京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 1200年の歴史を重ね

2013年03月15日 | こんなところ訪ねて

城南宮神苑内、枝垂れ梅のこの美しさをご覧ください。開花状況と天気と相談しながら待った今日、本当によい日に恵まれて友人と堪能して帰りました。これほどまでとは思ってもいませんでした。今なら、お薦めです!!


伏見区中書島鳥羽離宮町にある城南宮(鳥羽離宮)。鳥羽の地は、平安京の正門である羅城門まで一路、大道が作られ、西国とを結ぶターミナルとして、また、賀茂川・桂川などが合流する水郷として、あるいは、河港として毎日瀬戸内から都へ運びいれられる鮮魚類の取引市場としてなど、人馬の往来で賑わったところだと記されています。


都の南を守護するために創建された社(ちなみに、北に上賀茂神社、東は八坂神社、西に松尾大社)で、平安時代末、白川上皇がこの地に壮大な離宮を造営して院政を始めたことから、一段と崇められていったようです。方違えの宿所として城南宮が使われ、旅の安全を祈願。熊野詣での際も、先ずここで一週間ほど身を潔斎してからの出立であったこと、語り部さんが話されていたのが思い出されます。

 
1868年正月、鳥羽・伏見の戦いで、このあたり一帯戦場と化します。薩摩藩の軍勢が城南宮の参道に大砲を配置、京を目指す旧幕府軍と対峙し、民家が次々と焼き払われてしまったそうです。先日の高野街道起点となった石清水八幡宮でも、極楽寺、高良神社始め多くが焼失するという歴史の跡地に立ったばかり…。

 
江戸時代、この地に「せき女」という娘がいて行き交う旅人のために茶屋を設け、編み笠の形をした餅を作り、笠の裏に並べて出しては彼らを癒したそうです。その名をとどめる「おせき餅」、いただきました。やはり災禍にあって時を経て、今の地に移転でした。
コメント (8)
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