「寛永十五年、妙解公より永井日向守様へ御書之内(抜粋)」
従八条殿之御使ニ八月廿一日之御状拝見仕候
(中略)
肥後縁邊之儀付江戸にて(酒井)讃岐殿へ申候ハ被仰出候而からは不及申御意次第之事候条存寄通申候 我等右近續之ことにて候間肥後所へ右近娘申合候様ニハ如何右近も左様ニ被存候由申候つる 小壱岐殿・右近殿との我等間の使にて候 加様ニ申候故少も八条殿を我等きらひ申事にハ無御座候 申直シ候事ハ延慮仕候由御返事申候 此分ニてハ叓済申わけニてハ無之候間さぬき殿へ申入候ハ右内証申置候縁邊之儀如何被成候哉相済間敷様ニも候ハヽ八条殿より切々縁邊之儀被仰能候ハん間右内談之衆不相調候ハヽ八条殿との縁邊之儀相調候様ニと申入候如御存知従方々縁邊之儀申上候へハ 御諚次第ニいつれの成共相調候間八条殿の様なる御衆よりハ肥後との縁邊之儀百人も被仰上候へかしと存事候 貴様如御状八条殿御縁之儀ハ同心ニて御座候へとも右右近殿息女之儀申置候故それを差置候てハ不被申右之分ニ御座候事
(後略)
九月十五日 (忠利)
永日向様
+--まん-----彌々
| ↑
細川忠興-----+--忠利 |
↑ ↓
|------光尚
↓
小笠原秀政---+--千代姫
|
+--右近-----○
忠眞
光尚正室は三齋の愛娘萬(烏丸光賢)女・彌々であり、三齋の意向によるものであることは間違いなかろう。その彌々が亡くなった後の後室として、忠利室・千代姫の姪女(小笠原右近忠眞)が候補として浮かび上がった。忠利がいう「續」の間柄であるから、望まれた話であったろう。千代姫としても愛息の嫁として実方の姪女を迎えることは喜びであったろう。そこに八条某の方からの話が持ち込まれたという経緯らしい。
ご紹介した三つの書状は全て九月十五日に発せられている。忠利の悩みは深い。その後の経緯を知る文書に出会っていないが、結局二つの話は壊れている。
宇土細川家の細川興文室が八条家の出であるが、前出の八条家であろうか。不思議な因縁ではある。