津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

読書「本能寺と信長」

2008-07-01 15:21:58 | 書籍・読書
【出版】思文閣出版
【著者】藤井 学
【内容】
本能寺の変で自刀した天下人・信長の、法華宗や茶の湯との深い結びつきを、史料にもとづく史実と豊富な挿話を折り込んで描く。永年、中世法華宗・文化史研究にとり組んできた歴史家の鋭い史眼が冴える好著
【目次】
四条坊門西洞院の本能寺
土倉の沢村と本能寺
南蛮寺と茶屋屋敷
本能寺の変
信忠の自刃
光秀無残
本能寺の信長廟
唐物の茶の湯
つくも茄子の茶入
信長の名物狩
一本の茶杓
祐乗坊と大文字屋
茶人江村栄紀
玉澗の平沙落雁
池上如慶のかぶらなしの花入
辻玄哉の周辺
日奥周辺の茶の湯
本能寺の変に生き残った武士
法華宗僧侶の茶の湯
円乗坊宗円
円乗坊宗円と天王寺屋宗及
円乗坊宗円の懐工合
円乗坊宗円と熊本古流
円乗坊宗円と利休
秀吉と円乗坊
顕本寺の変
法華の大名三好実休
阿波皆法華
勝端城下の茶の湯
三好実休のかえり花の茶会
三好実休の名物茶道具
実休名物と本能寺の変
法華大名松永久秀
松永久秀の首級
松永久秀の多聞城
武野紹鴎と松永久秀と今井宗久
松永久秀の多聞城の茶会
永禄の法理一統と松永久秀
久秀茫茫
信長の京都名物狩
菓子絵と本能寺文琳
蒐集される名物
信長油断
信長最後の茶会
信長と光秀と博多の宗室
扶桑秀逸の重宝灰燼

 只今再度挑戦中。「円乗坊宗円」は千利休の女婿、「茶道肥後古流の祖」とされます。
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諸資料

2008-07-01 11:26:31 | 徒然
 永青文庫の「先祖附」には登場しない、在の名家が沢山ある。かつては大友支配下の侍であったり、加藤家旧臣であったり、国衆やその家臣であったり様々であるが、帰農して在に於いては大きな存在となった。又細川家家臣に仕え(陪臣)たりしている。

 そんなご先祖様について、調査をされている方が多々ある。家臣・陪臣・分家家臣や在の有力者は、身分の枠が取り外されると全て士族の扱いとなった。これについては「有禄士族基本帳」なるものが存在する。又、「無禄士族基本帳」等も存在するが、当サイトではまだご紹介に至っていない。                       その他

     ■無禄卒帳(明治五年)
     ■旧陪臣代数及原禄根帳目録 
     ■古奉公附(明治三年)
     ■家禄奉還帳(明治七年)
     ■  同上・名録
     ■浪人片附(自・明治七年 至・明治九年)
     ■明治七年・貫族明細帳士族一代限

     ■町在目録   13冊
     ■町在人名索引 2冊    など、

貴重な資料が存在するのだが、これはもう膨大な量で、とても当サイトではご紹介は出来そうにない。又、有力家臣家にはいわゆる陪臣の先祖附を残しているお宅がある。こういう物についても追々調査をしてご紹介したいと考えているが、「何時?」と問われると「その内・・」と逃げをうっておかなければ成らない。悪友に「馬鹿」扱いを受けている私だが、健康第一で「馬鹿」を続けようと決意している。
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佐藤外記VS佐藤傳三郎

2008-07-01 09:20:23 | 歴史
 慶安三年七月一日、細川光尚の側近林外記が佐藤傳三郎一統に襲われて亡くなった。そのことを書こうと思っていたら、熊本日日新聞の「言葉のゆりかご」に先んじられてしまった。それはさておき・・・

 事件後の報告書「佐藤傳三郎林外記討果し節書置」ほか、傳三郎の実方に残る「伊藤家伝来之記録」に於いても、この事件の原因ははきとしない。
佐藤傳三郎は、伊藤十之允嫡子で母方の祖父佐藤将監の養子となった。
    御児小姓并御伽衆共 三百石 (肥後御入国宿割帳)
    三百石 (真源院様御代御侍免撫帳) 等の記録が残る。
実方の伊藤家は丹後以来の家、祖父金左衛門は千石、父十之允は鉄炮頭を勤め八百石、島原一揆に際しては、上使・板倉内膳正御付として細川家より派遣された。内膳正共々討死した。
 一方、林外記(太郎四郎)については、千五百石(真源院様御代御侍免撫帳)などの資料が残る。光尚存命中の光尚への上書は残された文書から、外記を通して上げられた事が分かり、外記の専横振りが分かる。
 「山崎之絵図但二之丸塩屋町之内茂有之」を見ると、御華畠(藩主邸)の前を抜けて城内に至る橋を渡るとすぐ左手に、林外記の屋敷がある。藩主邸の前は沢村宇右衛門邸、林外記の屋敷前は小笠原備前・同民部少輔などの重臣の屋敷が立ち並んでいる。そんな環境の中での佐藤傳三郎一統の討ち入りである。傳三郎には従兄弟の佐藤左内などが加勢、左内は討ち死にしている。左内の室は、浅山修理亮(2000石)女、尚浅山修理助が左内子を養子にしている。

 林外記は浪人を雇い入れていたとされるし、重役はどうやら事前に承知していたとも察せられる。藩主光尚亡き跡のお膝元を騒がせたこの事件は、重役の裁量によってうやむやの霧の中にある。

 
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