津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「細川家家臣・郡(勘右衛門)家」に寄せて

2009-07-29 22:24:56 | 歴史
 先日のブログ「細川家家臣・郡(勘右衛門)家」に寄せて 、埼玉のTK様から次のようなコメントをメールで頂戴した。厚く御礼申上げると共にご承諾を頂戴して該当部分をご紹介する。

■足利義昭は、天文六年生れで、堀孫四郎こと上野大和守秀政も寵童あがりという事情からほぼ同年代もしくはそれより若い人ではないかと思われます。また、眞木嶋玄蕃頭昭光は、正保三年百十余歳で没したとすると、足利義昭と同年代と推定されます。この三人がほぼ同年代とすると、秀政を昭光の聟とするのはありえなくはないものの、一寸世代ギャップを感じます。昭光は長寿の人なので子女も色々いたのかもしれませんが、昭光の聟となると、細川家臣氏家宗入の子氏家志摩守元高と相聟にもなるわけで、やはり世代の違和感が感じられます。

■ところで、「鹿苑日録」を見ますと、足利昌山の旧臣に上野中務某がおり、慶長二年昌山他界の際に、眞木嶋昭光に続いて上野中務の息二人勘左衞門・御吉が剃髪した記事があります。私は、上野中務は上野秀政の嗣子で、昭光の聟は、秀政ではなく、中務なのではないかと推測しています。そして「鹿苑日録」に見える中務の子勘左衞門は、細川家中の郡勘右衞門家の祖で、後に五左衞門を称したのではないかとも考えております。秀政の「子」が昭光の聟というのであれば、世代的はすっきりするのですが、いかがでしょうか。

■田家の記録、郡家伝来の記録等によると、豐臣家臣郡主馬首宗保の長女細川忠興側室と四女三淵光行妻の生母は、郡宗保の先妻出雲の人野村平次右衞門の女です。

■郡宗保の長女お藤は、荒木村重の一類三十餘人と共に虜囚となりましたが、乳母に匿われ、後に織田七兵衞尉信澄の侍女となり、明智左馬助光春内方に遣されました。次で細川忠興の側妾となり、松の丸殿と稱せられ、一女御古保〔長岡佐渡守興長の後妻〕を生みました。寛永六年六月十九日豐前小倉に於て死去。法名靈雲院貞岸正榮。

■郡宗保の四女慶壽院は、初め明智舊臣木村伊勢守に嫁しました。或時伊勢守の子を死産し、豐臣秀吉家臣萱野彌三左衞門長政の妻女偶々同時に産んだ兒を乞取りました。この兒は長じて田家に仕え、郡正太夫慶成を稱しました。天正年中奥州仕置の不手際から木村家が改易されると、母子共に宗保の妹聟餘田源兵衞重政方に寄食しました。後に三淵伯耆守光行に再嫁し、嫡子三淵縫殿助藤利、次子郡右兵衞〔彌四郎藤正號形庵〕、三子三淵山入を生みました。

コメント (3)
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細川家家臣・竹田氏

2009-07-29 19:02:13 | 歴史
 細川家家臣竹田家の初代は平大夫である。先祖附によると平大夫父半左衛門の叔母が、松井佐渡守室・自徳院であることから、真源院御部屋住みの頃召し出されたという。しかしながらご機嫌を損ね御暇、有馬一揆に牢人の身を以って参陣して、後帰参が叶ったとされる。寛政四年竹田半弥なる人が、半左衛門以前の先祖附を別途提出している。これによると、以下之如くである。

        竹田梅松軒---+--松井織部---松井角左衛門・・・→松井家家臣竹田家
                  |
                  +--源助長勝
                  |
                  +--永翁
                  |         初代
                  +--半左衛門---平大夫・・・・・・・・→細川家家臣竹田家

    一、私先祖竹田梅松軒法師武者ニ而外ニ俗名無御座候
    一、松井織部儀右梅松軒嫡子ニ而御座候處大坂御陳前廉松井康之養子ニ相成申候
       然處其後智梅院殿出生ニ付織部自退仕候故知行千石為合力被遣置嫡子角左衛
       門代より家司ニ相成申候 今以松井角左衛門子孫松井名字免無之内者竹田を名
       乗申候
    一、竹田永翁右梅松軒次男ニ而御座候 梅松軒同前ニ而俗名無御座候
       太閤様より領地■■茂被下置大坂御陳之節御馬■并雑兵八千預リ申候由天王寺
       表江出張■立申候様子者大坂御陳之御絵図ニ相見申候通ニ御座候
    一、私高祖父竹田半左衛門儀右梅松軒三男にて御座候

        右者當時邊差出来候先祖附右之通御座候 以上

         寛政四年八月        竹田半弥

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  寛政四年月表示のない先祖附がいま一通存在している。これは森羅三郎義光に遡る
  ものだが、これについては今回は取り上げないことにする。

追記:PM22.12
ちょっとまずいことになった。いま一通ある先祖附は、ここに上げた先祖附に修正が加えられていた。
織部と永翁の間に源助長勝という人が在った。明日改めてUPすることにして、今日はお断りに止める。

       
            
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田中左兵衛のこと・・続

2009-07-29 17:55:23 | 歴史
 今日の熊本地方は大雨の予想、朝からぱらぱらしていたが、どうしても調べなければ成らぬことがあり図書館に出かける。
お目当ては田中左兵衛の出自である。名門田中家の先祖附にしては書き出しが至ってシンプルである。

     先祖田中左兵衛儀長門國長府之産ニ而佐久間忠助と申候 
     実父佐久間玄蕃外祖父江良但馬と申候 但馬儀は毛利
     秀元公之御家来ニ而御座候 忠助儀於豊前田中兵庫養子
     ニ仰付(初代)田中左兵衛と■名相改申候 元和七年八月
     十七歳之時 妙解院様江御中小姓江被召出候 其後真源
     院様御部屋住ニ被成御附候 被召出候節之肝煎は志水伯
     耆ニ而御座候

 元和七年(1621)十七歳だということは、生年は慶長十年(1605)と考えてよかろう。だとすると父親佐久間玄蕃が佐久間盛政(天正十一年没)ではないことは明らかである。
江良但馬と言う人から手がかりは無いか。こちらは大内氏・陶氏につかえたという江良氏だろうか。そうすると忠助の長門國長府の生まれが理解できる。それにしても同名異人の佐久間玄蕃とは如何なる人か、興味は尽きない。

 大雨予想は見事に外れて、爽やかな風が気持ち良い。
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