津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

史談会出席

2008-07-26 17:38:31 | 徒然
 「藩校サミット」の関係で、二回に渉りお休みがあった史談会に出席。何時もの顔ぶれが顔を合わせた。前回に引き続き、「小倉戦争」に係わるN家に伝わる「慶應ニ年・於小倉表聞取書」の勉強である。原文のコピーと、講師の下津先生の訓下分に目を動かしながらお話しを伺う。「小倉戦争(四境戦争)」については、吉村藤舟著「郷土物語」に詳しいが、実際戦いを目の辺りにした人の聞書きで、未だ世に出ていない文書でも有り大変興味深い。
 歴史に「もし」はありえないが、唯一長州藩を撃退した肥後藩がその後も小倉に留まり戦いが継続されていたら、明治維新も随分違った形であったろう。新暦と旧暦の違いは有るが、八月一日小倉藩は小倉城を自焼させて敗走する。すでに亡くなっていた藩主の死を隠したまま、未だ六歳であった幼君を守って、一万余といわれる関係者が肥後堺を目指して逃げ来るのは季節も変わる寒い時期である。想像を絶する逃避行があった。

 一説には、小倉城の自焼を進言したのは、肥後実学党の竹崎律次郎だという話がある。のちに熊本城を壊す話が実学党政権から出たことを思うと、ありえる話しかとも思うが、詳細は分からない。慶應ニ年の出来事、維新への歯車は一気に加速する事に成る。
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