永青文庫に「秘書」なる文書が残されている。綱利家督の経緯や、生母・清高院や綱利への諫書が収められているのだが、書き残したのは後の大奉行・堀勝名である。まさに秘事であり、奥深く収められていたものであろう。
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承應二年佐渡(長岡興長)在府之内、君(綱利)御幼年ニ而、御母清高院様美麗を御好、不時の御遊宴なと日夜御物入多かりけれハ、沢村宇右衛門と会談し、十三ケ条の諫書を調へ、御老女海津(岩間六兵衛室)を以て呈進せしかハ、御返事を下し賜ふ 諫書、仮名書にて事長けれハ略す
一筆まいらせ候、先々その屋しきニ而、御六殿(綱利)一たん御きけんの事めてたく存
候、此屋しきにて七之助殿(細川利重)御そく才ニ御座候まゝ、御心やすかるへく候、
扨ハひとひの書付のおもて、くわしく見申候御事ニ御座候、万 御六殿御ためと御ざ候
ての、いけんうけ給らぬハいかゝとそんし候て、ばんじかってんいたし申事ニ御座候
三千石にて、いかやうといたし申へきよし御申給候、おゝかたの事ハ、もと/\の十歩
一(十分の一)ほとに申つけ候ハんと存候、台所むきも左様にいたし候ハんと申事ニ御
座候、左様にてハ中々申間敷よし申候而、せうしニそんし候、此上ハせひにおよハぬ事
にて御入候まゝ、両人の御そうたんなされ給へく候、くわしき事ハかいつ(老女・海津)
へ申候まゝ、左様に御心得候へく候、御ふたり御としより候て、かやうニいけん御申と、
そんしうけ給候まゝ、今よりさき/\もあしき事御ざ候ハゝ、御申候て給るへく候、めて
たくかしく、
返す/\、くわしき事は、かいつへ申候まゝ、左様に御心得候へく候、かしく、
五月十七日 清高院
長岡さとのかミ殿
沢むらうへもん殿
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綱利は寛永20年(1643)のうまれ、慶安3年(1650)七歳で遺領相続をしている。
諫書が上げられたのは承應2年(1653)のことだが、この年十二月六丸は登城して従四位下侍従に叙任、諱の一字を拝領して越中守綱利と名乗った。
万治三年(1660)、興長は綱利に対して諫書を上げる。綱利の目にあまる「相撲道楽」についてである。次回ご紹介する。
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承應二年佐渡(長岡興長)在府之内、君(綱利)御幼年ニ而、御母清高院様美麗を御好、不時の御遊宴なと日夜御物入多かりけれハ、沢村宇右衛門と会談し、十三ケ条の諫書を調へ、御老女海津(岩間六兵衛室)を以て呈進せしかハ、御返事を下し賜ふ 諫書、仮名書にて事長けれハ略す
一筆まいらせ候、先々その屋しきニ而、御六殿(綱利)一たん御きけんの事めてたく存
候、此屋しきにて七之助殿(細川利重)御そく才ニ御座候まゝ、御心やすかるへく候、
扨ハひとひの書付のおもて、くわしく見申候御事ニ御座候、万 御六殿御ためと御ざ候
ての、いけんうけ給らぬハいかゝとそんし候て、ばんじかってんいたし申事ニ御座候
三千石にて、いかやうといたし申へきよし御申給候、おゝかたの事ハ、もと/\の十歩
一(十分の一)ほとに申つけ候ハんと存候、台所むきも左様にいたし候ハんと申事ニ御
座候、左様にてハ中々申間敷よし申候而、せうしニそんし候、此上ハせひにおよハぬ事
にて御入候まゝ、両人の御そうたんなされ給へく候、くわしき事ハかいつ(老女・海津)
へ申候まゝ、左様に御心得候へく候、御ふたり御としより候て、かやうニいけん御申と、
そんしうけ給候まゝ、今よりさき/\もあしき事御ざ候ハゝ、御申候て給るへく候、めて
たくかしく、
返す/\、くわしき事は、かいつへ申候まゝ、左様に御心得候へく候、かしく、
五月十七日 清高院
長岡さとのかミ殿
沢むらうへもん殿
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綱利は寛永20年(1643)のうまれ、慶安3年(1650)七歳で遺領相続をしている。
諫書が上げられたのは承應2年(1653)のことだが、この年十二月六丸は登城して従四位下侍従に叙任、諱の一字を拝領して越中守綱利と名乗った。
万治三年(1660)、興長は綱利に対して諫書を上げる。綱利の目にあまる「相撲道楽」についてである。次回ご紹介する。