師匠の講演が終わって夜の懇親会までの待ち時間の間、控え室にて自分は昔、師匠の部屋の向かいに住んでいたことを師匠に話した。「おぅよ、何でえ、あん時の先生かい、今まで黙っててあんたも人が悪いな、おう、覚えているよぅ」と。 でも本当は覚えているわけがない。15年も前の話である。しかも自分と師匠は年に数回、顔を合わすかどうかの間柄である。また自分が引っ越したあとは別の人が入居して、やはり朝に時々師匠と顔を合わせているのである。師匠は誰からでも挨拶されるが、それがいつ頃の誰なのかは師匠だっていちいち覚えていられるわけがない。「おいおい、おいらは色んな人から挨拶されるんだ。昔のことまでいちいち覚えてらんないよー、悪いねー」という返事を自分は期待していた。ところが彼の「覚えているよ」という常識的なサービス精神に少々肩透かしを食らったような感じであったのだ。彼に破滅型で破天荒な日常を期待していたのはこちらの身勝手な幻想なのであろう。