「粉薬を飲むこと」の技術は自転車と同じである。乗れない人には難しいのであろうが、乗れるようになった人にはその難しさなどは理解できない。そして「粉薬が飲めない」まま大人の階段を一つ飛ばしに上ってしまった人には、将来、健康で薬を服用しなくてもいい状態を維持するか、あるいは錠剤だけの処方にしてもらうか、ということになる。外来には思った以上に「私、粉薬が飲めません」という患者さんが多いのに気が付く。子供ではない大人の患者さんである。自分の育った環境(あるいは時代)では「粉薬が飲めるようになること」は、大人になるまでに当然習得している技能として自分は理解していた。したがって大人の患者さんが「あ 私、粉薬が飲めないんです」と言われると、少々面喰ってしまうのである。最近では特にこの「粉薬がのめない」ことを、堂々と申告される患者さんも多い。たぶん自分だとしたら大人の階段を一つ踏み外してしまったわけであるから、少し「恥ずかしそうに」あるいは「申し訳なさそうに」申告すると思う。これは良し悪しの問題ではない。ただ育った時代や環境の違いによる「受け止め方」の違いなのであろう。<o:p></o:p>