暑い。
いよいよ暑くなってきた。
それでも朝晩涼しくて過しやすいのがありがたい。
この陽気がしばらく続くと、地面のアスファルトが熱を持つ。
エアコンの室外機の熱風やら。
こうなってくると、夏がうざくなってくる。
今はまだそこまでは来ない。
窓を少し開ければ大の字で寝ていられる。
五木寛之さんの本はもう5~6冊読んだだろうか。
どれも最近のエッセーばかりである。
文章が分かりやすく優しいので、すいすい読めてしまう。
他の年代に書いたものや、小説に手を伸ばさないのは、まだ怖いからなのである。
そうだ、私は大昔から怖がりなのだ。
だから学校のうんていは2段目までしか手が伸ばせなかったし、逆上がりも逆立ちもとうとうできなかった。
「新しく何かを冒険する」と言うことがいつも怖かったのだ。
遠足とか、修学旅行なんて嫌いだった。
山になんて行こうものなら、自分だけ取り残されて二度と家に帰れなくなるのでは、と思ってべそをかきながら登った。子供時代は食べれない食べ物が山ほどあったのも、今から思えば「恐怖」からきたものだったと思う。
そういう意味で五木先生の本は裏切らない。
底の底に優しさがあって、私はそう思うけどそれが正しいとはかぎりません、としている。
そのゆるさが安心させてくれる。
今読み終えた「天命」はこうも書いてある。
50歳まで頑張って生きてきた人間が悲しいことに残りの後半は、「老い」と「病気」でさらに苦しむそうである。「だよな」と私も思う。最初にそう書いてもらうことで、「だよね」と軽く覚悟ができる。
私みたいな人間は人から明るく励まされても、そう言っていただけることは喜ぶが、心のどこかで「自分に限ってそうではないかも」と思ってしまう。それは子供時代に体育の時間や給食で、人と同じ事ができなかった経験が大きいのではないかと思う。
人はそうでも自分は違うのでは、と言う思考回路が定着しているからである。
そういう人にはむしろ、「人生なんて誰もが辛いものですよ。」と言ってもらえた方が横並びで安心できるのだ。
ネガティブをさまよったあげくの「ポジティブシンキング」なのである。
この底辺をさまよい歩く「ネガティブシンキング」は自分の欠点だと思ってきたが、五木さんの本を読んでいると「これもいいのだ」と言う気がしてきた。
少なくても、私は五木さんの「人生は辛いもの」「50を過ぎたら体はだんだんきかなくなる」「健康に熱心な人が必ずしも長命ではない」「国家は当てにならない」こういう文章を読んで、逆に共感するし、安心する。
私みたいな人間が「それでいいんだ」と言う安心感を得られるのはネガティブシンキングからなのである。これはポジティブシンキングを正しいと信じている人には理解できないかもしれない。
今日は妹が病院の先生と話をするというので、帰ってから真っ先に妹に電話した。
妹は「今日は熱も下がったし、これから食事がもう一度取れるように頑張ってみるって。」と、そちらに焦点があるようである。たぶん先生から聞いた内容は同じようなはずなのに、姉妹で受け取る焦点が違うのである。
以前だったら「バカバカ私ったら、そんなだから子育てもうまく行かず・・・」と思う場面だが、私はこういう性格なのだ。怖がりだから、最初に悪い事態を想定して、グッと1度覚悟をしてからでないと前に進めない性格なんだ、と思うことにしよう。
そして、それは決して悪いことではない。
妹も先生から意志を確認されたと言うので、父が痛い思いや苦しい思いを長い間することはさけたい、と言う気持を伝えたよという。
いよいよ暑くなってきた。
それでも朝晩涼しくて過しやすいのがありがたい。
この陽気がしばらく続くと、地面のアスファルトが熱を持つ。
エアコンの室外機の熱風やら。
こうなってくると、夏がうざくなってくる。
今はまだそこまでは来ない。
窓を少し開ければ大の字で寝ていられる。
五木寛之さんの本はもう5~6冊読んだだろうか。
どれも最近のエッセーばかりである。
文章が分かりやすく優しいので、すいすい読めてしまう。
他の年代に書いたものや、小説に手を伸ばさないのは、まだ怖いからなのである。
そうだ、私は大昔から怖がりなのだ。
だから学校のうんていは2段目までしか手が伸ばせなかったし、逆上がりも逆立ちもとうとうできなかった。
「新しく何かを冒険する」と言うことがいつも怖かったのだ。
遠足とか、修学旅行なんて嫌いだった。
山になんて行こうものなら、自分だけ取り残されて二度と家に帰れなくなるのでは、と思ってべそをかきながら登った。子供時代は食べれない食べ物が山ほどあったのも、今から思えば「恐怖」からきたものだったと思う。
そういう意味で五木先生の本は裏切らない。
底の底に優しさがあって、私はそう思うけどそれが正しいとはかぎりません、としている。
そのゆるさが安心させてくれる。
今読み終えた「天命」はこうも書いてある。
50歳まで頑張って生きてきた人間が悲しいことに残りの後半は、「老い」と「病気」でさらに苦しむそうである。「だよな」と私も思う。最初にそう書いてもらうことで、「だよね」と軽く覚悟ができる。
私みたいな人間は人から明るく励まされても、そう言っていただけることは喜ぶが、心のどこかで「自分に限ってそうではないかも」と思ってしまう。それは子供時代に体育の時間や給食で、人と同じ事ができなかった経験が大きいのではないかと思う。
人はそうでも自分は違うのでは、と言う思考回路が定着しているからである。
そういう人にはむしろ、「人生なんて誰もが辛いものですよ。」と言ってもらえた方が横並びで安心できるのだ。
ネガティブをさまよったあげくの「ポジティブシンキング」なのである。
この底辺をさまよい歩く「ネガティブシンキング」は自分の欠点だと思ってきたが、五木さんの本を読んでいると「これもいいのだ」と言う気がしてきた。
少なくても、私は五木さんの「人生は辛いもの」「50を過ぎたら体はだんだんきかなくなる」「健康に熱心な人が必ずしも長命ではない」「国家は当てにならない」こういう文章を読んで、逆に共感するし、安心する。
私みたいな人間が「それでいいんだ」と言う安心感を得られるのはネガティブシンキングからなのである。これはポジティブシンキングを正しいと信じている人には理解できないかもしれない。
今日は妹が病院の先生と話をするというので、帰ってから真っ先に妹に電話した。
妹は「今日は熱も下がったし、これから食事がもう一度取れるように頑張ってみるって。」と、そちらに焦点があるようである。たぶん先生から聞いた内容は同じようなはずなのに、姉妹で受け取る焦点が違うのである。
以前だったら「バカバカ私ったら、そんなだから子育てもうまく行かず・・・」と思う場面だが、私はこういう性格なのだ。怖がりだから、最初に悪い事態を想定して、グッと1度覚悟をしてからでないと前に進めない性格なんだ、と思うことにしよう。
そして、それは決して悪いことではない。
妹も先生から意志を確認されたと言うので、父が痛い思いや苦しい思いを長い間することはさけたい、と言う気持を伝えたよという。