宇野東風はその著「細川霊感公」で、「霊感公の堀平太左衛門を採用し、政務を任じ給ふや、之に反抗せしもの、松野七蔵、益田弥一右衛門、弓削清左衛門、及家老有吉大膳か臣某等」と四人の名前を挙げている。松野・益田・弓削は上書を上げた。「松野は憂国の至情より出てたるものヽ如く、他は未だ之を是認する能はざるものあり・・」と記す。
ある書の中でI氏は、「非難つづく名君賢宰の宝暦改革」なる一文を挙げて、「これらの諸事件は(中略)反対派による派閥抗争だけでは片付けられない政治批判を意味した」とされる。いささか意見を異にする部分もあるが、読みもしないでは反論も出来まいと、「益田弥一右衛門言上書」を読み始めた。これは弥一右衛門が霊感公(細川重賢)に上げた封事であるが、弥一右衛門は「私より申上候儀、一切誰ニも 御意不被成候様奉願上候」と、この封事が公にならないように頼んだ上、「洩候而ハ御為相成不申儀と奉存候」と、脅しと思えるような文言を入れている。重賢は一方の当事者、宝暦の改革の立役者堀平太左衛門に「反論あらば・・」とこれを手渡している。為に平太左衛門の「申開書」が共に付けられている。重賢からこの「申開書」を見せられた弥一右衛門は、職を辞して逼塞に至ったという曰く付きの封事である。
昨今、宝暦の改革に関するいろんな意見が見られる。700町歩に及ぶ隠田を見つけ出した、田添源次郎の十五年に及ぶ「地引合い」さえやり玉に挙げられるが、このような論調には合点がいかぬ。そして弥一右衛門の「政治批判」が、正当なものなのかを知ろうとのチャレンジである。(この暑い中ご苦労さん・・・)
ある書の中でI氏は、「非難つづく名君賢宰の宝暦改革」なる一文を挙げて、「これらの諸事件は(中略)反対派による派閥抗争だけでは片付けられない政治批判を意味した」とされる。いささか意見を異にする部分もあるが、読みもしないでは反論も出来まいと、「益田弥一右衛門言上書」を読み始めた。これは弥一右衛門が霊感公(細川重賢)に上げた封事であるが、弥一右衛門は「私より申上候儀、一切誰ニも 御意不被成候様奉願上候」と、この封事が公にならないように頼んだ上、「洩候而ハ御為相成不申儀と奉存候」と、脅しと思えるような文言を入れている。重賢は一方の当事者、宝暦の改革の立役者堀平太左衛門に「反論あらば・・」とこれを手渡している。為に平太左衛門の「申開書」が共に付けられている。重賢からこの「申開書」を見せられた弥一右衛門は、職を辞して逼塞に至ったという曰く付きの封事である。
昨今、宝暦の改革に関するいろんな意見が見られる。700町歩に及ぶ隠田を見つけ出した、田添源次郎の十五年に及ぶ「地引合い」さえやり玉に挙げられるが、このような論調には合点がいかぬ。そして弥一右衛門の「政治批判」が、正当なものなのかを知ろうとのチャレンジである。(この暑い中ご苦労さん・・・)