津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

田中左兵衛封事 - 1

2009-07-08 19:30:07 | 歴史
  この封事の最後に「寛文六年、右祖父田中左兵衛氏久 綱利公二十五之御年指上申候、控之本書同姓家ニ在り」と書かれてあり、田中忠助氏邑の写本である事がわかる。

  田中左兵衛氏久は、初代・兵庫助氏次の子、氏次の兄は従五位下筑後守田中吉政、豊臣秀吉に仕え筑後32万石を領す。
 左兵衛氏久:元和七年中小姓、光尚付、寛永八年新知百五十石、島原陣後加増五百石・
         小姓頭、正保元年加増千石・都合二千石、肥後藩初の城代職、後加増二千
         石・都合四千五百石、延宝四年致仕、剃髪後宗伯

    大変長文であるため、五回ほどに分けてご紹介する。こちらも大変辛らつである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

             「諫言之覚 田中左兵衛氏久封事 完」

                        謹言上

   此間貞観政要を読申候間、存寄申儀はゝかりお不顧申上候、唐太宗ハさしもの賢王
   ニ而御座候、常に御身のあやまりを聞度思召、諫の官をたて、朝夕諫を御聞被成候、
   それより日々に悪去、善進み、御過ち薄く罷成候、扨又国家をほろほせる君は、諫を
   きらい、我智恵を飾り、驕を窮め、偽り多きに依て、国おも家をも共に亡し申事、書毎
   に記し申候、此事お見候而、此書お御聞被成候時、御心のかゝみに被成、よしあしお
   御引合、御心にしめ、御師とも罷成候様にと奉存、仏神に掛奉り、心の誠を顕し申上
   候、おろか成を御捨て被成、聞召上られ候者可奉忝存候
一、今の人に賢臣を御選み被成候而、其人柄なく候へハ、大方の人の中にいやしからぬ
   者を被 仰付、御諫の役を請取、御身の御あやまり、又ハ難申上事をもつゝます申上
   候へと被 仰付、大方ハ見付ならすにて御座候、賢王・賢主も賎敷者の諌お聞召ため
   しも御座候へ者、いかなる上もにも、我あやまりを聞すして、知るためしハ稀に御座候、
   玉の光もみかゝれは不出候
一、聖人の言葉お聞被成候而も、御咄・御利口の種と迄被 思召候へ者、御心の磨にハ
   不成候、却而智恵を飾もといに罷成候、人の宝も秘蔵なる物ほと深くかくし、朝夕人に
   ふける物にて無御座候、人の言葉も智恵も外へ飾り出し候へハ、内ハ浅く顕れ申候、
   古人水に譬へ申候、水浅けれはつまたて渡り、深けれは人かおそれ申候、言葉も智
   恵も外の飾りと不成様にと諌む事、専用に人の慎所と可被 思召候事
一、大人たる人の 御目の前にハ、ついしょう・へつらい度、次にハそしり懸る者多きと被 
   思召候事、専用に奉存候、智恵をかさり被成、我のみよきと思召ハ、ついしょうを御好
   被成候、左候へ者、正直の者日々に退き口をとち申候、いつはりを退け、正直を御貴
   ひ被成候事、風俗の正敷被成候本にて御座候
一、大人は、おこりを御戒被成候を第一にて候、雨ふれともかいをはらすと申事、おろかな
   る様に聞へ候得とも、万事ニ渡る言葉と奉存候、下の困窮を口には御憐候へとも、御
   身にハ栄耀を御尽し被成候事、御心に誠なき故に御言葉と御行ひ相違仕候
一、大人の御道具に御者数寄好まさる事と奉存候、侈りの第一是より始り申候、大人の
   御物数寄は、よき人を御撰ミ、武道・文道よき道御聞被成候事、第一之物数寄と奉存
   候、不入物数寄ハついえと申侈と申、専ら戒むる事と古人申置候、太閤の御時大名
   衆御宝くらべの時、家康様被仰候ハ、誰々と申物を持候と被仰候、此事謹言と奉存候、
   昔東山殿(足利義政)いはれぬ御物数寄にて、今迄も東山御物とて、土民・商人も取
   伝持廻り候ハ、東山殿御恥を末代迄も残したる物と被存候、御道具の御物すきほと、
   公方の御勤被成、其家も長久に候半ものを、御家亡ひ御物とも散失せ、賎敷者まても
   てあそひ被成申候、御恥辱と被存候
一、大人ハ常に安楽にまし/\て、下の苦を御存なき故、御政ハ候得共、下の者に不通
   候、常々賎敷道ども聞召事専要に被存候、草履取者の寒き事も御存知被成可然奉存
   候
一、大人ハ、万事御心にあわぬ事を御堪忍つよく無御座候得共、万人の父母とハ不申候、
   物毎我儘に候まて思召候へ者、万人のあたにて御座候、一人の御心を御楽み可被成
   とて、万人を安楽にてにと思召候得者、一人の御安楽も、長久に、たとひ下を御くるし
   め候とても苦とも不存、誠より出申憐ハ金銀にも勝れ、金銀知行を被下候而も御心に
   不仁に思し召し、下の根深く面にはしたかへとも、心にハ不義を存候、下の義と不義ハ
   上の仁不仁にあり
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麻地酒

2009-07-08 13:28:19 | 徒然
 酒徒善人に愛された、雑誌「酒」の編集長であった故・佐々木久子さんのエッセイに、「酒茶問答」という本にある一文を紹介したものがある。昔の人は何かに事づけしてお酒飲もうと考えた。お正月のお屠蘇から始まり、如月の治聾酒、弥生の桃の酒、卯月のいり酒、皐月の菖蒲酒、水無月の麻地酒、葉月の月見酒、長月の菊の酒、十月の蛭子講の酒といったものだ。

 佐々木さんは「水無月の麻地酒」(肥後産の銘酒)と紹介されているが、どうやらこれは間違いのようだ。敬愛する佐々木さんの揚げ足をとるようで心苦しいが・・・

「麻地酒」とは豊後日出藩で作られたものらしい。
「お寺の小坊主が甘酒を盗み飲みして、残りを麻畑に埋めておいたら時を経て素晴らしい味のお酒に替わっていた」故に麻地酒と名付けられたという民話風の話がある。
              http://tenjin.coara.or.jp/~primrose/mati3.html

大分県酒造組合のHPを見ると次のように紹介されている。
麻地酒は、蒸し米、米麹、水を仕込み、密封して土の中に埋め、翌年の土用頃まで熟成させてつくる甘美な濁り酒。「甫庵太閤記(ふあんたいこうき)」、「御伽草子(おとぎぞうし)」にもその名が見えます。土の中に埋め、草茅などで覆うので「土かぶり」とも呼ばれていたようです。日出藩は暘谷城(ようこくじょう)の二の丸に麻地酒をつくって貯蔵し、幕府への献上品としていました。

熊本では銘酒「美少年」が不祥事を起こして会社更生法の申請をし、新たな経営陣が入り再建に向った。がんばれ新生美少年・・・
      
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諫書とか封事とか

2009-07-08 10:51:01 | 歴史
 綱利と生母・清高院に対する、筆頭家老・長岡佐渡守(松井興長)の諫言の書をご紹介してきた。これはかなり痛烈なものであり、読んだお二方はさぞかし頭に血が上られたことであろう。綱利に対しては別途、田中左兵衛の諫言の書(諫言之覚 田中左兵衛氏久封事・・寛文六年)がある。熊本県立図書館の「上妻文庫」に所収されている。これも又ご紹介したいと思っている。

 諫言とか封事とかいわれる上書は、この他にも結構ある。
一番有名なのは、宗孝時代の「吉村文右衛門上書」であろう。これを引用して歴史家(又はそれらしい人)は、悪政だったと攻め立てる。財政は破綻し、天災による大飢饉に見舞われた時代であるから、宗孝が攻められるのは少し可愛そうな気もする。
そして重賢が登場し、大奉行・堀平太左衛門勝名により「宝暦の改革」が断行される事に成る。そんな中でも封事は上がる。益田弥一右衛門による「言上書」である。これは堀勝名の治政に対するものだが、重賢は勝名にこれを渡し見解を正している。堀勝名の反論の書「申開書」が現存する。弥一右衛門はこれをもって引き下がった。
同時代、弓削清左衛門のたわいも無い言上書もあるが、一族が清左衛門を隠居せしめるというおまけがついた。
文化九年齊樹の初入国に際し、中山市之進が「封事」を上げている。

 これらに目を通すと、松井興長の「諫言」がまったく異質のものである事が判る。
遠く「御国」から離れた江戸の地で、自由奔放に振舞い育っていく藩主に対する、決死の思いが胸に迫る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする