ここの数日、夕飯にお酒を飲まなくなった。
まだビールはある。
それも発泡酒ではなく、社長に分けてもらったお歳暮のれっきとしたビールだ。
飲もうとすればたぶん飲めるのだろうけれど、無理して飲むものでもないような気がして。
その代わりと言ってはなんだけど、自分へのご褒美は寝る前のお風呂。^^
寝る前にゆっくりお風呂に入ってリラックスしましょう、というのが今のストレス解消のつもり。
また暑くなればビールが飲みたくなるだろうし、今日はプシュ!とやらなきゃと思う日もあると思うし、そしたらまた飲みたくなるかもしれないし、先の事は分からない。
でも、昨日は飲まないことを選んだ。
飲まなければその後のお風呂も気持いいし、だいたい夜にトイレに起きなくてぐっすり眠れるのだ。
それもまた気持がいい。
ずっと前から「ビールをやめたい」と何度もブログに書いていたが、たぶん今年に入ってから飲んでない。
これでいいのだ、と今は思う。(先の事はやはり分からないが)
でもどうだろう?
例えば、ビールを嫌いな人がいたとして、「酒なんて体によくないし、飲まない方がいいに決まってる!」「飲むことなんて間違っている!」と飲んでいる人を頭から非難したりしていたらどうだろう?
それはそれで正論だけど、でも過去に飲んでいた自分も、飲むことが好きだった自分も否定したくないし、他人から否定されることではないと思ってしまう。今の自分がそう言う境地に至ったのは、過去の自分があったからこそであり、「酒はよくない」と赤の他人から一方的にヤメロと言われても、「そうですね」と口では言っても腹では「あぁそうですか」と言う気持になるのである。
ここからが論理の飛躍と言われることを覚悟して書くのだが、恋愛も同じように私は思ってしまう。
私は過去に結婚をしている身でありながら他に好きな人ができたこともあるし、元夫に他に好きな人ができて家を出られたこともある。(ちなみに前者と後者の夫は違う人間です。)
そんなことは絶対に自分は巻き込まれないぞ、と思っていたのに家庭を持つ人を好きになったこともある。
そういう経過を経て、今の自分は「何はともあれ、夫婦はいたづらによそ見をせず共に愛し愛されるのが一番である」という結論に至ったのだ。
そうなるまで分からないのか、と言えば分からなかった。
愚かと言えば愚か者である。
でも私は生きていたのだった。
愚かではあるが、何もせず人を非難するだけとはまた別の潔さがあると思うのだ。
それなりのペナルティは必ず後からついてくる。
でも私はそのことを決して後悔はしないのだった。
「生きていた」という感触があるからだと思う。
そしてそのペナルティは赤の他人が力で叩くことではないような気がする。
残念ね、とファンが離れていくのは当然にしても、不倫がまるで警察に逮捕でもされたかのような報道や批判、大騒ぎは異様に(私には)思えてしまう。
そういう恋愛を正当化するつもりは今さらないのだが、モーニングむすめのYさんなんて、いったい何年前のことだろうに、未だに言われ続けるのが心から気の毒でならない。当人同士は慰謝料で納得して解決している以上、赤の他人がいつまでも言い続けることなのだろうか。
もちろんそういうのが嫌いな人がいてもいい。
だけど、そういう考え方だけが正しくてあたかも正義の鉄拳を振るっているかのような状況は、怖い。
恋愛問題だけではなく、芸能人批判もそうである。
ある芸能人が生意気に見えると、1から10まで一斉に批判がうずまく。
(とネット上で感じるのは私の思い違いだろうか)
その思考回路は、怖い。
正論には違いないが、人の横面をひっぱたいて快感を味わっているような怖さを感じるのである。
もちろん、私も元夫に去られた時は10年ぐらいそんなことを言っていたので、そう言う不倫批判の気持も分からないのではないのだが。。。そういう当事者及びその関係者ならまだ良いが、そうでなくてそれに乗っかって快感さを味わっている個人がいるとしたら、それは区別をしなければならないし、見抜く必要があると思う。
それは正論には違いないが「正しく」は無い。
モーニングむすめのYさんと、Bさんは、それでも(こんなご時勢なので大きな声では言えないけどね)、必ず見ている人はいるから、頑張ってほしい。
そう願っている人は私だけではないはず。
まだビールはある。
それも発泡酒ではなく、社長に分けてもらったお歳暮のれっきとしたビールだ。
飲もうとすればたぶん飲めるのだろうけれど、無理して飲むものでもないような気がして。
その代わりと言ってはなんだけど、自分へのご褒美は寝る前のお風呂。^^
寝る前にゆっくりお風呂に入ってリラックスしましょう、というのが今のストレス解消のつもり。
また暑くなればビールが飲みたくなるだろうし、今日はプシュ!とやらなきゃと思う日もあると思うし、そしたらまた飲みたくなるかもしれないし、先の事は分からない。
でも、昨日は飲まないことを選んだ。
飲まなければその後のお風呂も気持いいし、だいたい夜にトイレに起きなくてぐっすり眠れるのだ。
それもまた気持がいい。
ずっと前から「ビールをやめたい」と何度もブログに書いていたが、たぶん今年に入ってから飲んでない。
これでいいのだ、と今は思う。(先の事はやはり分からないが)
でもどうだろう?
例えば、ビールを嫌いな人がいたとして、「酒なんて体によくないし、飲まない方がいいに決まってる!」「飲むことなんて間違っている!」と飲んでいる人を頭から非難したりしていたらどうだろう?
それはそれで正論だけど、でも過去に飲んでいた自分も、飲むことが好きだった自分も否定したくないし、他人から否定されることではないと思ってしまう。今の自分がそう言う境地に至ったのは、過去の自分があったからこそであり、「酒はよくない」と赤の他人から一方的にヤメロと言われても、「そうですね」と口では言っても腹では「あぁそうですか」と言う気持になるのである。
ここからが論理の飛躍と言われることを覚悟して書くのだが、恋愛も同じように私は思ってしまう。
私は過去に結婚をしている身でありながら他に好きな人ができたこともあるし、元夫に他に好きな人ができて家を出られたこともある。(ちなみに前者と後者の夫は違う人間です。)
そんなことは絶対に自分は巻き込まれないぞ、と思っていたのに家庭を持つ人を好きになったこともある。
そういう経過を経て、今の自分は「何はともあれ、夫婦はいたづらによそ見をせず共に愛し愛されるのが一番である」という結論に至ったのだ。
そうなるまで分からないのか、と言えば分からなかった。
愚かと言えば愚か者である。
でも私は生きていたのだった。
愚かではあるが、何もせず人を非難するだけとはまた別の潔さがあると思うのだ。
それなりのペナルティは必ず後からついてくる。
でも私はそのことを決して後悔はしないのだった。
「生きていた」という感触があるからだと思う。
そしてそのペナルティは赤の他人が力で叩くことではないような気がする。
残念ね、とファンが離れていくのは当然にしても、不倫がまるで警察に逮捕でもされたかのような報道や批判、大騒ぎは異様に(私には)思えてしまう。
そういう恋愛を正当化するつもりは今さらないのだが、モーニングむすめのYさんなんて、いったい何年前のことだろうに、未だに言われ続けるのが心から気の毒でならない。当人同士は慰謝料で納得して解決している以上、赤の他人がいつまでも言い続けることなのだろうか。
もちろんそういうのが嫌いな人がいてもいい。
だけど、そういう考え方だけが正しくてあたかも正義の鉄拳を振るっているかのような状況は、怖い。
恋愛問題だけではなく、芸能人批判もそうである。
ある芸能人が生意気に見えると、1から10まで一斉に批判がうずまく。
(とネット上で感じるのは私の思い違いだろうか)
その思考回路は、怖い。
正論には違いないが、人の横面をひっぱたいて快感を味わっているような怖さを感じるのである。
もちろん、私も元夫に去られた時は10年ぐらいそんなことを言っていたので、そう言う不倫批判の気持も分からないのではないのだが。。。そういう当事者及びその関係者ならまだ良いが、そうでなくてそれに乗っかって快感さを味わっている個人がいるとしたら、それは区別をしなければならないし、見抜く必要があると思う。
それは正論には違いないが「正しく」は無い。
モーニングむすめのYさんと、Bさんは、それでも(こんなご時勢なので大きな声では言えないけどね)、必ず見ている人はいるから、頑張ってほしい。
そう願っている人は私だけではないはず。