テーマは「肥後藩浦賀警備日記」および「若狭武田氏と肥後武田氏」
「肥後藩浦賀警備日記」は、肥後藩士中村恕斎の息・嘉一郎が認めたものである。父・恕斎は弘化二年(1845)から明治三年(1870)までの二十六年間にわたり、きわめて詳細な日記を残している。幕末・維新期の熊本藩のありさまを知る上での一級史料である。現在嘉永三年までの日記が弐巻発行されている。息・嘉一郎の日記は父親の緻密さには及ぶべくもないが、若者らしい行動が隠すことなく書かれていて、下津講師の解説に笑い声が上がる次第である。いよいよ役目を終えて帰途につく嘉一郎だが、次回くらいでこのテーマも終わりというところだろうか。
「若狭武田氏と肥後武田氏」は本会会員であると共に、地名研究会会員でも有る、F氏・K氏の研究の途中経過の報告である。若狭武田家は元明の代にいたり絶家となるが、細川幽齋の姉・宮川が嫁いだ武田信高の養子となった、甥・元実(七代・義統弟)が肥後に下り阿蘇高森に居住したというものである(武田大和守)
茶道肥後古流(古市流)家元・武田氏や、NHKアナウンサー武田信一氏がその末裔だとされる。先のブログでも書いたが、細川家には宮川の子・英甫永雄(京都建仁寺長老)の斡旋により、たくさんの人が仕官し細川家の根本家臣となっている。しかし是とは全く別の独自の行動で熊本に至っている。両氏の研究は道半ばで、福井の地に足を運ばれて研究の詰めをなさるらしいが、大いに期待をしていることである。
五代
武田元光---+--元度
| 六代 七代 八代(絶)
+--信豊---+--義統---元明
| |
| +--元実
| ↓
| 大和守 山城守
+--信高---+==元実---信秋 墓所:高森含蔵寺
|
+--英甫英雄(京都建仁寺長老)
母・細川幽齋姉・宮川殿
NHK 武田アナ http://cgi4.nhk.or.jp/a-room/aroom.cgi?i=298
含蔵寺 flower-k.at.webry.info/200710/article_25.html
flower-k.at.webry.info/200702/article_52.html
「肥後藩浦賀警備日記」は、肥後藩士中村恕斎の息・嘉一郎が認めたものである。父・恕斎は弘化二年(1845)から明治三年(1870)までの二十六年間にわたり、きわめて詳細な日記を残している。幕末・維新期の熊本藩のありさまを知る上での一級史料である。現在嘉永三年までの日記が弐巻発行されている。息・嘉一郎の日記は父親の緻密さには及ぶべくもないが、若者らしい行動が隠すことなく書かれていて、下津講師の解説に笑い声が上がる次第である。いよいよ役目を終えて帰途につく嘉一郎だが、次回くらいでこのテーマも終わりというところだろうか。
「若狭武田氏と肥後武田氏」は本会会員であると共に、地名研究会会員でも有る、F氏・K氏の研究の途中経過の報告である。若狭武田家は元明の代にいたり絶家となるが、細川幽齋の姉・宮川が嫁いだ武田信高の養子となった、甥・元実(七代・義統弟)が肥後に下り阿蘇高森に居住したというものである(武田大和守)
茶道肥後古流(古市流)家元・武田氏や、NHKアナウンサー武田信一氏がその末裔だとされる。先のブログでも書いたが、細川家には宮川の子・英甫永雄(京都建仁寺長老)の斡旋により、たくさんの人が仕官し細川家の根本家臣となっている。しかし是とは全く別の独自の行動で熊本に至っている。両氏の研究は道半ばで、福井の地に足を運ばれて研究の詰めをなさるらしいが、大いに期待をしていることである。
五代
武田元光---+--元度
| 六代 七代 八代(絶)
+--信豊---+--義統---元明
| |
| +--元実
| ↓
| 大和守 山城守
+--信高---+==元実---信秋 墓所:高森含蔵寺
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+--英甫英雄(京都建仁寺長老)
母・細川幽齋姉・宮川殿
NHK 武田アナ http://cgi4.nhk.or.jp/a-room/aroom.cgi?i=298
含蔵寺 flower-k.at.webry.info/200710/article_25.html
flower-k.at.webry.info/200702/article_52.html