きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

モットガンバリマショウ

2012-06-05 | 息子keke
もう6月です。

2年になろうとしています。

その間、私はこの苦悩をブログに吐き続け、もちろん周囲のほとんどの人にボヤき続けました。
半分の人は「そのぐらいの子供が居ないから分からない」と言い、あとの半分の人は何か言わなければ申し訳ないと思ったのか、ああしたらいいのではないか、こうしたらいいのではないか、私だったらこうかしら、と言ってくれました。

藁をもすがる気持で、至らないながらも私は必死で頑張る頑張る頑張る。
やがて、ああしたらいい、こうしたらどうかに疲れ果て、今では「モットガンバリマショウ」と言う機械音にしか聞えなくなりました。

私はこれ以上何を頑張ればいいのでしょうか。
何のために?いったい誰のために?

と貝になった時に、kekeの気持がほんの少しだけ分かった気がしました。
「これ以上頑張ってまで、生きていたかぁねぇや!」と天にツバを吐きました。

きっと結果が全てなのでしょう。
結果が出ない限り、頑張っているとはみなされないのでしょう。

分かりやすく言えば人殺し。
それはいけないこと、絶対許されないこと。
しかし、それをした人の全てにおいて、何もかも私が勝っているとどうして言えよう。
その人の過去から全て100%をどうして否定できよう。
罪は憎んで人を憎まず。
こうなった経緯に何かどこか同情しうるところもあるのではないか、でも人殺しでは、さすがにそれはないのか。
だとしたら不正受給だったら、不倫だったら。

同様に(そこで「同様に」して良いかイマイチ自信がないですが)、100%正しい人がいるのだろうか。
100%正しい意見(アドバイス)があるのだろうか。
自信なさげにフラフラしてれば突っ込まれる、ただそれだけのことではないか。

そう気がついた時に、あれだけ多くの人がいろんな「感想」を述べたに関わらず「大学だけは絶対辞めさせるな、あと1年休ませてでも」と言ってくれた人は誰も居ない事に気がついたのです。
(もちろんその感想が「正しい」かどうかすら分かりません。)

孤立無援。
1人で育てる事の限界を知りました。

同じ責任を感じてくれるであろう父親に身近にいてほしかった、と初めて感じました。
そうしたらこうはならなかったのではないか、もっと違う別の問題が起こったかもしれないけれど。

今となっては全てが運命なのです。
これも運命。この先死んでも、それは運命。
勘弁してください。
それでもまだ私達は終わらないのです。


何日か前、G子が言いました。
「T男のアドバイス、的確だった」と。

胸にシリコン(だっけ?)を入れてボインにするような違和感がありました。
私はアドバイスなんてしたことがない。生まれてから1度も。
「感想」です。
それがたまたま偶然、その日に限って上手くいっただけなのです。

できればこれから「ガンバリマショウ」と言う言葉は使いたくない。

「(ここまでよく)がんばりましたね」と言う言葉に変えたい。
変換できない場合もあるけれども。


昨日kekeが作ったカレー。
手際よく、あっという間にできました。