松井興長の藩主・綱利に対する諫言が「相撲道楽」であることを書いた。綱利は細川家の大長老である興長の諫言であるから、少しは慎んだかと思うとどうもそうではないようだ。寛文元年四月綱利は初入国するが、興長はその年の六月二十八日死去する。不謹慎な言い方だが、綱利にとってはもっけの幸いである。私は吉田家の先祖附を詳しく読んでいないが、二十四世追風・吉田長善氏の文章によると、吉田家の肥後入国は寛文元年とあるから、興長の死後召し出されたのであろうか。豪胆な正確であったとされる綱利の一面が垣間見える。以後幕府の承認の下、吉田司家は「相撲の神様」として細川家に仕え、維新後も熊本に在った。横綱の認証なども吉田司家により執り行われてきたが、事業の失敗等が原因してその地位を失った。
ja.wikipedia.org/wiki/吉田司家
yoshidatukasa-ke.net/index.html
祖父が細川家の家政所に勤めていたこともあって、我が家には数枚の相撲関係の写真が残されている。認証の行事などは、小石川のお屋敷で執り行われたらしく、双葉山が訪問した際の記念写真である。
母方の祖母が「善門さん」と親しく呼んだ人があったが、この人がどうやら二十三世の追風であったらしい。実父・猿木宗那と親しかったのであろう。可愛がってもらったようだ。
藤崎八旗宮参道に面する「吉田司家」の跡地は、現在マンションが建っている。
維新期存亡の危機にあった相撲道を、国技に導いたのが善門さんである。
なんとか再興して欲しいと願うものだ。そう考えると、綱利も現在の相撲道の隆盛に係わっていると考えても可笑しくない。興長の心境やいかに・・・
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祖父が細川家の家政所に勤めていたこともあって、我が家には数枚の相撲関係の写真が残されている。認証の行事などは、小石川のお屋敷で執り行われたらしく、双葉山が訪問した際の記念写真である。
母方の祖母が「善門さん」と親しく呼んだ人があったが、この人がどうやら二十三世の追風であったらしい。実父・猿木宗那と親しかったのであろう。可愛がってもらったようだ。
藤崎八旗宮参道に面する「吉田司家」の跡地は、現在マンションが建っている。
維新期存亡の危機にあった相撲道を、国技に導いたのが善門さんである。
なんとか再興して欲しいと願うものだ。そう考えると、綱利も現在の相撲道の隆盛に係わっていると考えても可笑しくない。興長の心境やいかに・・・