龍馬は慶長2年の8月末、越前藩士下山尚と面会し、松平春嶽の力で大政奉還を実現されたいと述べたという。山下尚は、その時の龍馬の風貌を「雄偉」「閑雅」「晴朗」と言う言葉で文書に書き残しているそうだ。
スマートでかっこいい、品格あり上品、言葉は爽やかだ…と。
資料外、根拠のないところからの龍馬像造りが多い。そうNHK大河ドラマを評する歴史家先生のフォーラム「坂本龍馬と幕末の京都」で、知識ばかりを詰め込んで帰ったのが春先だった。
気が弱くて怒られてばかりいる龍馬が、母の死をきっかけに強くなろうと決意する、そんな第1回目だったが、子役に注目が集まる始まりでもあった。
あと40日の龍馬の命、既にドラマはここまで進んできて間もなく終焉を迎える。
短い人生を駆け抜けて行くなかで、すべて人から学んだことを「船中八策」の根底に据えていることに感動したものだ。
「命を狙われるくらいのことをせんじゃったら、日本は変えられんぜよ…」 ニコッ
これがええですね~ (まことに… )
午後、海援隊京都本部となった酢屋で開催中の「龍馬追悼展」(11/13~11/30)に出かけた。龍馬誕生日であり命日でもある。
昭和3年、酢屋が天井を剥いだところ「異国船渡来日記」「海援隊日誌」が発見されたそうだ。寺田屋事件後、わかったことを毎日毎日記録し続けてあると言う。〇日、××死亡。
〇日、△△死亡。襲ったもの3名。…
陸奥陽之助、長岡謙吉ら志士は龍馬の敵討ちと称し天満屋襲撃するが失敗する。酢屋の天井裏に隠し残されてきた「海援隊日誌」は、「涙痕帖」と名付けられてあった。
亡くなる3日前、酢屋にいたことと思われる。
出格子の前は高瀬川の五之舟入だった。2階の格子の向こう10畳ほどの間に龍馬は座っていた…。外を見、時にピストルの試し撃ちなどもして。
龍馬の魅力をたっぷり味わってきた。そして、決して彼個人だけの面白さではない幕末史も感じてドラマを見ている。