津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ミハーな私

2008-07-27 21:40:21 | 熊本
 いわゆる「お馬鹿タレント」と云われて名を上げた「スザンヌ」だが、あっけらかんとした言動で大方の好感を得ているようだ。宮崎の東国原氏とまでは参らぬが、熊本を代表するタレントとして活躍している。
 昨晩友人が運転する車に乗って、市内の繁華街を通り抜けた。週末の人ごみが一段と顕著な一画がある。若者達がたむろして、盛んに携帯のシャッターをおしている。首を傾げている私を見て運転をしてくれる若い友人が、「キャサリン、ズ・バー」ですよと教えてくれた。一瞬に理解に及んだのだが、「スザンヌ」の母親「キャサリン」が、妹の「マーガリン」と共に経営しているバーである。それにしても大変な賑わいで、周辺の同業者も大歓迎だという。
 かって若かりしころ飲んで廻った衆知の街だ。地元の人間ばかりではなく、観光で熊本を訪れた酔客までもが沢山訪れて、入店もままならないという大繁盛の店らしい。
 首を傾げる人もあるようだが、そうむきに成る事もあるまい。結構・・結構・・
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佐藤雅美の「伊也」

2008-07-27 21:16:30 | 歴史
 佐藤雅美著「幽斎玄旨」に於ける、伊也が幽斎家臣・篠山五右衛門に再嫁したという部分は本当の事なのか・・・篠山五右衛門とは後に忠興によって誅伐された飯河豊前宗祐の事であろう。先にご紹介したが、伊也が吉田侍従兼治に嫁ぎ、最初の出産に際しては、幽齋の命により五右衛門の姉(妹?)が、手伝いの為に伊也の許に逗留した事が、「兼見卿記」に記されている。
 総じて佐藤氏のこの作品は、史実に忠実に書かれていると評価しているところだが、この件については史料を見つけえず首を傾げている。ご存知よりの方が居られたら、是非ともご示教いただきたい。
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青龍寺城

2008-07-27 18:42:00 | 歴史
 細川藤孝が青龍寺城に入城した正式な日にちがはっきりしない。。「兼見卿記」を見ると、元亀二年(1571)二月九日の条に「向細兵、皈(帰)城勝龍寺也、直ニ罷下、於路次云、西庄福知所ニ滞留也、罷向對談了、入夜歸宅了」とある。入城して住まう事は出来ないものの、青龍寺の地に帰った事が分かる。「綿孝輯録」は同年十月、米田求政に縄張りさせ青龍寺城の大改修に着手した事を記している。
 
 天正八年(1580)三月十八日、藤孝は(44歳)叙従四位下侍従に任ぜられた。七月信長は藤孝と惟任光秀を安土に召出し、丹後を藤孝に丹波を光秀に賜る旨の仰出がある。松井康之を青龍寺に残し、八月二日(十二日とも)藤孝・忠興父子は丹後に入国する。そして天正九年三月廿五日「矢部善七郎、猪子兵助青竜寺に番手として来られ」、松井康之は城を渡して丹後に罷越したと、綿孝輯録(巻四p138)は記す。
 藤孝の青龍寺在城は九年である。矢部善七郎(家定)・猪子兵助(高就)は、共に織田信長に近侍する馬廻衆及び奉行衆である。青龍寺に入って検地などを行った。

 この文章を読んで思い至る文書がある。文献雑録の「神足掃部頭青龍寺之覚書」(盤桓随筆巻三・所収)である。神足掃部については綿孝輯録に、足利将軍義昭が「勢ひ尽て降を乞、普賢寺に入て御剃髪(昌山道休と号)」した後のこととして次のように記している。
「天正元年信長の坂本攻め(三淵大和守藤英・同弥四郎秋豪など自刃)に際し「此時藤公君御身上之事何れも気遺、青竜寺の御城騒申二付、御本丸米田求政持堅め候得共、二の丸の事無覚束と申候処、神足掃部罷出、私に被仰付候様ニと申、早速地下人共呼集二の丸堅め候、無程藤孝君御首尾能御帰城被成候て、掃部忠節御感被成候」(綿孝輯録巻二・p71)

 さてこの「神足掃部頭青龍寺之覚書」は正式には、「天正十年六月朔日神足掃部青龍寺城ニ而之覚書」である。日を改めてご紹介する。
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