津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・田中氏

2008-07-19 13:00:06 | 歴史
 細川家内には田中姓の家が多く見受けられる。ここでご紹介する、細川家家臣田中典儀氏の家祖田中氏久(與右衛門)は、筑後32万石・久留米城主田中吉政の実弟である。田中吉政については、秀逸のサイト「田中吉政公とその時代」を御覧戴きたい。
      snkcda.cool.ne.jp/yosimasa

 さてこの氏久は、兄吉政と折り合いが悪く各地を流浪している。何時のころ細川家に召し出されたのか、豊前召し出しとあるが時期ははっきりしない。於豊前小倉御侍帳では、【留守居組 千石(一書ニ御鉄炮二十五挺頭)・・兵庫】という記述が見える。「福岡県史・近世資料編 細川小倉藩・一)」によると、寛文三年正月(元旦)細川忠利は惣奉行である浅山清右衛門、田中與左衛門に改名を命じている。
「(浅山)清右衛門・(田中氏次)與左衛門も、明日名をかハり可申旨、小谷忠二郎を被仰出、則清右衛門ハ修理亮、與左衛門ハ兵庫ニ可罷成旨由申上候也」
惣奉行として、豊前小倉時代に活躍した事が「日録」などで伺える。

  初代・左兵衛は後年(寛文六年)諫言の書「田中左兵衛封事」を上げた人である。「熊本縣史料・主要人物略伝」によると、実父を佐久間玄蕃(盛政)としている。
         ja.wikipedia.org/wiki/佐久間盛政
島原一揆において活躍、実質一番乗であったが公儀では益田弥一右衛門をして一番乗りとしたが、光尚の遺言に依り綱利代二千石加増されている。慶安元年十二月~延宝四年一月まで初代の城代職を勤めて隠居した。

  2、長五郎・氏栄(左兵衛)
     慶安三年江戸証人 延宝四年家督     
     人持衆併組迯衆 備前組 四千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
     元禄十二年十二月致仕
  3、兵左衛門・氏永(養子 実・溝口政登末子)
     元禄十二年家督 享保三年二月隠居
  4、左兵衛・氏昭(養子 実・二代氏栄子)  四千石 着座 屋敷・二ノ丸
     享保三年家督、城代、備頭 元文三年正月蟄居
     享保十二年十二月~享保十七年九月 城代
     享保十七年九月~元文三年 備頭大頭
     
     元文ニ年曹洞宗禅定寺に対しての離檀事件で蟄居処分となった

  5、左兵衛・氏常(養子 実・小笠原備前長知二男 傳太氏朝)
     元文五年四月家督、四千石拝領、城代、備頭 
     四千石 宝暦十二午正月十一日当役
     寛延三年九月~宝暦十二年一月 御留守居大頭
     宝暦十二年一月~明和七年十二月 備頭大頭
     明和七年知行召上られ蟄居
  6、典儀(兵庫助、兵庫) 若殿様御付・御用人 二千石
     明和七年十二月先祖の訳に対し旧知二千石拝領
     大組付
     安永二年二月~安永四年六月 御鉄炮五十挺頭
     安永四年六月~天明二年二月 中小姓頭
     天明二年二月~寛政元年閏六月(病死)用人
  7、熊太(養子 実・寺尾九郎左衛門二男)
     寛政元年十月名跡相続、大組付 同三年三月歿
  8、加治馬(養子 実・大木氏)  二千石
     寛政三年六月名跡相続、大組付
     寛政十二年一月(比着座)~享和二年十月 中小姓頭
     享和二年十月~文化十年九月 小姓頭
     文化十一年十月致仕
  9、大助  御中小姓・御中老支配 二千石
     文化十一年家督、天保十五年九月致仕
     文政二年十二月(比着座)~文政五年九月 中小姓頭
     文政五年九月~文政十二年四月 小姓頭
     文政十二年四月~天保三年十一月 用人
     天保三年十一月~天保七年三月 小姓頭
     天保十二年二月~弘化三年十月 用人
  10、典儀(氏典) 二千石
     天保十五年家督・明治二年十一月致仕
     弘化四年十月(比着座)~嘉永四年三月 番頭
     嘉永四年三月~安政二年十二月 小姓頭
     安政二年十二月~文久二年五月 佐敷番頭
     文久二年五月~慶応二年七月 留守居大頭・後大目付

  11、兵庫助(典儀)  弐千石
     明治二年家督、比着座

 細川家中屈指の名家として、重職を勤め明治に至った。
田中左兵衛氏久の藩主・綱利(当時25歳)に対する封事は、当時の綱利の生活ぶりをうかがわせて、興味深い。



 
                      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする