幕末に京都で治安維持のために暴れまくった新選組のことを広く世に広めたことで知られる「新選組始末記」を著した子母澤寛は現在の石狩市厚田区の生まれである。彼の生誕130年を記念した講演会を聴いた。
※ 中央図書館内に掲示されていたポスターです。講演題がちょっと違っているのですが…。
昨日(4月16日)午後、札幌市中央図書館で子母澤寛の生誕130年を記念する講演会が開催され、参加した。講演は、元函館中央図書館長の丹羽秀人氏が「新選組の名を世に広めた作家 子母澤寛」と題して講演された。
※ 講師を務められた丹羽秀人氏です。
お話は子母澤寛の生涯、特に生育期についての話と、彼の著書に関するお話と大きく二つに分かれていた。私のその中でも子母澤寛の幼少期や彼が世に出る前のお話に興味をもった。彼の生い立ちは非常に複雑だったようだ。できるだけ分かり易くまとめることを心掛けたいと思うが…。
※ ちょっと見づらいですが、講師から提供された子母澤寛の家系図です。
まず彼の母である三岸イシ、その人が三岸家の養女だった。その三岸イシが年頃になって厚田にいた若者(竹内伊平)との間に身ごもったのが子母澤寛こと梅谷松太郎である。しかし若者はすぐにイシのもとを去り、イシは松太郎を出産するが、松太郎をおいて橘巌松と札幌へ出奔してしまう。残された松太郎はイシの義理の叔父(三岸イシの叔母スナの夫)にあたる梅谷十次郎に引き取られて戸籍上は十次郎の実子として育てられる。
長じて松太郎は函館商業高校に進学するも、函館大火に遭い小樽商業高校に転向する。この頃、叔母スナが亡くなり、十次郎の商売も傾いたこともあり、松次郎は実の母親イシの夫、橘巌松の援助を受け北海中学(現北海高校)に再転校し、卒業する。
松次郎は相当に優秀だったようだ。また橘巌松も素晴らしい人格者だったと言える。松次郎は橘巌松の援助を受けて明治大学法学部に入学する。ただ、東京での生活は苦しく松次郎はアルバイトで「赤本」の執筆をして生活費を稼いだそうだ。「赤本」とは明治時代に世間で流布している面白可笑しな話をまとめた講談本だそうだが、講師の丹羽氏は他人から聴いた話をもとに一つの話にまとめるというスタイルを子母澤寛はこの時期に体得したのではないか、と推測した。
明治大学を卒業した後も、彼は幾多の変遷を繰り返すが、大正7(1923)年に読売新聞社に入社したのが転機だったようだ。ここで彼は新選組の研究、つまり様々な関係者から聞き取りすることを始めた。そして昭和3(1928)年に彼の初の著であり、出世作となる「新選組始末記」を出版した。この本が大評判となり続編である「新選組遺聞」、「新選組物語」と次々と著し、作家としての基盤を築いたという。
※ 講演に聴き入る受講者たちです。
ちなみにペンネームの「子母澤寛」は「新選組始末記」を出版する際に居住していたところが新井宿子母澤だったことから「子母澤」という姓とし、名の「寛」は菊池寛から取ったとも、単に語呂が良かったからとも言われているという。彼の作家としてのデビューは36歳とけっして早くはないが、生涯に600冊を超える作品を世に出したというから多作の作家といえるようだ。
講演の方は彼の著書の内容にも触れたが、私は講演を聴くにあたって彼の代表作である「新選組始末記」を読んでから講演会に臨んだ。なるほど関係者から聞き書きや、残された手紙などが多いことが一つの特徴だった。私が苦労したのが幕末の漢文調の手紙類だった。漢文の素養がない私には意訳すらも難しかった。しかし、新撰組の結成前に江戸で浪士を集めて京に上った清川八郎と袂を分つ下りなど、読者の興味を惹き付けるに十分な内容であり、大評判になったことも頷けた。
なお、書き遅れたが画家の三岸好太郎(彼の遺作を展示する道立三岸好太郎美術館が知事公邸と同じ敷地にある)は、彼の異父兄弟である。
私にとってこれまであまり馴染みのない作家・子母澤寛であったが、これを機に彼の著作にもあたってみたいと思っている。