先日のブログ「細川家家臣・郡(勘右衛門)家」に寄せて 、埼玉のTK様から次のようなコメントをメールで頂戴した。厚く御礼申上げると共にご承諾を頂戴して該当部分をご紹介する。
■足利義昭は、天文六年生れで、堀孫四郎こと上野大和守秀政も寵童あがりという事情からほぼ同年代もしくはそれより若い人ではないかと思われます。また、眞木嶋玄蕃頭昭光は、正保三年百十余歳で没したとすると、足利義昭と同年代と推定されます。この三人がほぼ同年代とすると、秀政を昭光の聟とするのはありえなくはないものの、一寸世代ギャップを感じます。昭光は長寿の人なので子女も色々いたのかもしれませんが、昭光の聟となると、細川家臣氏家宗入の子氏家志摩守元高と相聟にもなるわけで、やはり世代の違和感が感じられます。
■ところで、「鹿苑日録」を見ますと、足利昌山の旧臣に上野中務某がおり、慶長二年昌山他界の際に、眞木嶋昭光に続いて上野中務の息二人勘左衞門・御吉が剃髪した記事があります。私は、上野中務は上野秀政の嗣子で、昭光の聟は、秀政ではなく、中務なのではないかと推測しています。そして「鹿苑日録」に見える中務の子勘左衞門は、細川家中の郡勘右衞門家の祖で、後に五左衞門を称したのではないかとも考えております。秀政の「子」が昭光の聟というのであれば、世代的はすっきりするのですが、いかがでしょうか。
■田家の記録、郡家伝来の記録等によると、豐臣家臣郡主馬首宗保の長女細川忠興側室と四女三淵光行妻の生母は、郡宗保の先妻出雲の人野村平次右衞門の女です。
■郡宗保の長女お藤は、荒木村重の一類三十餘人と共に虜囚となりましたが、乳母に匿われ、後に織田七兵衞尉信澄の侍女となり、明智左馬助光春内方に遣されました。次で細川忠興の側妾となり、松の丸殿と稱せられ、一女御古保〔長岡佐渡守興長の後妻〕を生みました。寛永六年六月十九日豐前小倉に於て死去。法名靈雲院貞岸正榮。
■郡宗保の四女慶壽院は、初め明智舊臣木村伊勢守に嫁しました。或時伊勢守の子を死産し、豐臣秀吉家臣萱野彌三左衞門長政の妻女偶々同時に産んだ兒を乞取りました。この兒は長じて田家に仕え、郡正太夫慶成を稱しました。天正年中奥州仕置の不手際から木村家が改易されると、母子共に宗保の妹聟餘田源兵衞重政方に寄食しました。後に三淵伯耆守光行に再嫁し、嫡子三淵縫殿助藤利、次子郡右兵衞〔彌四郎藤正號形庵〕、三子三淵山入を生みました。
■足利義昭は、天文六年生れで、堀孫四郎こと上野大和守秀政も寵童あがりという事情からほぼ同年代もしくはそれより若い人ではないかと思われます。また、眞木嶋玄蕃頭昭光は、正保三年百十余歳で没したとすると、足利義昭と同年代と推定されます。この三人がほぼ同年代とすると、秀政を昭光の聟とするのはありえなくはないものの、一寸世代ギャップを感じます。昭光は長寿の人なので子女も色々いたのかもしれませんが、昭光の聟となると、細川家臣氏家宗入の子氏家志摩守元高と相聟にもなるわけで、やはり世代の違和感が感じられます。
■ところで、「鹿苑日録」を見ますと、足利昌山の旧臣に上野中務某がおり、慶長二年昌山他界の際に、眞木嶋昭光に続いて上野中務の息二人勘左衞門・御吉が剃髪した記事があります。私は、上野中務は上野秀政の嗣子で、昭光の聟は、秀政ではなく、中務なのではないかと推測しています。そして「鹿苑日録」に見える中務の子勘左衞門は、細川家中の郡勘右衞門家の祖で、後に五左衞門を称したのではないかとも考えております。秀政の「子」が昭光の聟というのであれば、世代的はすっきりするのですが、いかがでしょうか。
■田家の記録、郡家伝来の記録等によると、豐臣家臣郡主馬首宗保の長女細川忠興側室と四女三淵光行妻の生母は、郡宗保の先妻出雲の人野村平次右衞門の女です。
■郡宗保の長女お藤は、荒木村重の一類三十餘人と共に虜囚となりましたが、乳母に匿われ、後に織田七兵衞尉信澄の侍女となり、明智左馬助光春内方に遣されました。次で細川忠興の側妾となり、松の丸殿と稱せられ、一女御古保〔長岡佐渡守興長の後妻〕を生みました。寛永六年六月十九日豐前小倉に於て死去。法名靈雲院貞岸正榮。
■郡宗保の四女慶壽院は、初め明智舊臣木村伊勢守に嫁しました。或時伊勢守の子を死産し、豐臣秀吉家臣萱野彌三左衞門長政の妻女偶々同時に産んだ兒を乞取りました。この兒は長じて田家に仕え、郡正太夫慶成を稱しました。天正年中奥州仕置の不手際から木村家が改易されると、母子共に宗保の妹聟餘田源兵衞重政方に寄食しました。後に三淵伯耆守光行に再嫁し、嫡子三淵縫殿助藤利、次子郡右兵衞〔彌四郎藤正號形庵〕、三子三淵山入を生みました。