津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

光尚の再婚話・・書状-1

2008-07-12 14:04:02 | 歴史
 一筆啓上候仍早晩哉肥後守縁邊之儀小笠原殿息女と申合候ハヽ只今右近殿と我等との間同前之儀ニ御座候 御次而之刻御取成被成可被下候哉与内々申入候つる右近殿よりも其段貴様へ可申上由壱岐殿を以御申候つる 其分にて御座候哉重而 上意御座候へハ不及申何之道にも御理りハ不成わけと奉存候ニ付而先達右之段申入候つる 其刻より如申入(大脱カ)名衆ニて御座候へハ何れにても忝存事候 次當八条殿より古八条殿御息女肥後守と一所ニ被成度由被仰越候 貴様へも被仰候由被仰聞候 御人持にても無御座候間同心ニて御座候へとも右より貴様へ内々申置候儀御座候間申なをし儀ハ不罷成由御返事申上候 右内々申入候方不成様ニ候ハヽ我等方よりハ言上不成わけニて御座候得とも 八条殿なとの被仰分ハ御披露も被成能候ハん間従八条殿之被仰分相調候様ニ被仰上可被下候 又いつれそ被仰出候てからハ不成儀ニ御座候間存通如此候 恐惶謹言
   (寛永十五年)九月十五日                  (忠利)
            酒井讃岐守様
                人々御中
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光尚の再婚話?

2008-07-12 12:33:53 | 歴史
 光尚正室(三齋孫女・彌々--烏丸光賢女)は、寛永十三年十月十四日産後の肥立ちが悪く、僅か十七歳で亡くなった。寛永十五年九月十五日付の「酒井讃岐守宛書状」、「京極主膳宛書状」、「永井日向守宛書状」をみると、光尚の後室問題がいくつかあったことが伺える。差出人は忠利である。
 「酒井讃岐守宛書」によると、一人は縁戚にも当たる小倉の小笠原右近殿(忠眞であろうか)の息女であり、又、古八条殿息女の話が持ち上がっている。三件の書状の内容からすると、どうやら同時期に持ち上がったものらしく、忠利の困りきった様子が伺える。いっそ将軍家からの「お声」でも掛かれば一挙に解決したのだろうが、・・・現実には光尚は後室をもらっていない。原因は何なのだろうか?。この事についての史料は、その後見つけ出せないでいる。

 寛永十五年といえば、この年の二月天草島原乱が平定され、幕府も細川家もその終結に安堵の想いが満ちていた時期である。しかしその所労が重なり、寛永十八年三月十七日逝去する。忠利の死も原因の一つかもしれないが、時間的には辻褄が合わない気がする。

 そんな中、
【寛永十九年(1642)光尚、綱利生母(清高院)に御暇を下されんとす。懐妊の旨を報告するも流産致さすべきの御意、岩間六兵衛諫言しこれを預かる。(綿孝輯録)】という事が有り、寛永二十年(1643)正月八日、綱利が江戸にて誕生した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする