津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

益田弥一右衛門言上書

2008-07-22 12:37:56 | 歴史
 宇野東風はその著「細川霊感公」で、「霊感公の堀平太左衛門を採用し、政務を任じ給ふや、之に反抗せしもの、松野七蔵、益田弥一右衛門、弓削清左衛門、及家老有吉大膳か臣某等」と四人の名前を挙げている。松野・益田・弓削は上書を上げた。「松野は憂国の至情より出てたるものヽ如く、他は未だ之を是認する能はざるものあり・・」と記す。

 ある書の中でI氏は、「非難つづく名君賢宰の宝暦改革」なる一文を挙げて、「これらの諸事件は(中略)反対派による派閥抗争だけでは片付けられない政治批判を意味した」とされる。いささか意見を異にする部分もあるが、読みもしないでは反論も出来まいと、「益田弥一右衛門言上書」を読み始めた。これは弥一右衛門が霊感公(細川重賢)に上げた封事であるが、弥一右衛門は「私より申上候儀、一切誰ニも 御意不被成候様奉願上候」と、この封事が公にならないように頼んだ上、「洩候而ハ御為相成不申儀と奉存候」と、脅しと思えるような文言を入れている。重賢は一方の当事者、宝暦の改革の立役者堀平太左衛門に「反論あらば・・」とこれを手渡している。為に平太左衛門の「申開書」が共に付けられている。重賢からこの「申開書」を見せられた弥一右衛門は、職を辞して逼塞に至ったという曰く付きの封事である。

 昨今、宝暦の改革に関するいろんな意見が見られる。700町歩に及ぶ隠田を見つけ出した、田添源次郎の十五年に及ぶ「地引合い」さえやり玉に挙げられるが、このような論調には合点がいかぬ。そして弥一右衛門の「政治批判」が、正当なものなのかを知ろうとのチャレンジである。(この暑い中ご苦労さん・・・)
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細川氏動向--兼見卿記から(10)天正十二年春夏

2008-07-22 10:18:41 | 歴史
 天正十二年(1584)
■正月八日:早天長岡越中守(忠興)来、先於侍従方卒度祝義在之、次予方へ請之、令抑留之処、今朝茶湯約諾也、則皈京急之間、中々無用之由理之間、不及是非、卒度羞一盞了、青銅百疋持来、侍従方へ百疋、女房衆妹(兼治室長岡氏・伊彌)金子五両二分・織筋二面持来云々、頓而被皈京陵(以下略)
■二月四日:(略)午刻、幽齋来、百疋・マスノ魚四持来、侍従(兼治)方へも百疋持来云々、於侍従方為茶湯一会、請幽齋、月齋・予相伴、供之者上下廿四五人、悉飯・酒申付了、今夜仰留、及深更相談了、玄三来、遣侍従長光刀南豊軒(相國寺・周清ヨリ到来自去年幽齋見之、スリアケ以下誘之、可遣侍従之由令約諾、今日悉出来、持来也、念ヲ入誘之、驚目訖、メヌキ・カヲ(ウ)カイ後藤作、小刀以下マテ別而入精仕立也、自牧庵書状到来、明朝幽齋請茶湯、可令同道之由申来、相意得之由返事
■二月五日:早々幽齋令同道向牧庵、幽齋・一庵・予、千阿弥縁ニ在之、丁寧也、茶以後囲碁、及晩抑留、在夕飡之儀、次出牧庵、幽齋、盛方院へ同道、自是幽齋参聖護院殿、(以下略)
■二月廿一日:(略)未明出京、向幽齋旅宿、面会、暫相談了(以下略)
■二月廿四日:出京、幽齋在京見廻了(以下略)
■二月廿九日:侍従方女房衆へ、自丹後飯川山城息女、女房衆従父兄弟也、當月為産出、為見舞上洛、此方へ来、平産之間、此間ニ滞留云々
■三月一日:(略)幽齋へ以書状遣使者、明日焼風呂、一会可令興行、可有来臨之由申遣了、後刻使者罷歸、明日茶湯令先約興行之間、来間敷候由申了
■三月三日:(略)次幽齋旅宿一庵(横濱良慶)罷向、暫相談了(略)
■三月六日:侍従女房誕生也、早々罷歸之由申之間、則帰宅、婦子無別儀、女子也、先満足、弥繁昌祝着々々
■三月八日:(略)今夜自長兵入、月齋(この日死去)跡へ千疋持来云々(略)
■三月九日:未明幽齋下國云々
■四月八日:侍従女房(兼治室長岡氏・伊彌)産褥日數卅日明、息女召連来、(略)女社参、其砌予付名、御満(オミツ)侍従満千代ト云、以其儀如此、繁昌弥満足了(以下略)
■五月五日:(略)自丹後長岡入道(幽齋)侍従(兼治)方へ帷二到来、同女房衆(伊彌)方へ到来了
■五月九日:(略)長岡越中(忠興)息煩之間、罷越之由被了
■六月廿八日:(略)及晩長岡越中守上洛、南禅寺ニ陣取之由聞之、即遣使者、只今此方へ来、於路次使ニ罷出之由云、直ニ侍従方へ来、今度在陣數日令迷惑之条々難儀、舎弟玄蕃允(長岡興元)・松井(康之)来、(以下略)
■五月廿九日:(略)長岡越中守大坂へ下向云々
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