熊本市と福井市とは姉妹都市である。その締結の経緯は熊本市のサイトによると次のようにある。
「肥後熊本藩主・細川斉護公の娘である勇姫の越前福井藩主・松平慶永(春嶽)公への輿入れ(1840年)、郷土の先哲・横井小楠が福井藩の藩政改革にあたるなど、深い歴史的縁のある都市です。このような歴史的背景がきっかけになり、平成6年11月16日、熊本市において姉妹都市盟約書調印式を行いました」
松平慶永(春嶽)は田安徳川家三代斉匡の八男である。斉匡は一橋徳川家から田安家に養子として入ったが、一橋家の長兄が徳川将軍家十一代の家斉であり、妹・紀姫が細川斉樹に嫁いだ。その斉樹の孫が慶永に嫁いだ勇姫である。慶永からすると細川斉樹室・紀姫は叔母であり、室となる勇姫は従兄弟の娘という関係にある。
縁談は松平家から申し入れがあったらしい。将軍家斉の妹を迎えている細川家も、松平家からの縁談には躊躇しているが、斉樹室・紀姫の薦めもあり婚儀へと至るのである。後の福井藩からの肥後藩士・横井小楠の招聘も、松平-細川の婚姻関係によることも影響していることは間違いなかろう。全ては此処からスタートしている。
「事実は小説よりも奇なり」というが、結婚直後離縁問題が生じていた。事実勇姫は松平家を出て龍口邸に帰っている。このことについては、高橋みゆき氏の論文「近世大名家の婚姻--熊本藩と福井藩の婚姻・勇姫の事例を中心に--」に詳しい。表立った史料が無く、隠れた史料を丹念に積み上げての勝れた論文である。ご一読をお薦めする。
福井藩のこの時期における財政破綻状況が、勇姫を苦しめているし、横井小楠の任用という事態もここが起因している。
「肥後熊本藩主・細川斉護公の娘である勇姫の越前福井藩主・松平慶永(春嶽)公への輿入れ(1840年)、郷土の先哲・横井小楠が福井藩の藩政改革にあたるなど、深い歴史的縁のある都市です。このような歴史的背景がきっかけになり、平成6年11月16日、熊本市において姉妹都市盟約書調印式を行いました」
松平慶永(春嶽)は田安徳川家三代斉匡の八男である。斉匡は一橋徳川家から田安家に養子として入ったが、一橋家の長兄が徳川将軍家十一代の家斉であり、妹・紀姫が細川斉樹に嫁いだ。その斉樹の孫が慶永に嫁いだ勇姫である。慶永からすると細川斉樹室・紀姫は叔母であり、室となる勇姫は従兄弟の娘という関係にある。
縁談は松平家から申し入れがあったらしい。将軍家斉の妹を迎えている細川家も、松平家からの縁談には躊躇しているが、斉樹室・紀姫の薦めもあり婚儀へと至るのである。後の福井藩からの肥後藩士・横井小楠の招聘も、松平-細川の婚姻関係によることも影響していることは間違いなかろう。全ては此処からスタートしている。
「事実は小説よりも奇なり」というが、結婚直後離縁問題が生じていた。事実勇姫は松平家を出て龍口邸に帰っている。このことについては、高橋みゆき氏の論文「近世大名家の婚姻--熊本藩と福井藩の婚姻・勇姫の事例を中心に--」に詳しい。表立った史料が無く、隠れた史料を丹念に積み上げての勝れた論文である。ご一読をお薦めする。
福井藩のこの時期における財政破綻状況が、勇姫を苦しめているし、横井小楠の任用という事態もここが起因している。