北区歴史と文化の八十八選巡り第3弾は「北海道大学百年記念会館」、「サクシュコトニ川」、「ウィリアム・S・クラーク像」、「古河記念講堂」の四つについてレポする。
〈9〉北海道大学百年記念会館
北大の正門から入って大学本部の事務局棟を過ぎた右手の森の中に佇むようにして2階建ての「北海道大学百年記念会館」が建っている。アクセスの仕方で1階にも、2階にも直接入られるような構造になっている。
※ こちらは「北大百年記念会館」の一階エントランスです。
※ こちらは2階部分に直接入ることのできる入口です。
この百年記念会館は、昭和52(1977)年、北大創基100周年を記念して同窓生などの寄付によって建てられた記念会館だそうだ。1階には大会議室やレストランが入り、2階は札幌農学校から始まる北大の歴史に関する資料を展示する展示室がある。
※ 2階部分に展示されいる北大の歴史を物語る数々の記念の品や文書です。
※ 百年記念会館の前を流れるサクシュコトニ川です。
私は訪問日とは別の後日、記念会館のレストランである「北大マルシェ Cafe&Labo」で食事をする機会があった。オーダーしたのは「北大牛乳のモッツアレラの焼きチーズカレー」である。チーズが絡んだ非常に濃厚なカレーとジャガイモ、ニンジン、カボチャなどの野菜がゴロンゴロンと入ったインパクトの強いカレーだった。
※ 百年記念会館の一階にある「北大マルシェ Cafe&Labo」の店名表示です。
※ レストラン部分の様子です。
※ 私が食した「北大牛乳のモッツアレラの焼きチーズカレー」です。
〔住 所〕 北区北9条西6丁目北海道大学構内
〔訪問日〕 4月19日
〈10〉サクシュコトニ川
サクシュコトニ川は緑多い北大構内の景観に水辺を提供することによっていっそう素晴らしい光景を産み出している。
そもそもサクシュコトニ川は伏流水の多い札幌の街にあって北大植物園付近から湧き出した水を水源として、北大構内に流れ込んでいた小さな小川だったそうだが、昭和の初期までは鮭の遡上もみられたという。しかし、時と共に水源が枯渇し流れが無くなっていたが、2004年の再生事業により復活し、北大構内を流れて現在は大野池までその流れを確認することが出来る。(地図上ではそうなっているが、先日確認したところ大野池からも川は続いているようだった)現在は中央ローンと呼ばれる芝生の間を流れ、学生や市民の絶好の憩いの場となっている。
※ 現在のサクシュコトニ川は、写真手前のところからポンプアップした水が流れています。
※ 川辺で楽しむ親子です。
〔住 所〕 北区北8条~9条西7丁目北海道大学構内
〔訪問日〕 4月19日
〈11〉ウィリアム・S・クラーク像
ご存じ北海道大学(その前身である札幌農学校)を語るとき、欠くことができない人物が札幌農学校の初代教頭を務めたウィリアム・S・クラーク博士である。クラーク氏の功績については、私が紹介するまでもないので省略するが、中央ローンを背後にして立つクラーク像について、その経緯を著した文章に出合ったので、それを転写することにする。
【北海道大学のクラーク像】
正式名称は「ウィリアム.S.クラーク胸像」、「W.S.クラーク胸像」とも略される。北海道大学構内、中央ローン北西角(古河記念講堂前)に設置されている。初代の像は田嶼碩朗の制作で1926年(大正15年)5月14日に建立されたが、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)6月に、金属類回収令によって供出された。現存するのは二代目の像である。田嶼が1946年(昭和21年)に死去した後、田嶼が制作した石膏原型(2016年現在、札幌キリスト教会に保存されている)を使用し、加藤顕清の監修で再鋳造して、1948年(昭和23年)10月に建立したもの。二代目像は、背面に田嶼の名が刻されているにもかかわらず、加藤が「制作」した像であると長年にわたって誤伝されてきた。札幌芸術の森美術館・副館長の吉崎元章は、現存する石膏原型を田嶼が作る過程で撮影された「粘土状態のクラーク像」の写真を検討し、現存する二代目像と形状が同じであることから、二代目像の制作者は田嶼のみをクレジットするのが妥当であると述べている。
※ 構内を行き交う学生を見守るクラーク像です。
※ 私は文中にある田嶼氏が制作した石膏原型を2019年に札幌独立キリスト教会にて見せていただいたことがある。ところが対面した石膏製のクラーク像は、なんと!真っ黒な像だったのだ。本来白いはずの像がなぜ黒くなってしまったかというと、長年の保存でホコリが付着したり、変色が目立ったりしたそうだ。そこで信者の一人である靴屋さんが黒い靴墨を塗ってしまったという。( Oh my God!) かくして私は真っ黒に塗られたクラーク現像と対面したのだった…。
その真っ黒に塗られたクラーク像はこちらをクリックすると見られます。⇒
〔住 所〕 北区北9条西7丁目北海道大学構内
〔訪問日〕 4月19日
〈12〉古河記念講堂
北大正門から、各学部校舎に向かう途中、中央ローンと道路を挟んでやや古風な西洋風の木造の建物が建っているが、それが「古河記念講堂」である。古河記念講堂についても、その経緯を綴った文章を見つけたので、それを転写して紹介することにする。なお、講堂は現在研究室として使用されているため、内部は一般公開されていないのが残念である。
※ クラーク像のところから道ひとつ隔てたところに古河記念講堂は建っています。
※ 記念講堂の裏側ですが、ペンキの剥がれやや目立っていました。
下は「古河記念講堂」の設立の経緯などについては書かれた文章です。
1906(明治39)年、古河鉱業は足尾銅山鉱毒事件判決後も社会の非難を浴びていました。また政府は日露戦争後の財政不足のため、各地で盛り上がる帝国大学昇格運動に対応できずにいました。そこで、内務大臣で同鉱業の顧問も務めていた原敬が古河虎之助に寄付を勧めます。古河は帝国大学創設費として百万円を政府に寄付。そのうち約14万円が北大の前身・東北帝国大学農科大学に分配されました。
古河講堂はその時新・増築された8棟のうち現存する唯一の建物です。設計は茨木出身の文部技官・新山平四郎、施工は札幌の大工・新開新太郎が担当。建築面積127.5坪、総工費3万円余の建物は6ヶ月の工期を経て、1909年11月末に林学教室として誕生しました。
「古河家寄贈」と正面に記された白亜の洋館は、当時の建築技術の粋を集めたものになりました。フランス・ルネサンス風の緑色のマンサード屋根と両翼のドーマー窓が華麗に配置されています。
玄関を入ると仕切扉の上に「林」をデザインした欄間があり、その奥にはイオニア式円柱を手摺子にした階段が目に入ります。半円形の明かり取り窓やアーチを支えるインポストなども独特な装飾が施されています。
謎は柱や半円窓の台に刻まれた14頭もの鹿の線刻装飾です。「林」の欄間と共に北海道の自然を表すのか、学問の森での飛躍を願うのか、はたまた鹿鳴館的文化の発祥をここに委ねたのか、いずれにせよ明治的ロマンを感じさせます。
国の登録文化財及びさっぽろ・ふるさと文化百選にも指定された歴史的建造物ですが、薄い一重ガラス窓のため冬には内部も氷点下になることがあります。教官達には不評ですが、歴史を体感しながら学問を追求できるのは贅沢な悩みかも。
竣工から90年、明治からの歴史を眺めてきた古河講堂は年末にはお色直しを終え、新世紀を迎えようとしています。(1999年の話? 筆者註)
内部は文学部の研究室として使われているため、現在のところ一般公開はされていません。
〔住 所〕 北区北9条西7丁目北海道大学構内
〔訪問日〕 4月19日