津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川氏動向--兼見卿記から(11)天正十二年秋冬

2008-07-23 12:31:53 | 歴史
 天正十二年(1854)秋冬
■十月四日:(秀吉禁裏近邊に仙洞御所を造営せんとし自ら縄打に臨む)
(當座連歌興行)
次筑州(秀吉)発句云 
    冬なれとのとけき空のけしき哉 秀吉
    さかへん花の春をまつ比    紹巴
筑州一段褒美、依此儀百石紹巴ニ遣之、即折紙於當座遣之、天下之面目實儀也、次第之幽齋へ所望也、即云
    あたらしき御庭に松を植そへて 玄旨(幽齋)
筑州褒美、機嫌也(以下略)
■十月廿四日:幽齋来、丹後ツムキ一端持来、進夕飡、及暮歸京(以下略)
■十月廿八日:出京、幽齋旅宿一庵へ罷向、面会相談(以下略)
■十一月二日:自幽齋書状到来云、今度禁裏江御屏風進上之、出来也、可一覧歟之由云、即可罷出之由返事了、後刻出京、幽齋旅宿へ罷向、紹巴所へ行也、即紹巴所へ罷向、進上之御屏風立置之、一双、片方者冨士山、雲デイ、片方者橋立也、此絵之事、内々祠(伺)申之調之云々、無比類事也、今日以藤中納言(高倉永相)進上之云々(中略)
幽齋俄可来之由直談之間、徳大寺殿へ御理申、歸宅了、即幽齋来、焼風呂、進夕飡、種々相談、入夜皈京(以下略)
■十一月四日:幽齋皈國云々、後刻聞之、今度屏風之義付、御製二首冨士・橋立御短冊被下之云々、忝次第也
■十一月五日:侍従方為造立作事、今度幽齋相催、依助成俄申付也(以下略)
■十一月十九日:(略)自丹後幽齋書状、今度侍従為作事料合力八木十五石到来、書状返事相調遣了
■十二月十五日:(略)丹後長岡入道(幽齋)ヨリ八木拾石到来、今度作事合力之義也、都合廿五石・青銅五百疋上来也(略)

                    兼見卿記第二 了
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本妙寺頓写会

2008-07-23 10:25:49 | 熊本
 加藤清正公を祀る本妙寺は今晩、10万人ほどの人でごった返します。頓写会(トンシャエ)と呼ばれる、一夜限りのお祭りです。
         www.akiz.jp/kumamoto/tonsyae/tonsyae.html
        www.akiz.jp/kumamoto/honmyoji/honmyoji.html
    (熊本宮口写真事務所のサイトから引用させていただきました)

 7月23日は、加藤清正の命日である慶長16年(1611)の旧暦6月24日の逮夜(前夜)にあたる日です。1周忌に、本妙寺三世日遥上人が法華経一部八巻の69,384文字の書写を始め、同年10月24日に完成しました。これを機会に、翌18年に各僧達が日遥を助けて23日の祥当逮夜に法華経全巻の写経を行いました。以来、これが清正祥当忌の恒例行事となりました。県内の日蓮宗120カ寺の住職が、700基の灯籠が立つ176段の石段を上って廟所へ向かい、1時間半に及ぶ写経の奉納と法要のあと、夜半まで読経は続きます。参道両側には約500もの露天が出店し、浴衣姿の女性や家族連れなどで賑わいます。  (熊本県観光総合サイトから引用)

 私は30年ほど本妙寺のすぐ近くに住みました。毎年友人を招いて宴を張ったものです。夕刻6:30から周辺の交通は遮断され、参拝の10万とも云われる人並みで満ち溢れます。「胸付き雁木(ムナツキガンギ)」と呼ばれる石段(176段)の足元を気にしながら、この際とばかりに若いカップルは(そうでない人も)手を取り合って、清正公の廟所(浄池廟・ジョウチビョウ)まで登るのです。熊本では「せいしょこさん(清正公様)」と親しく呼ばれる加藤清正公、その人気は衰える事は有りません。例年よく夕立に見舞われる「頓写会」ですが、今年も一雨来るかもしれませんね。暑い暑い熊本の夏の風物詩です。
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