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きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

「眠れないほどおもしろい百人一首」/板野博行さん

2016-01-28 | 読んだ本
図書館の返却棚にあったこの本を読んでいる。

百人一首といえば、子供の頃のsake家の正月で行われていた。
カルタ取りもしたし、坊主めくりという遊びもした。私はどちらも好きだった。
(その後いつしかsake家の正月はマージャンに替わるのだが。。。)

百人一首かぁ・・・。
当時は下の句のカルタを取るのに必死だったので、何枚か覚えていたものもある。
ちなみに私がお気に入りの札(絶対に自分が取らねばならない札)はこれである。

●さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮
(あまりのさびしさに耐えかねて、家を出てあたりを眺めてみると、どこもかしこも同じようにさびしい秋の夕暮れであることよ)


・・・深い意味はない。
ただ坊主頭がおもしろくて、気に入っていたのだと思う。
他にもオハコの札が何枚かあったが、いずれも全て坊主札であった。
私は子供時代の当時いじめられっこだったので、(おそらく)お姫様や天皇みたいなお偉いさんより、こういう見てくれのわるい坊主札をかわいそうに思い、ひいきにしていたのだろうと思われる。


そんな百人一首の思い出もありつつ、本を読んでみることにした。
案外面白い。
この本のうれしい所は、古文は全て現代訳がついていることである。よく読めば意味が分かりそうな句にも現代訳を必ず載せてくれている。(ありがたい)

それから、その句や作者にまつわるエピソードも載せてくれているので「ふむふむ」と思いながらその和歌を楽しむことができる。例えば在原業平さんのようなプレイボーイは過去にこんな恋もしてたんですよ、みたいなワイドショー的解釈も入れてくれている。

頑張っているなぁと思うのは、この作者は自ら藤原定家(百人一首を選んだ作者)になりきって本を進めている。(「これはボクのお父さんの句」と言いながら父親の句を紹介している。)また、現代人は恋愛の歌が面白いだろうと推測し、恋愛の和歌からどんどん紹介(それも小野小町や在原業平、和泉式部といった恋愛スキャンダラスな有名人の句から紹介)している辺りもにくい演出になっている。


それにしても平安時代の男女はこうも悩み苦しみながら恋に身をこがしていたのか・・。

というのは、当時の結婚形態は、男子が夜に女子の家を訪れる結婚形態なのである。そして男子はこの人一人にしぼらなくてもいい(罰則がない)のだ。なんとなく飽きてしまったら、もっと若い恋人の家を訪ねるのもOK。そしてまたたまに古女房の家を訪ねるのもOKなのである。

そして基本、女子から男子に猛アタックするのは「はしたない」事とされ、女子はひたすら待ちの身なのである。本当は他に好きな人がいても、その人の足が遠のいてしまえばどうすることもできず、しかし新たに他の迫ってくる男子を受け入れるのもやぶさかではない。(ちなみにその家の資産は女子が受け継ぐので、夫がよその女の方に行っても金銭的に困ることはないようだ。)

だから百人一首も、この時代の文学も、女が身をこがして来ないかもしれない男を待つ、涙涙の歌(中にはプリプリ怒ったり恨んだりするのも)がゴマン!とあるのである。「袖をぬれつつ」みたいなのは、全部涙で袖をぬらしているのである。


パタンと本を閉じて、これは今の時代では考えられないことである。
今なら携帯で「ちょっとぉ~、今日うちに来るの?来ないの~?」で終わりであろう。

しかし見よ。
まだ昭和の時代、携帯がない時代、我々は約束の時間にまだ来ない相手を思い煩い、ハラハラドキドキ待っていたあの頃を。あの頃の方が相手が来るか来ないか、来ないなんていったい何があったのか、だからこそ会えた時の喜び・・・そして恋はいつもジェットコースターであった。(と振り返りたい)

「結婚さえしちゃばこっちのもの、何かあったら慰謝料でギュウギュウ言わせてやるわよ」
そんな気持では・・・・。


そうだよ、そこに待つ哀しみがあるから意味があるのだ・・・。
(ちなみに男が振られることもある。女だって他にもっとめぼしい男が来れば今の男は断ってしまうのだ)


恋はいつもフリーダム。相手の心も自分の心も何の保証も約束もない。だからいっそ切ないし思いやりが持てる。(のではなかろうか・・)
力でねじ伏せられるのが怖いから大きな声では言わないが、そう思っている人はきっといるはず。
正しいだけでは、人の心は動かせないってね。

便利なことが、人をどんどん鈍感にし、正しいことが生きることをどんどんつまらなくしている。
・・・・この時代の行く末には何があるのだろうか・・・。