境内の隅に五輪塔が保存されている。球形や三角形、宝珠形など、部分がいくつかばらばらに残っているものと一緒に。
砂利の上を這ってはびこる雑草を抜いていると、小さなアオガエルが飛び出してきた。
青蛙ぱつちり金の瞼かな 川端茅舎
日中の残暑はなかなかゆるまなくて、30度に近い日が続く。寝た子を起こしたというには時季が早いようだ。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる
秋たつや川瀬にまじる風の音
上田三四二は、この有名な古歌と飯田蛇笏の句とを比べて、
「短歌はリズムを主として内容はむしろ乏しく、俳句はリズムに欠けるのを物の把握で補っている」という。
【短歌は本来主観の声だが、心だけでは歌にならない。心が物に託されて、初めて人を打つ。俳句の持つ、物を掴む力を歌を作る側も見習いたい】
(『短歌一生』)。
「俳句は物の手ざわりなくしては成立しない詩型」。で、
「『川瀬にまじる風の音』、この物の把握」という箇所がちょいと私の心をとらえた。
「川瀬にまじる風の音」 ―「物を掴む」、「物の把握」
わかる? わかるような? うん?
素地のない者は、“なんとなくわかる気がする”というあたりでもたもたするが、考え考え読み進めるのだ。
こういうことはいいわ、と勝手に読み飛ばしたりするから、尚更もたもた?
言わんとされることを理解するとは言い難いが、なんとなく、なんとな~く、アバウトにわかるようなこともあって、ぼっちぼっち読んでいく。
アオガエルのジャンプに話は飛躍し過ぎたかしら。
砂利の上を這ってはびこる雑草を抜いていると、小さなアオガエルが飛び出してきた。
青蛙ぱつちり金の瞼かな 川端茅舎
日中の残暑はなかなかゆるまなくて、30度に近い日が続く。寝た子を起こしたというには時季が早いようだ。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる
秋たつや川瀬にまじる風の音
上田三四二は、この有名な古歌と飯田蛇笏の句とを比べて、
「短歌はリズムを主として内容はむしろ乏しく、俳句はリズムに欠けるのを物の把握で補っている」という。
【短歌は本来主観の声だが、心だけでは歌にならない。心が物に託されて、初めて人を打つ。俳句の持つ、物を掴む力を歌を作る側も見習いたい】
(『短歌一生』)。
「俳句は物の手ざわりなくしては成立しない詩型」。で、
「『川瀬にまじる風の音』、この物の把握」という箇所がちょいと私の心をとらえた。
「川瀬にまじる風の音」 ―「物を掴む」、「物の把握」
わかる? わかるような? うん?
素地のない者は、“なんとなくわかる気がする”というあたりでもたもたするが、考え考え読み進めるのだ。
こういうことはいいわ、と勝手に読み飛ばしたりするから、尚更もたもた?
言わんとされることを理解するとは言い難いが、なんとなく、なんとな~く、アバウトにわかるようなこともあって、ぼっちぼっち読んでいく。
アオガエルのジャンプに話は飛躍し過ぎたかしら。
一生、作歌を続けることも可能でしたのに。
お近くでお仲間と一緒にでしたら、やめずに済んだのかもしれませんね。
俳句に学ぶ姿勢を持ったうえでの短歌と俳句と、
その三四二の読みかたを読んでいます。
なるほど、と思うこともあって、今更ですがベンキョーになります。
遅々たる読みです。
『この世この生』と合わせて図書館で借りてきました。
昔から短歌も俳句も関心ありまして
いくつか詠んだものが残っています。
俳句は削ぎの文学とか。
角川俳句通信講座をかなり受講しました
初めのころは褒められていい気にもなりました。
やめないような配慮?だったのでしょう。
そのうち厳しい添削が続き挫折しました。
今も蛇笏の句集持っています。
恥ずかしながら一首
私の原句 「夫逝きて安曇野を行く友とわれ
群青のそらライラックの花」
友人が添削してくれました
「夫逝きてひととせの今友とゆく
安曇野は春それもよし」
長文になりブログをけがしてお許しください