていくを意味する勇駒別は、その名の通り50度前後の温泉が湧き、昭和57年(1982)からは旭岳温泉と称している。標高1,100mのこの地は、勇駒別川に沿って湿原がみられ、多くの植物を見ることができる。




















(北海道上川郡東川町)
北海道最高峰2,291m,大雪山系の主峰である。五合目付近はカムイミンタラと呼ばれ、アイヌ語で神々の遊ぶ庭という。
(岩手県遠野市綾織町 2011年11月4日)
曲り家のある綾織集落には、次のような伝説がある。昔、六角牛山(遠野小富士)の天人児(天女)が青笹村(遠野市青笹町)にあった七つの池に舞い降り水を浴びていた。そこへ釣りに来ていた惣助という村人が、珍しい衣が石に掛けてあるのを見つけて持ち帰った。天人児は羽衣が無い為に天に帰ることができなくなり困り果て、惣助の家を突き止めて羽衣を返して欲しいと頼んだ。惣助は衣を持ち帰ったことを認めたが、余りにも見事な衣だったので殿様に献上したと嘘をついた。それを聞いた天人児は、それでは天に帰れないと嘆き、羽衣を一から作るため惣助に田を貸して欲しいと頼んだ。やがて田に植えた蓮華は花を咲かせ、天人児はそれから糸を引き毎日毎夜、笹小屋の中で機を織りながら歌を歌った。私が機を織るところを決して見てはなりませんと惣助に告げたが、遂に惣助は覗き見てしまった。然し、小屋の中から機を織る音と歌声はするが天人児の姿は見えなかった。その後、惣助は隠していた天人児の羽衣を本当に殿様へ献上してしまった。曼陀羅の織物を完成させた天人児は、その織物を殿様へ渡すことにした。殿様は大層歓び、天人児を側女として迎え入れた。梅雨が明け御殿で虫干しがあり、そこで惣助が献上した羽衣が蔵から出され虫干しされているのを天人児は見付けてしまった。天人児はそれを身に着けて六角牛山の方角へ飛び去ってしまった。残された曼陀羅の織物は、その後綾織村の光明寺に納められた。綾織という村の名は、この天人児の織った曼陀羅の織物から名付けられたものという。










