※ 2泊3日の短い旅だったが、私にとっては収穫の多い旅でもあった。これから何日間かに分けて「道南旅物語」と題してレポートしてみたい。
大船遺跡は海岸段丘の上に展開されていた。そこに遺されていた竪穴住居跡は想像していたよりはるかに大きく、深いものだった。大船遺跡の特徴は、竪穴住居の完全復元、骨組復元、竪穴復元と多様な形で展示されていることだった。
※ 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産では必ずこのような標柱が掲示されているそうです。
「大船遺跡」は鹿部町から函館市に向かう途中、海岸沿いの大船地区の海岸段丘上に展開していた。大船地区は、現在は合併して函館市の一部となっているが、元南茅部町の集落の一つに存在する遺跡である。
※ 「大船遺跡」の「縄文の庭」部分の全景です。
※ 「大船遺跡」の全体図は右図ですが、私が主として見たのは左側の「縄文のにわ」部分です。
私は遺跡ガイドの説明会が午前10時から始まると事前に知っていて、約15分前に遺跡管理棟の前に着いた。遺跡管理棟は簡易な造りで、内部にはごく簡単な展示しかなかった。(本格的な展示は隣りの「垣ノ島遺跡」に併設する「函館市縄文文化交流センター」の方に展示されていた)
※ 「大船遺跡」の遺跡管理棟のエントランスです。
午前10時、その回の担当だった若い男性のガイドの方が説明を担当した。不思議なことに私の後にも続々と遺跡見物客が見えたのだが、誰一人として説明を聞こうとせずに、写真を撮るとそそくさと遺跡を跡にしていた。結局説明を受けたのは私一人だった。
説明はまず、管理棟の横にあった大量の「石皿」である。植物や魚などを切ったり、すりつぶしたりために使われたそうだが、展示されているのは出土したうちのほんの一部だという。(出土した石皿の数は2千枚以上とも聞いた)
※ 遺跡管理棟の壁横に展示されていた「石皿」です。
続いて復元されている竪穴住居跡に導かれた。復元されている竪穴住居跡は全部で6つあったと記憶している。印象的だったのはどの竪穴住居跡でも住居の入口と考えられるところとは対極のところに祭壇跡が設けられていたことだ。その祭壇跡の前には火を扱う簡単な竈跡があり、その形状から時代が分かるとの説明だった。つまり、当初の竈は土器だったが、土器と石の組み合わせ、石だけのもの、石を二重にしたものと変遷を遂げているとのことだった。
※ 竪穴を復元したものですが、深く掘られた穴は柱を立てるための穴です。写真奥中央の穴は祭壇を置いたところで、その手前には火を扱った竈跡だということです。写真の竈は石ですね。
※ 竪穴式住居の完全復元、骨組復元、竪穴復元が並んで見えるところです。
大船遺跡には完全復元した竪穴住居があるが、前日まで雨が降り続いたこともあり、竪穴住居を覆っている葦を乾かすために内部で火を焚いていたために内部見学をすることはできなかったが、外から見るかぎり他の住居跡と大差はないようだった。
※ こちらは完全復元された竪穴住居です。
※ こちらは竪穴住居の骨組みだけ復元されたものです。
遺跡の一方には石が不規則に転がっていた。ガイドによると、食料の残りかすや壊れた道具などが土と共に大量に積み重ねられた「盛り土遺構」であるとのことだった。「盛り土遺構」は単なるゴミ捨て場ではなく、火を焚いた痕跡があることから儀礼が行われていたと想像され、縄文人は全てのモノに宿った魂の「送り場」だったと考えられているそうである。
※ 「盛り土遺構」の跡です。
大船遺跡では100棟を超える竪穴住居跡が発掘されたそうだが、そのうち6つを様々な形で再現展示している。再現展示されているところも含めて発掘された住居跡は覆土されて保全されているということだろう。こうした形で当時の様子を復元展示していると、縄文人の生活を具体的にイメージすることができるという利点がある。学術的な保存という観点からはどのように評価されるのか知る由もないが、隣の「垣ノ木遺跡」とは、対照的だったことで考えさせられた点だった。
※ 遺跡がある丘からは太平洋(内浦湾)が近くに望めました。